イエスの育った場所
編集部員の旅行記
ティベリアのバス発着所に,乗客用の長いすが置かれています。私と妻は,ナザレ行きのバスの乗り場を見付けると,長いすに腰を下ろしました。1,900年余り昔に,イエス・キリストが育った場所をこれから訪れるのだと思うと,期待に胸が高鳴りました。隣の若い女性に,キップのことを尋ねると,「乗ってから払えばよいのですよ」と教えてくれました。
数分すると,バスが入って来ました。このころには,かなりの乗客が待っていました。バスに乗ってから,私たちはもう一度地図を確認しました。ナザレまでは33㌔ほどあります。途中で,カナを通ることが分かりました。これらの場所は,クリスチャンにとって実に意味深い所です。私たち二人は,何年も前から,イスラエルに旅行することをよく話し合っていました。そして,1978年の晩春,その機会が開かれ,私たちはその場所にいたのです!
私たちは団体の貸切りバスで旅行していましたが,この日は団体のツアーは取り決められていませんでした。翌日,私たちのグループがナザレを通ることは知っていましたが,ナザレでもっとゆっくりしたいと思ったので,その日の朝,ガリラヤ湖近くで地元のバスに乗り込みました。イエスが育ち,地上の生涯のかなりの部分を過ごされたのはどんな所だろうか,とこれまでもよく考えたものです。
ナザレに通じる道路
私たちを乗せたバスはティベリアを出てから何回も停車し,そのたびに乗客が増えました。やがて,座席は満員になりました。ガリラヤ湖は海面下210㍍の所にあります。一方,ナザレは,海抜360㍍の所に位置しています。ですから,最初の数㌔は,眼下のガリラヤ湖を背後に,険しい登り道を進みました。イエスや使徒たちがしたように,ここを徒歩で進むのは容易なことではないだろう,と思いました。かなり登った後に,“海抜0㍍”という標示を見るのは随分奇妙なものです。
車中,人々を観察して結構楽しみました。頭に長い白布を巻き付けたアラブ人の男性や作業着姿の農場労働者,軍服を着たイスラエルの兵士など,様々な人がいました。それら兵士の中には女性も少なくありませんでした。やがて,道路は平らになり,肥よくな谷に入りました。タボル山に通じる道路との交差点で,南を望むと,10㌔足らずの所に,この有名な山が見えます。イエスはタボル山の地理に通じておられたに違いありません。そして,おそらく,この山に登られたことでしょう。広々とした美しいエズレルの谷(エスドラエロン平原とも呼ばれる)の東端にそびえるタボル山はナザレの南東わずか8㌔ほどの所にあるのです。
しかし,私たちは南西の方角に向かい,直接ナザレに通じる道を進みました。バスがカナに停車して,乗客が乗り降りしている時,下車して村を見て回りたい衝動に駆られました。しかし,ナザレに早く行きたい気持ちがそうした衝動を抑えました。バスは山岳地帯の山道を登るようになります。カナを6.5㌔ほど過ぎた所で,まず近代の都市ナザレイリート(上ナザレ)に着きました。ここの住民は,みなユダヤ人です。次いで,道を下って,昔からのナザレに入りました。
二つのナザレ
これほど大きな都市が二つ別個にあることは,私たちにとって驚きでした。古いナザレが,アラブ人の都市としてはイスラエル最大の都市であることを教わりました。人口4万人を数えるこの都市は昔に比べると随分大きくなっています。事実,昔のナザレは取るに足りない小さな町であったに違いありません。
この都市は,ヘブライ語聖書の中にも,タルムードの中にも記されておらず,ガリラヤの他の45の都市には言及しているユダヤ人の歴史家フラビウス・ヨセフスの著作の中にも取り上げられていません。しかも,ナザレは,ガリラヤの人々の間でさえ見下されていたようです。イエスの使徒の一人となったナタナエルの「何か良いものがナザレから出ることがあるだろうか」という言葉がそれを示唆しています。(ヨハネ 1:46)19世紀にナザレを訪れたある人は,当時の人口が3,000人ほどであったことを明らかにし,さらにこう語りました。「町の歴史全体を通じて,今ほど町が拡大し,繁栄している時はない。しかも,拡大は続いている」。
