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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1980
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自分をたいせつにしてはいけないとき

自分をたいせつにしない人がいるでしょうか。また,他の人が寛大さを示してくれるとき,ありがたく思わない人がいるでしょうか。自分の身を憎んだ者はかつておらず,人はそれを養い,またたいせつにします。しかし,誤った仕方で自分をたいせつにするというようなことがあるでしょうか。目先の事ばかり考え,長期的な観点に立って物事を考えないなら,そのようなこともあり得ます。

例えば,太り過ぎで,糖尿病にかかっている女性のことを考えてみましょう。その人にとって,甘い物を食べたいという渇望に身を任せるのは愚かなことです。ちょっと気を許して自分に寛大になれば,結局は事態を悪化させることになります。アルコール中毒者も同じです。目先のことを考えて自分に対して寛大になり,飲み続けるなら,応報の日の到来を早める結果になります。

周囲の影響を受けて自分に対して目先の寛大さを示すという道へ進まなかった方は,ほかならぬイエス・キリストです。あるとき,イエスは弟子たちに,ご自分の前途に控えている事柄について語り,「ご自分がエルサレムに行って年長者・祭司長・書士たちから多くの苦しみを受け,かつ殺され,三日めによみがえらされねばならないこと」を示されました。これを聞いた使徒ペテロは,「彼をわきに連れて行き,『主よ,ご自分をたいせつになさってください。あなたは決してそのような運命にはならないでしょう』と言ってしかり始め(ました)。しかし,イエスはペテロに背を向けて言われ(まし)た,『わたしの後ろに下がれ,サタンよ! あなたはわたしをつまずかせるものです。あなたは,神の考えではなく,人間の考えをいだいているからです』」。―マタイ 16:21-23。

イエス・キリストがこの問題に関して極めて確固とした考えを抱いておられたことは明らかです。さもなければ,そのような断固とした態度を示し,強い調子の言葉を口にされることはなかったでしょう。イエスは,ペテロがここで抵抗の最も少ない道を進むよう,つまり楽な道を取るよう自分を誘惑していたことを見破っておられたに違いありません。それはちょうど,イエスの宣教の初期に,悪魔自身が同様の仕方でイエスを誘惑しようとしたのと同じです。―マタイ 4:1-10。

そうです,良心が啓発されると,食卓に着いたとき,暴飲暴食を慎むようになるでしょう。あるいは,試行錯誤を幾度も繰り返した末,娯楽やレクリエーションに関して自己訓練をし,十分の休息や睡眠を取れるようにしなければならない,との結論に達するかもしれません。そうであれば,自分にとって最善であると分かっている事柄に堅くつき従い,悪気のない友人たちのために知恵と良い判断の狭い道からそらされないようにしたいと思うでしょう。一般に,「無理するな」という言葉がよく使われます。しかし,人類の真の友であられ,かつて地上に存在した教え手の中で最も偉大な方は,それとはまさに反対の趣旨の言葉を語られました。ご自分の追随者たちに助言をお与えになった際,イエスは「精力的に努力しなさい」と言われました。―ルカ 13:24。

事実,有意義な目標がなければ,人生は空虚で,むなしいものになってしまいます。そして,真剣に自らを律する努力なくしては何ら価値ある事柄は成し遂げられません。音楽を学ぶ人で,交響楽団に入ることや音楽会で演奏することを目指す人は,練習をするときに自分を甘やかすことはできません。長い時間をかけて練習し,努力を集中し,自己鍛練をして,多くの快楽を犠牲にしなければ,その目標を達成することはできません。人が自分の前に置くそのほかの専門分野の目標についても,程度の差こそあれ同じことが言えます。腕をみがき,能率を上げるには,自らを律して努力しなければなりません。

献身したクリスチャンは殊に,自己鍛練をすべきときに,自分をたいせつにすることがないよう慎まなければなりません。荒天を言い訳にしてクリスチャン会衆の集会を欠かし,宣べ伝えて弟子を作る業に活発に携わらないでいるのは実に容易なことです。テレビ番組に誘われて,クリスチャン宣教の務めを怠ることがあるかもしれません。通俗的な定期刊行物や小説に読みふけるあまり,自分の霊的な必要をないがしろにすることもあります。そのような目先の事で自分をたいせつにするなら,長期的に見て有害な結果を生むことは必定です。「義務と快楽ぶつかれば,まずは快楽あと回し」という言葉は的を射ています。快楽が義務とぶつからないときを待ちましょう。

自分をたいせつにしないことが,悪い結果をもたらす場合がありますか。確かにあります。富を得ようという野心を抱くなら,金銭への愛に駆られて,働き,汗を流し,骨を折り,策略をめぐらすことがあるでしょう。その結果,法を犯したり,神経衰弱になったりしかねません。神の言葉は,そのようにして富を追い求める人が自分をたいせつにしていないことをはっきり示しています。次のように述べているからです。「富もうと思い定めている人たちは,誘惑とわな,また多くの無分別で害になる欲望に陥り,それは人を滅びと破滅に投げ込みます」。そうした人々は「多くの苦痛で自分の全身を刺したのです」。確かに,そのような道を取るなら,自分をたいせつにしないばかりか,家族をもたいせつにしていないことになりかねません。―テモテ第一 6:9,10。

「隣人を自分自身のように愛さなければならない」という,イエス・キリストの指摘された2番目に大きなおきてはこの点で極めて当を得ています。わたしたちは自分自身を愛するようにと言われています。自分をたいせつにしなければなりません。しかし,利己的で無分別な仕方でそうすべきではないのです。自分を愛することは第一のおきてによって制約を受けますが,その第一のおきては心と魂と思いと力を尽くして神を愛するようわたしたちに求めています。このおきてを実践することが自分を「たいせつにしない」ことを意味する場合が一再ならずあります。自分を愛することは第二のおきてによっても制約を受けますが,その第二のおきては自分自身のように隣人を愛することを求めます。(マルコ 12:29-31)神と隣人に対する責務を念頭に置いていれば,いつ自分をたいせつにし,いつ自分をたいせつにすべきでないかの線を引くことができるでしょう。

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