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  • 山上の垂訓 ― 姦淫と離婚を避ける
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1978
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1978
塔78 8/15 8–10ページ

山上の垂訓 ― 姦淫と離婚を避ける

イエスは,怒りを抱き続けるなら死を招くということについて話した後,十戒の第七番目の次のような戒めに注意を向けられました。「『あなたは姦淫を犯してはならない』と言われたのをあなたがたは聞きました」― マタイ 5:27。出エジプト 20:14。申命 5:18。

神の律法下では,姦淫に対する処罰は厳しく,罪を犯した双方にとって死を意味しました。これは,婚約した女性が,婚約者以外の男性と関係を持った場合にさえ適用されました。―申命 22:22-24。

しかしイエスは,姦淫という行為を避ける以上の事柄について語っておられます。イエスはこう言われました。「わたしはあなたがたに言いますが,[だれでも既婚の男性で]女を見つづけてその女に情欲をいだく者はみな,すでに心の中でその女と姦淫を犯したのです」。(マタイ 5:28)イエスはまた別の時に,姦淫を,人の心の中にある不道徳な欲望と結び付け,次のように言われました。『内側から,つまり人の心から……姦淫……など害になる推論が出て来るのです』。(マルコ 7:21,22)これは,他の男の人の妻を見て刺激され姦淫を犯すに至ったダビデの経験から理解できます。―サムエル後 11:2-4。

イエスはここで,人が即座に払いのけるような時折起こる不道徳な思いについて語っておられるのではありません。むしろイエスは,男性が「女を見つづけて」女に対してみだらな欲望をつのらせる状態について語っておられるのです。姦淫を犯すことをひたすら望む人は機会があればそれを実行に移すということを,「心がどうかを見る」神はご存じです。(サムエル前 16:7,新)神はその行為を,愛情と欲望と動機の座である「心の中で」すでに犯されたものとみなされます。

人はどうすれば姦淫を犯すのを避けられるでしょうか。イエスは説明的な言葉でこう語られました。「そこで,もしあなたの右の目があなたをつまずかせているなら,それをえぐり出して捨て去りなさい。全身をゲヘナに投げ込まれるよりは,肢体の一つを失うほうがあなたの益になるのです。また,もしあなたの右の手があなたをつまずかせているなら,それを切り離して捨て去りなさい。全身がゲヘナに落ちるよりは,肢体の一つを失うほうがあなたの益になるのです」― マタイ 5:29,30。

聖書は正しい行動を『神と共に歩むこと』として述べています。(創世 5:22; 6:9)もし「右の目」(ここでは目の集中力を表わす)あるいは「右の手」(自分の手を用いる場合のように,人が行なう事柄を意味している)が人を『つまずかせる』,つまり神への従順という道を踏みはずさせるとしたらどうでしょうか。そのような場合,人は,目をえぐり出し手を切り離すに等しい行動を起こさねばなりません。なぜそのように言えるのでしょうか。

目は思いへの重要な伝達経路であり,感情や行動に強い影響を与えるため,目が,ふさわしくない光景を見つづけないよう抑制しなければなりません。(箴 4:25。ルカ 11:34)ヨブは次のように述べて,ふさわしい物の見方を言い表わしました。「わたしは,わたしの目と契約を結んだ,どうして,おとめを慕うことができようか」― ヨブ 31:1,口。

同様に,人は手や他の肢体を用いて行なうことが道徳に関する聖書の基準に反しないように注意している必要があります。この点について使徒パウロは次のように書いています。「ですから,淫行,汚れ,性欲,有害な欲望,また強欲つまり偶像礼拝に関して,地上にあるあなたがたの肢体を死んだものとしなさい」― コロサイ 3:5。

人々は普通,命を守るためなら文字通り手足を失うことをいといません。イエスの言葉によれば,さらに重要なのは,不道徳な考えや行為を避けるためにひゆ的に言って目や手を『捨て去ること』です。そのようにしてのみ,人は,汚れた物を焼き尽くすために昼夜を問わず火が燃えていたエルサレム近くの「ごみの山」,火の燃えるゲヘナで表わされている永遠の滅びを避けることができるからです。―マタイ 5:29,30,J・B・フィリップス。

イエスは続けてこう言われました。「さらに,『妻を離婚する者はだれでも,離婚証書を彼女に与えなさい』と言われました」。(マタイ 5:31)モーセを通して与えられた神の律法によれば,人が『その妻に恥ずべきことのあるのを見て,好まなくなったならば』妻を離婚することが許されていました。(申命 24:1-4,口)「恥ずべきこと」とは姦淫以外の何かを意味していたと思われます。というのは,前に述べたように,姦淫の罪はモーセの律法下では死刑に値するものだったからです。しかし,神は『離縁する者を憎まれた』のですから,当然離婚の正当な根拠となったものは,妻が夫に対してひどく敬意の欠けた態度を示したり家族に恥をかかせたりするといった重大なものであったに違いありません。―マラキ 2:16,口。

しかし,そうした重大な場合でも,聖書は離婚を命じたり勧めたりはしていません。性急に離婚することを思いとどまらせるものとして,神は,妻を離婚する夫が妻に「離婚証書」を与えねばならないことを定められました。その証書を,用意し,それが法的に認められるまでに時間が必要でした。またその間に,正式に認可された人々に相談することが必要だったかもしれません。それらの人はまず二人を和解させようとしたことでしょう。

しかし時がたつにつれて,ユダヤ人の夫は,あらゆるささいな根拠で妻を離婚することにより,妻を『裏切る』ようになりました。(マラキ 2:13-16,口)イエスの時代の律法学者の一般的な見解では,「妻が夫の皿をこわした場合でさえ」夫は妻を離婚できました。ストラックとビラーベックによるドイツ語聖書の注釈によれば,古代のユダヤ人の書物に記されている多くの事柄は,「ミシュナ期[イエスの時代をも含む]には,離婚証書を与えて全く合法的な仕方で即座に解消できないような結婚はなかった」ことを示しています。それで,パリサイ人がイエスに,離婚は「どんな根拠による場合でも」合法的なのかどうかを尋ねたことは驚くに当たりません。―マタイ 19:3。

離婚に関するイエスの見方はどのようなものでしたか。イエスはこう続けられました。「わたしはあなたがたに言いますが,妻を離婚する者はみな,それが淫行のゆえでないならば,彼女を姦淫にさらすのであり,離婚された女と結婚する者はだれでも姦淫を犯すことになるのです」。(マタイ 5:32)イエスは,メシア,また神のみ子としての全き権限をもって,聖書に述べられている「恥ずべきこと」のためであっても妻を離婚する人は,ご自分の父に喜ばれないということを示されました。(マタイ 19:8と比較してください。)むしろ,性の不道徳以外の理由で妻を離婚する人は,妻が他の人と性関係を持つ場合に,妻を姦淫の危険にさらすことになります。その結婚関係は神の目には依然として続いているからです。イエスはさらに,「離婚された女」,つまり性の不道徳以外の理由で離婚された女「と結婚する者はだれでも姦淫を犯すことになるのです」と言われました。

イエスのこれらの言葉は確かに有益なものです。イエスが性の不道徳を離婚の唯一の根拠と定められたので,神を喜ばせたいと望む夫婦は他の様々な理由で離婚するのを思いとどまることができるのです。また,イエスが,姦淫に至るような不道徳な思いを罪に定めたことは,離婚をさらに減らすのにも役立ちます。山上の垂訓は,その諭しに留意する人々にとって,姦淫と離婚を避けるための強力な助けとなります。

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