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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1977
塔77 12/15 739–740ページ

自分を哀れむ気持ちに注意しなさい

アハブ王は自分が惨めに思えてなりませんでした。彼は寝床に身を横たえて壁に顔を向け食べようとしません。どうしたのですか。病気それとも何か悲痛な知らせでもあったのですか。そうではありません。王の悩みは臣下の一人であるナボテが,王宮に隣接する彼の小さな土地を王に売るのを拒んだというだけの事なのです。王がこの土地をそんなにも手に入れたかったのはなぜですか。何か重要な計画でもあったのですか。いいえ。王は野菜畑にするためにその土地が欲しかったのです。所有者がそれを手離すことを拒んだために,王は過度の自己憐憫に陥りました。アハブはふて寝をきめこんだのです。―列王上 21:1-4。

気が小さく,そしてばかげているかのようにさえ王を見せたこの出来事は一転して険悪なものになりました。アハブ王の妃で悪名の高いイゼベルは,ナボテの断わりを素直に受け取ることを拒絶したのです。彼女はナボテを冒とくの罪に陥れることをたくらみました。サマリアの長老たちと身分の尊い人々の法廷はそのたくらみに手をかし,ナボテは石打ちにされて殺されました。こうして弱い王アハブにとって野菜を作る土地を手に入れる道が開かれたのです。―列王上 21:5-16。

アハブ王の例に示されているように,自己憐憫に陥る人は望ましくない道を進んでいます。自己憐憫は,平衡を失うほど過度に自分を気づかうことであるゆえに,きわめて有害なものとなる場合があります。アハブ王の場合のように自己憐憫は人を不きげんにし,けちにならせます。それは人を内向的にさせるあまり,他の人に対する親切な気づかいはだんだん減って,全く失われることさえあります。自分を哀れむ気持ちに負ける人は,重大な事柄に対して曲がった見方をするようになるかもしれず,したがって判断を誤るかもしれません。さらに自己憐憫は人を霊的に弱らせ,またもっと悪いことに圧迫の下で妥協する結果を招いて神の前におけるその人の清い立場を失わせるかもしれません。それで自分を哀れむ気持ちに注意する理由が十分あるのです。

自分を哀れむ気持ちを起こさせる原因にはどんなものがありますか。病気,病弱,経済的な損失あるいは親族や親友の死などの悲痛な出来事が原因となります。アハブの場合のように,失望が自分を哀れむ気持ちをつのらせることもあり得ます。普通の意味での失敗あるいは単に失敗したと思うことだけで,多くの人は自分が惨めに思えてきます。例えば何か新しい事を試みた人が結果はさんざんであったと後で思うかもしれません。その人は挫折と自分を哀れむ気持ちに負けてしまうかもしれません。他の人々がその人を励ますことをせず,あるいはその努力を認めることをしないならばなおのことです。その人はアハブのような反応を示し,他の人々と接するのをやめてしまうことさえあるでしょう。クリスチャンの場合にそのような事があれば,霊的に損失となります。霊的に生き続けるにはクリスチャン兄弟との交わりを欠くことができません。

自分を哀れむ気持ちに打ち勝つには,問題や試練に対して正しい見方を持つことが必要です。不愉快な経験をするならば,難しい時にもりっぱな資質を示す点で自分を向上させる機会とそれをみなすべきです。例えば物事がいつも順調に運んだとすれば,しんぼう強さ,忍耐,自制心が実際に自分にあるかどうか分かるでしょうか。他方,試練となる情況に直面する時,自分に欠けているものがすぐに明白に表われます。これにより自分を改めるのがいっそう容易になります。人は神の言葉を真剣に学ぶことにもっと多くの時間を用い,得た知識を実際に用いるためにいっそうの努力をすることが必要かもしれません。おそらくその人はクリスチャンの立派な資質を表わすことにおいて模範的な人々といっそう交わるようにすべきです。試練に遭う時,それをエホバからの懲らしめ,あるいは訓練とみなす人は,人格の点で自分を向上させるため,疑いなくいっそう努力することでしょう。したがってまた自分を哀れむ気持ちに負けることもそれだけ少なくなります。

試練に対するこのような態度は,霊感による助言とも一致しています。「わたしの兄弟たち,さまざまな試練に遭うとき,それをすべて喜びとしなさい。あなたがたの知っているように,こうして試されるあなたがたの信仰の質は忍耐を生み出すからです。しかし,忍耐にはその働きを全うさせなさい。それは,あなたがたが完全に,またすべての点で健全になり,何事にも欠けるところのない者となるためです」― ヤコブ 1:2-4。

また忠実に耐え忍んだ人々の手本と,彼らがいかにエホバ神に報われたかを常に考えることも助けとなるでしょう。この事をよく示しているのはヨブの例です。彼は持ち物と子供たちのすべてを失いました。また妻と朋友に背かれ,自分自身もいとわしい病気にかかりました。それにもかかわらずヨブは忠実に忍耐し,後にはエホバからの豊かな報いを得ました。エホバは『ヨブをめぐみてその終わりを初めよりも善くしたまえり』と聖書の記録は伝えています。(ヨブ 42:12)この事に注意を引いてクリスチャンである弟子ヤコブは次のように書きました。「ご覧なさい,忍耐した人たちは幸福である,とわたしたちは言います。あなたがたはヨブの忍耐について聞き,エホバがお与えになった結末を見ました。エホバは優しい愛情に富まれ,あわれみ深いかたなのです」― ヤコブ 5:11。

なるほど患難や困難は決してうれしいものではありません。しかし見失ってならないのは,それには終わりがあるという事です。そして自分を哀れむ気持ちにのまれてしまうのを許さずに忠実に忍耐するならば,報いを失うことはありません。聖書はクリスチャンにこう保証しています。「神は不義なかたではないので,あなたがたがこれまで聖なる者たちに仕え,いまなお仕えつづけているその働きと,こうしてみ名に示した愛とを忘れたりはされない」。(ヘブライ 6:10)ヨブをはじめエホバの忠実なしもべの多くの経験は,その事を十分に証ししています。

自己憐憫を克服するもうひとつの助けは,自分のことよりも他の人々のことをいっそう気づかうよう誠実に努力することです。これは聖書の次の助言と一致します。「おのおの自分の益ではなく,他の人の益を求めてゆきなさい」。(コリント第一 10:24)同じ人間である他の人の幸福と福祉を増進するために時間と精力と自分の持つものを積極的に与える人は,自分が幸福になります。「受けるより与えるほうが幸福である」と聖書は述べています。―使徒 20:35。

自分を哀れむ気持ちに負けやすい人に対しても,わたしたちは個人的に力になることができます。人間にとって基本的に必要なのは愛されることです。それゆえに,わたしたちは自分を哀れむ傾向のある人を助けることができるのです。どのようにですか。彼らが必要とされ,愛され,感謝されているという事実を彼らに気づかせることによってです。彼らが他の人々の幸福にいかに直接に寄与しているかを彼らに示すのもひとつの方法です。さらに自己憐憫の害を率直また親切に指摘する一方で,心からの感謝や激励の言葉は彼らの気持ちを引き立てるのに大そう効果があります。

自己憐憫が引き起こす様々な問題を考える時,この好ましくない情緒に負けないようにするのは確かに十分いわれのあることです。この気持ちと戦う人は,それによって人生がいっそう幸福なものになることを体験し,またいっそうの満足を覚えるでしょう。

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