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  • エホバはわたしのとりで
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1981
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1981
塔81 12/15 27–30ページ

エホバはわたしのとりで

アルバート・オリーの語った経験

幾分暑苦しい11月のある夜のこと,心地よいそよ風に誘われて私は眠り込んでいました。ところが,突然だれかに起こされたかと思うと,「ここで何をしているんだ」という荒々しい声が聞こえました。私を見付けたのは,真夜中の巡回警らを行なっていた警察官でした。

当然のことながら,私はびっくりして立ち上がり,学校の近くのこのマンゴーの木の下で眠るようになったいきさつをつっかえつっかえ説明しました。すると,警察官は,「いいだろう,だがこの辺りで騒ぎが起きたら,お前を捜しに来るぞ」と言いました。警察官が立ち去った後,私は再び横になり,自分がここに来るようになったいきさつを思い返しました。

若いころから宗教に関心を持つ

発端となる出来事があったのは兄の住んでいたある借家でのことでした。それは1946年のことで,私はその当時15歳でした。学業を続けるため,ニジェール川のほとりの故郷の村を後にし,ラゴスに住む兄のもとに身を寄せていたのです。同じ敷地に住んでいたヤング・ウモーという名の人物に,興味をそそられました。よく人々がやって来ては,互いに“兄弟”,“姉妹”と呼んでいたからです。この人たちはだれなのだろうと思い,ウモーさんの部屋に行って尋ねてみました。たちまち私は興味深い会話に引き込まれていきました。

その人たちがエホバの証人であることを聞き,関心がさらに高まりました。学校で,ある男子生徒とその妹がエホバの証人と呼ばれており,しかもその二人はとても行儀がよかったのです。二人はどんな宗教をしているのだろうかとよく考えることがありました。それで,その人たちについて聞きたいという気がさらに強くなったのです。

聖書を信じているかどうかウモーさんから尋ねられたので,学校の宗教の授業では良い成績をあげていると答えました。聖書のことは分かっているつもりでした。しかし,神の王国とその王国が人類にもたらす祝福のことを聞くと,聖書が全く新しい本のように思えてきました。

神の王国の支配が地球をパラダイスに変え,そのパラダイスで神のご意志が行なわれ,柔和な者が永遠の命を受けることを説明するウモーさんの話に,熱心に耳を傾けました。(マタイ 6:9,10。ルカ 23:43。啓示 20:5)こうしたことを聞いてとてもうれしくなり,もっと教えてもらうためにもう一度ウモーさんを訪ねることにしました。

もっとも初めは,その話をすべて受け入れたわけではありません。教会で告げられていた警戒すべき偽りの弟子かもしれないという心配がありました。よく議論はしましたが,聖書から教えてくれる様々な事柄には深く感謝していました。

そんなある日,自分は三位一体の教えを信じていない,とウモーさんが言いました。ショックを受けて,部屋から出て行きたくなりました。すると,「三位一体を信じない理由をまだ聞いていないでしょう」と言われたので,理由を尋ねてみました。その答えがきっかけになって私の人生の宗教面にやがて徹底的な変化が生じることになりました。

ウモーさんはこう切り出しました。「君はお父さんとあらゆる面で等しいだろうか。生まれた日は同じだろうか」。それから聖書を開いて,イエスご自身が,自分はみ父から遣わされたのであり,み父は自分より偉大であると語っておられる箇所を示しました。(ヨハネ 14:24,28)また,イエスのバプテスマに関する記録を調べて,イエスをご自分の子として認める天からの神の声があったとしながらイエスを神と信じることがいかに道理にかなっていないかを示しました。(マタイ 3:16,17)ウモーさんはさらに,“三位一体”という言葉が聖書に出ていない点をも指摘しました。聖書に基づく証拠は確かなものでしたから,私はその説明に納得しました。

その晩,ひざまずいて祈ろうとしましたが,祈ることができませんでした。幼い時から,「父と子と聖霊の名において」と言って祈り始めるよう教えられていたのです。しかし,神は三位一体ではないと確信するようになったので,祈りを始めることができませんでした。

翌日,とても憂うつだったので,「マタイ」から聖書を読むことにしました。この朗読を数日続け,「啓示」の終わりまで読み通しました。聖書を読めば読むほど,ウモーさんの教えてくれている事柄が聖書にかなっていることが分かってきました。それは真理だったのです。

私はその友の所にもう一度行き,起きた事柄を話し,祈る方法を教えてほしいと頼みました。ウモーさんは,私がクリスチャン・ギリシャ語聖書を読んだことを喜び,助けになるでしょうと言って数冊の本と小冊子を貸してくれました。確かに,これらの出版物は,私のその後の宗教生活に大きな影響を及ぼすものとなりました。