急速な拡大の見られたのは近年になってからのことです。1950年当時と比べると,ナザレの規模は二倍になっています。しかも,今日では,私たちが今通って来た東の丘陵地にナザレイリートがあります。ユダヤ人の住む,この新しいナザレイリートは,1957年に建設が開始されました。現在の人口は2万人ほどです。古いナザレより,この新しい都市の方が繁栄しているようです。
親しみのある人々
私たちは,バスを降りると,ナザレの最も古い地域へ歩いて行きました。“マリアの井戸”と呼ばれる場所があり,現在では,その場所に教会が立っています。そこはナザレで唯一の井戸とされていることから,イエスの母マリアも家族のためにこの井戸で水をくんだのかもしれません。
道を歩いていると,開店の準備をしている床屋の主人に呼び止められました。(イスラエルでは多くの人が流ちょうな英語を話すことに気付きました。)立ち止まって話をすると,その人がキリスト教徒であることが分かりました。それまでイスラエルで会ったアラブ人はいずれも回教徒でしたから,このことは私たちにとって幾分驚きでした。「ナザレのアラブ人の半数はクリスチャンで,残りの半数は回教徒です」と,その床屋の主人は言いました。隣の店に目をやりながら,「彼は回教徒ですが,わたしたちはうまくやっていますよ」と言いました。その主人は,店の中に入って涼み,お茶でも飲んでいくようにとしきりに勧めてくれました。残念でしたが,私たちは他の場所も見たいと思っていたので,その申し出を丁重に断わりました。
ほんの数分進むと,迷路のような曲がりくねった狭い道に入りました。この道路の中央は,ロバが歩けるように,一段低くなっていました。通りの両側には露店が並び,ありとあらゆる品物が売られていました。路上に服をつり下げている店もあれば,子羊の肉をかぎづめに掛けて店頭につるしている店もありました。重い荷を載せたロバがやって来るのを見ていると,イエスがここで生活しておられた2,000年近く昔の光景をながめているような気持ちになりました。
一休みして,何かを食べようと思い,ある店に立ち寄りました。この店には,ありとあらゆる種類のおいしそうなナッツやドライフルーツの入った南京袋が並んでいました。店主は特有の親切心から,私たちに,座って,アラブのコーヒーを飲むよう,勧めてくれました。コーヒーを飲みながら,現代のナザレの生活について,幾らかの知識を得ました。その場に,18歳になるキリスト教徒のアラブ人がいたのですが,私たちが聖書に関心を持っていることを知ると,親切にも,案内役を買って出てくれました。
実り多い聖書についての話し合い
私たちは,聖書中の特定の出来事の背景となっている場所を捜し当てることに関心がありました。イエスの教えを聞いて怒りに満たされたナザレの住民は,「彼を市の外へせき立て,彼らの都市が建てられた山のがけばたに連れて行った。彼をさかさに投げ落とそうとしてであった。しかしイエスは彼らのまん中を通り抜け,自分の道を進んで行かれた」と,聖書は記録しています。(ルカ 4:28-30)ガイド役をしてくれるジュリアンは,この出来事の起きた場所とされている町の南に,私たちを案内してくれました。
私たちは,ジュリアンが聖書に関心を持っているのを知ってうれしくなりました。ジュリアンは福音聖書(今日の英語聖書)を持っており,それを読むのが楽しみだと言いました。道々,ジュリアンは,前述の出来事の際,イエスはがけから投げ落とされたものの奇跡的に連れ戻された,とナザレの司祭に教えられたことを話しました。私は聖書を持っていたので,それを開いて,この出来事の記されている部分を読みました。もちろん,そこには,そのようなことが起きたとは書かれていません。
私たちはジュリアンから一つの質問を尋ねられました。「いろいろな人に尋ねてみたのですが,満足のいく答えは得られませんでした。イエスには兄弟や姉妹がいたのでしょうか」。
