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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1980
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読者からの質問

● コリント第一 7章36-38節で,新世界訳は人が結婚して「自分の童貞性」を離れることについて述べています。他のほとんどの翻訳は,「自分の処女なる娘」とか「自分の肉体的純潔を共にする者」などという言い回しを用いています。この箇所が聖書によってこのように異なっているのはなぜですか。

結婚や独身に関心を抱くクリスチャンはだれしも,この意味深い聖句に関心を抱いて然るべきです。この箇所は,新世界訳では次のように訳出されています。

「しかし,人が自分の童貞性にふさわしくないふるまいをしていると考え,若さの盛りを過ぎており,しかもそれが当然の道であれば,その人は自分の望むことを行ないなさい。その人は罪を犯すのではありません。その人たちは結婚しなさい。しかし,心の中で定めており,必要もなく,自分の意志を制することができ,童貞性を守ろうと自らの心の中で決めているのであれば,その人はりっぱに行動していることになります。したがって,結婚して自分の童貞性を離れる人もりっぱに行動していますが,結婚しないで,それを離れない人は,さらにりっぱに行動していることになります」― コリント第一 7:36-38。

多くの聖書学者は,この聖句のギリシャ語本文を理解し,適切な訳をつけるのが困難であることを認めています。A・マーシャル博士の「希英行間逐語訳新約聖書」によると,36節のギリシャ語字義訳の冒頭は,「しかし,人が自分の処女に対して不名誉なふるまいをしていると考え……」となります。主に問題となるのは,「自分の処女」という言葉です。使徒パウロは何を意味していたのでしょうか。様々な聖書注釈書は,大抵,三つの可能性を挙げています。それらの可能性は,広く流布している数々の聖書に見られる種々の翻訳に反映されています。その三つの見解を簡単に検討してみれば,この聖句の要点を認識するのに役立つでしょう。

1. この聖句は娘を結婚させるか,あるいはその結婚を禁じるかを定める,父親,または後見人の権威について述べているのだ,と言う人もいます。この考えを出すために,ある翻訳は「娘」という語をそう入しています。新アメリカ標準聖書はその一例です。しかし,この見解には難点があります。まず第一に,この聖句のどこにも,娘や父親や後見人について実際に語っているところはありません。そのうえ,37節は,問題となっているのが自分の意志に対する当人の権威であることを示しています。そうであれば,パウロは,女性の父親が情欲に悩まされていないというだけの理由で,その女性に独身でいるよう勧めたのだ,などとどうして結論できるでしょうか。

2. パウロは一人の人に婚約者と結婚するかどうかについて助言を与えていたのだ,と考える人もいます。ですから,改訂標準訳はその箇所を,「人が自分のいいなずけに対してふさわしくないふるまいをしているなら,また自分の情熱が強くなるなら……」と,訳出しています。とはいえ,原語の本文はこの聖句の中で,『いいなずけの女』にも,「婚約者」にも言及していないというのが事実です。そのうえ,この取り組み方だと,男性のほうに全面的に重きが置かれます。しかし,パウロが男性のことだけを気遣い,ペテロが「弱い器」と呼んでいる女性の必要や感情には全く関心を示さなかったとするのは,キリスト教の教えと調和すると思えますか。―ペテロ第一 3:7。

3. さらにまた,コリント第一 7章36-38節は,一緒に住んではいても,肉体的純潔を保ち,霊的な理由で性関係を持とうとしないクリスチャンの夫婦について述べているのだ,と言う人もいます。ですから,モファットの訳は,「もし人が自分の霊的な花嫁であるおとめに対してふさわしいふるまいをしていないと考えるなら……」と,訳出しています。また,新英訳聖書は,「自分の肉体的純潔を共にする者」について述べています。

しかし,そのような解釈は,使徒パウロがコリント第一 7章の前半で助言している点と矛盾します。3節から5節のところで,パウロは,夫婦が互いに同意の上で一時的に禁欲する可能性について述べています。しかし,誘惑に陥らないために,ある期間を経た後には一緒になるべきである,と述べています。また,肉体的純潔を保った状態で結婚している夫婦についてパウロが語っていたとすれば,どうして情欲のために必要が生じる場合に結婚するようにと勧めるのでしょうか。

広く流布している聖書の多くに反映されている上記の三つの見解が,ギリシャ語で書かれたパウロの言葉やキリスト教の教えと調和しないと思われるのであれば,適切な意味を伝えるもっとふさわしい訳し方があるでしょうか。

前述の通り,主要な問題点は,「自分の処女」という句にあります。この点に関して,エンファティック・ダイアグロット訳の脚注はこう述べています。「パルテノス,通常処女と訳されるが,童貞性あるいは肉体的純潔の状態を意味するものとしても訳出されてきた」。G・R・ベリー博士は,その希英行間逐語訳で,「穏当さを欠いてふるまう童貞性に対して 彼の」と訳しています。この点からすれば,ここで言及されている「童貞」が他の人のものではなく,自分自身の童貞性のことであるという意味になるでしょう。新世界訳が世に出るよりもずっと前に,この理解を伝える英語訳がありました。J・N・ダービーの翻訳は次の通りです。「しかし,人が自分の童貞性に対して不穏当にふるまっていると考えるなら,……その人は自分の意図するところを行ないなさい。その人は罪を犯すのではありません」。(J・B・ロザハムによる聖書もご覧ください。)このような翻訳は,ギリシャ語本文とも,また独身を励ますこの箇所の前にあるパウロの言葉とも調和します。―コリント第一 7:29-35。

ですから,コリント第一 7章36-38節で,パウロは人々に自分の必要を検討するよう勧めています。その人は性的な関心が強くなる最初の段階をすでに過ぎているでしょうか。a もしそうであれば,またそして当人が依然として結婚したほうがよいと考えているなら,そうすることは罪ではありません。しかし,独身を保つことのできるクリスチャンは,主に仕える点で障害となるものが少なく,より大きな自由を享受するでしょう。

[脚注]

a 「若さの盛りを過ぎており」という表現については,1975年2月15日号の「ものみの塔」誌,127ページをご覧ください。

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