宣教者の助けを得る

1947年の初めから,私は腹違いの兄の所に同居するようになりました。その時は16歳で,学校を終えていました。高校に通う資力はなく,かといって仕事を見付けることも困難でした。

ある晩,みんなで夕食をしていると,ドアをノックする人がいました。驚いたことに,白人が私たちの部屋に入って来たのです。白人がアフリカ人,それも特に貧しい人の家を訪れるのは珍しいことでした。その白人はこう言って自己紹介をしました。「私はカナダから来たモレトンという者で,エホバの証人です。この地を支配するある政府に関する良いたよりを伝えています」。

兄は驚きの気持ちを抑えて,「まあ,おつまみなさい」と言いました。兄がひどく驚いたことに,モレトンさんは皿からヤムイモをひとかけらつまみ,それを赤いソースに浸して食べたのです。そして,「神が人間のために備えてくださったとても良い食べ物です」と言った後,自分の伝えている音信について説明しました。

兄は書籍を3冊受け取り,その中から「神を真とすべし」と題する本を私にくれました。兄夫婦はそれ以上突っ込んで聖書研究をすることには関心を示しませんでしたが,私はモレトンさんを喜んで迎えて教えを受けました。

時がたつうちに,家族の行き付けの仕立屋が同じ本を持っており,だれもそれを研究する手助けをしていないことが分かりました。そこで私は,モレトンさんとの研究が終わるたびに,その店に行って店の主人と同じ章を研究しました。このことは私の進歩に役立ち,やがて聖書を用いて聖書を擁護できるようになりました。

ある日,私はモレトンさんに,自分も宣教者になりたい,と言いました。すると,モレトンさんは笑いながら,「そうなるでしょう。でも,様々な難しい問題があるので,まずそれに対する備えをしておかなければなりません」と言いました。そして聖書を開き,迫害,それも肉親からの迫害を必ず受けるようになることを説明しました。(マタイ 10:34-38)「それでも,忠実であれば,エホバは決して見捨てたりはされません」と,モレトンさんは言葉を加えました。それが真実であることを間もなく身をもって学び知ろうとは思ってもみませんでした。

初めのころの信仰の試み

1947年10月のある夜遅く,私は兄に起こされ,『エホバの証人との研究をやめて聖公会に戻るか,さもなければ家から出て行け』と最後の決定を迫られました。私は驚きの余り目を見張りました。仕事はなく,行く当てもありません。郷里の村までは500㌔もあります。そうしたことを兄が知っているのははっきりしていましたから,こんな真夜中にどこへ行けというのだろうか,と不思議に思いました。しかし,私は心に決めました。エホバに仕えるのをやめるようなことはしません。

兄は激しく怒りだし,目に入るものを手当たりしだいつかんで,私を殴りつけました。兄嫁も兄に加勢しました。兄は私を家から追い出すと,しばらくの間,後を追って来ました。市内に住む何人かの親族の所に行ってみましたが,だれもその夜の宿を提供してはくれませんでした。親族の一人はこう言いました。「お前は,エホバが父でその組織が母だと言っていたではないか。エホバの所に行って泊めてもらったらどうだ」。

今日に至るまで決して変わることのない決意を私がしたのはまさにこの時でした。どんなことが起きようと,私は自分のとりでとしてエホバに信頼を寄せ,エホバに仕えていくつもりでした。―詩 27:1,10。

行く所がなかったので,以前に通っていた学校の近くの野原に行き,マンゴーの大木の下で眠りました。ここで,警察官が私を見付けたのですが,その時までにはすでに幾晩もその木の下で眠っていました。

日中は森に入って薪を集め,それを売って食べ物を買いました。何日かしてモレトンさんが私を見付けました。モレトンさんは話を聞いて,私を力付け,エホバに仕えようとすると困難に直面するという先の話を思い起こさせてくれました。私は,モレトンさんの宿舎へ招かれました。

これがきっかけとなって,ベテル家族と呼ばれる宣教者のグループと交わるようになり,宣教者の家の仕事の手伝いをすることになりました。ベテル家族と一緒に食事をするのは楽しいことでした。実際,自分もその家族の一員のように感じ,やがて皆を“兄弟”,“姉妹”と呼ぶようになりました。

家から家への宣べ伝える業

ある日,思いもよらぬことに,モレトン兄弟から,家から家へ宣べ伝える業に同行するよう勧められました。最初の家で兄弟は,聖書の内容を簡単に話し合い,聖書研究の手引きとなる本を1冊提供しました。

