悲劇に見舞われる時
その家族は裕福なほうではなかったようです。それでも,感謝のいわれは数々ありました。土地はよく作物を産し,気候はほぼ一年を通じて温暖で快適で,一家は申し分のない場所に住んでいました。
その家族の住んでいたナインという都市は,モレの丘の北西側の中腹,肥よくなエスドラエロン平原の美しい場所にありました。家からは,緑の谷を隔ててほんの数キロ先の所に,美しい木々で覆われたガリラヤの丘陵地が見えます。そして遠くには,頂上に雪をかぶったヘルモン山やレバノン山脈の高い山並みが見えます。一日の終わりに,夫と妻と若い息子の3人が親子そろって屋上に出て,景色をながめるのは本当に心地よいことだったに違いありません。
ところがある日,悲劇に見舞われました。その家の主人が死んだのです。残された二人にとってそれは実につらい経験でした。もう3人でのどかな夕べのひと時を楽しむことはできないのです。それでも,まだ息子がいることで,婦人は慰めを得ていました。その希望も願望も抱負もすべて,その息子に懸けるようになりました。こうして,婦人は再び人生に意義と目的を見いだしました。
ところがそのような時に,もう一度悲劇に見舞われました。今度はその息子が死んだのです。もうだれにも慰めを見いだせません。息子のなきがらの埋葬の準備が行なわれている間,そのやもめは深い悲しみに暮れていました。
愛する人を失った時の気持ちは,理解できないものではないでしょう。失意の余りなすすべを失ってしまうこともあります。死は確かに苦々しい敵です。こうした事態に直面すると,人は故人の将来を深く気遣うものです。死んだ人々には本当に希望があるのでしょうか。
ある人がやって来てわたしたちの愛する人の手を取り,もう一度命によみがえらせて健康にしてくれたとしましょう。その喜びはどんなにか大きいことでしょう。それは本当にすばらしい時となります。
『でも,そんなことは不可能だ』と言われるでしょう。確かに,そのようなことはわたしたちの時代に起きたためしがありません。しかし,そうしたことが昔実際に起きたのです。婦人たちはその死者を復活によって再び受けました。
そうしたことはいつ起きましたか。どうしてそれを信じることができるのですか。それは今日のわたしたちにどんな意味がありますか。