それに答えるために,私は聖書を開き,マタイ 13章54-56節を示しました。そこには,「ヤコブ,ヨセフ,シモン,ユダ」と呼ばれるイエスの「兄弟たち」の名が記されています。また,「彼の姉妹たちは,みんなわたしたちとともにいるではないか」とも書かれています。さらに,聖書がはっきりと,『マリアが初子を産むまで』,ヨセフは彼女と関係を持たなかったと述べている点も説明しました。―マタイ 1:25,ドウェー訳。
ジュリアンは,マリアが永遠の処女であったとするカトリックの教えが聖書に基づいていないことを認めました。「そして,リンボや煉獄,それに悪人が地獄で永遠の責め苦に遭うという教えなど,教会の教えの中には聖書に基づいていないものがまだ他にもあります」と,私は付け加えました。ジュリアンは,教会のこうした教えと聖書の述べている事柄との間に相違のあることを認めました。聖書に書かれていることだけを信じるというジュリアンの言葉を聞いて,私たちはうれしくなりました。
そうこうしているうちに,町の外れに着きました。なるほど,ここは山のがけっぷちになっています。町の人々がイエスをここから投げ落とそうとしたことは十分考えられます。ジュリアンは,イエスが2,000年近く昔にナザレに住んでいた実在の人物であることを信じているようでした。「ところで,現在,イエスは生きていて,わたしたちを益する立場におられることを信じていますか」と,ジュリアンに尋ねてみました。「憎しみや偏見の満ちている現在の世界の状態を変革するために,イエスがある事を行なおうとしておられることを信じていますか」。
ジュリアンは,ためらわずに,「信じています」と答えました。そして,来たるべき王が貧しい人を公正に裁き,義をもって人々を治める聖句に言及しました。私は胸を踊らせながら,聖書のイザヤ 11章を開き,これがジュリアンの考えていた聖句ではないかと尋ね,読み始めました。「正義をもって貧しい者をさばき,公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし,その口のむちをもって国を撃ち,そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。正義はその腰の帯となり,忠信はその身の帯となる」― 4,5節,口。
ジュリアンは,私が読んでいるのをさえぎって,それが自分の考えていた聖句です,と言いました。私は,これがメシアであるイエスに関する預言であることをジュリアンに指摘しました。それから,キリストの支配の下で享受する平和について述べる残りの聖句に彼の注意を向けました。その聖句は,一部次のように述べています。「おおかみは小羊と共にやどり,ひょうは子やぎと共に伏し,子牛,若じし,肥えたる家畜は共にいて,小さいわらべに導かれ,雌牛と熊とは食い物を共にし,牛の子と熊の子と共に伏し,ししは牛のようにわらを食(らう)……彼らはわが聖なる山のどこにおいても,そこなうことなく,やぶることがない。水が海をおおっているように,[エホバ]を知る知識が地に満ちるからである」― 6-9節,口[新]。
ジュリアンは,この聖句をよく知っていて,「それはわたしの大好きな聖句です」と言いました。私も,この聖書の言葉がずっと以前から好きだったことをジュリアンに告げました。そして,こう言いました。「わたしたちは,それが,やがて文字通り成就することを信じています。ずっと昔に,イエスがガリラヤのこの地方で病人をいやしたり,死人をよみがえらせたりなさったことは,ご自分の王国の下で,イエスが全地で行なわれることのほんの先触れにすぎないのです」。
イエスの訪れた場所
このような話し合いをしながら,私たちは再びナザレに向かっていました。イエスの奇跡の一つに関連して,私はナインという名の都市に触れ,『イエスはそこでやもめの息子をよみがえらせた』ことを話しました。(ルカ 7:11-17)そして,南東のエズレルの谷を指差し,「ここから8,9㌔ほどの所にナインと呼ばれる村があります。そこは,聖書に述べられている村と同じ場所にあります」と言いました。
ジュリアンは,その村に行ったことはありませんでしたが,ナインから遠くないタボル山には友人と歩いて行ったことがある,と言いました。それは私たちにとって興味深いことでした。というのは,イエスも,若い時分,ナザレの近くのそうした場所に歩いて行かれたに違いないからです。ナザレはエズレルの谷に面する丘陵地に立っていますから,谷まではそう遠くありません。ある朝早く,ジュリアンは数人の友人と連れ立ってナザレをたち,徒歩でエズレルの谷へと下って行き,タボル山を通って,ガリラヤ湖の近くまで行き,それから帰宅したそうです。このすべてを一日のうちに行なったのです。「その日の晩は,みなくたくたになりました」と,ジュリアンは言いました。
この経験は,前述のナインに関する聖書の記述のある一面の理解に光を投げかけました。どうしてですか。ルカ 7章1節によると,イエスは,有名な山上の垂訓を話された後,『カペルナウムに入られました』。ガリラヤ湖北岸の同市に滞在中,イエスはある士官の奴隷をいやしました。(ルカ 7:1-10)そして,11節にはこう書かれています。「このあとすぐ」もしくは幾つかの古代の写本によると,「その次の日,イエスはナインという都市に旅行された」。(ルカ 7:11,英文新世界訳大版脚注)それは優に30㌔を越え,こうした丘陵地をイエスやその同行者が一日で歩くには非常に長い距離です。ですから今日,同じ険しい地形の道を,徒歩でこれよりさらに長い距離歩けたということは,私たちにとって意味のあることでした。
ティベリアに戻る途中,アラブ人の村カナに寄ってみたいと話したところ,自分が案内したい,とジュリアンが言いました。そして,私たちのバス代まで払ってくれるといってききませんでした。カナは,イエスが,自分の出席していた婚宴で,水をぶどう酒に変えるという最初の奇跡を行なわれた場所です。(ヨハネ 2:1-11)しかし,ティベリアとナザレを結ぶこの幹線道路に面するカナが,聖書に記されているその村であったかどうか定かではありません。ナザレの北14㌔余りの所には聖書のカナのものではないかと思われる証拠があります。それはともかく,イエスが最初の奇跡を行なったとされるこの古い村の中を歩くのは興味深いことでした。
幹線道路に戻ると,ジュリアンが,ティベリアに向かうタクシーを呼び止めてくれました。タクシーには,ビューティチュード山の教会にミサをあげに行く司祭が乗っていました。ジュリアンに別れを告げると,私たちはタクシーの後部座席に乗り込みました。運転手は,イエスが山上の垂訓を話されたとされるその場所に,一緒に行かないかと勧めてくれました。そこは,ガリラヤ湖を望む実に美しい場所です。司祭が教会に行っている間,私たちは運転手と話しながら付近を歩きました。
聖書に関する話し合いに喜んで加わるもう一人のナザレの住民に会えたのは本当に幸いでした。その運転手は,以前にエホバの証人に会ったことがあり,ハイファにある,エホバの証人の一番近い会衆の集会に出席したこともあるとのことでした。西暦一世紀のキリスト教の特徴について聖書から一時間ほど話し合った後,その男の人は自分からこう申し出ました。「このような真理を説明する文書なら喜んで人々に配布しましょう」。また,「ナザレの人の多くは,こうした事柄を喜んで学ぶと思いますよ」とも言いました。
司祭が戻って来たので,車に乗りました。数分で,私たちの泊まっているティベリアのホテルの前に着きました。なんと充実した報いの多い日だったのでしょう! イエスの育った地域を見てうれしかったばかりか,イエスが地に来て行なわれた業,つまり他の人に神の王国の良いたよりを語る業にあずかれたことをとりわけ深く感謝しています。―マルコ 1:38。ルカ 4:43。
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この山からナザレの人々がイエスを投げ落とそうとしたと言われている