次に,モレトン兄弟は自分の鞄を私に渡し,「角に立っている男の人が見えますか。あの人に伝道してごらんなさい」と言いました。一瞬,どきっとしましたが,無言で祈り,先ほどの家の人にどんなことが話されたかを思い出しながらその人に近付きました。最初の家でなされた話はとても簡潔なものでした。私は同じ聖句を読み,相手の人は好意的に応じてくれました。こうして私は宣べ伝える業を始めることになり,どんなことがあってもこの業をやめないつもりでした。

バプテスマを受け,開拓者の業へ

自分の命をエホバにささげた私は,イエスがなさったように,水のバプテスマを受けなければならないことを学び知っていました。そして,1947年12月に,自分が出席した最初のエホバの証人の大会でバプテスマを受けました。群れをなして増え続けるエホバの証人すべてが,今や真の意味で私の霊的兄弟姉妹であったのです。

数か月後,私は開拓者(全時間宣べ伝える業を行なう人)になりました。これにより,宣べ伝える業にあずかる機会が多くなり,家から家の証言活動において早く経験を積むことができました。

初めのころ私がとても難しいと感じた話し合いの一つにセブンスデー・アドベンティスト派の牧師との話し合いがあります。その牧師はすぐさま安息日の問題を取り上げて私に説教をし,毎週の安息日を守るべきであると論じました。形勢は逆転し,私の方が伝道されていました。相手の指摘する聖句を読まされ,その説明を聞いていました。そこで,自分は安息日についてほとんど知らないことを告げ,調べてから,後日もう一度訪問することを約束しました。

再び訪問すると,牧師と一緒に何人かの教会員がいました。牧師は,この機会を利用して,会衆に自分のことを印象づけようと思っていたのです。「この若者は偽りの伝道師たちに誤導されてきたエホバの証人だが,うれしいことに私の教えに耳を傾け,さらに説明を聞こうとしてやって来た」と言って,その牧師は私のことを教会員たちに紹介しました。私がまず話をさせてもらうことにしました。前回の話し合いでその牧師がモーセの律法から引用したその同じ聖句をまず取り上げ,次にクリスチャン・ギリシャ語聖書を引用して,クリスチャンには週ごとの安息日を守る義務がない理由を説明しました。―ローマ 10:4。ガラテア 4:9-11。コロサイ 2:16,17。

牧師は,私の知識が増したことに驚き,こう言いました。「とても上手に聖書を使いましたね。私の教会の会員もこうでなくてはいけません。あなたがしたように,人々の戸口を訪ねて自分の信仰を擁護できるようになるべきです」。その晩,その牧師と教会員たちは聖書研究用の書籍を29冊受け取りました。

エホバは私のとりで

経済的な責任が幾つかあったので,私はナイジェリア鉄道に就職し,別の腹違いの兄と同居しました。ここで,エホバへの信頼を試みる別の試練に直面しました。

私は,1950年の初めにナイジェリアの東部で開かれるエホバの証人の地域大会のプログラムの割当てを受けました。大会のプログラムの割当てを受けたのはこれが初めてでしたから,この特権をどうしても逃したくありませんでした。そこで,職場の事務長に四日間の無給休暇を申請しました。ところが,その申請ははねつけられてしまったのです。私は落胆の余り食べ物ものどを通らず,一日中何も食べず,道を開いてくださるようひたすらエホバに祈り続けました。

下級の職員には禁じられていたものの,翌朝,私はまっすぐ部門の監督の所に行きました。自分がエホバの証人であることを告げると,監督はこう言いました。「そうだったのか。君がいかに良心的に働いているかは分かっていた。君を見ていると,英国にいる兄を思い出すよ。兄は家族でただ一人のエホバの証人なんだ。軍隊にも入らず,戦争にも行かないので,狂信的だとは思うが,家族の中で信頼されているのはこの兄だけなんだ。この職場でエホバの証人が働いているとはよいことだ」。

それから私は,大会に出席したいことやそのために四日間の無給休暇が欲しいことを話しました。すると監督は,「よろしい,是非大会に行きたまえ。でも,旅行をしなければならないから,四日以上かかるだろう。1週間の休暇をあげよう。一緒に来たまえ」と言いました。監督は私を事務長の所に連れて行ってこう言いました。「我々の所にエホバの証人がいるのを知れば君もうれしいだろう。彼らはとてもまじめで正直な,勤勉に働く人たちだ。では,オリー君が大会に行けるように,七日間の有給休暇を与えたまえ」。

その後,ラゴスにある,ものみの塔聖書冊子協会の支部事務所で奉仕するよう招待されました。同協会はエホバの証人のために奉仕する法人組織です。こうして私は,1951年4月に,ラゴスのベテル家族の一員になりました。

そのことを快く思わなかった兄はこう言いました。「仕事をやめてお前のエホバとやらに仕えに行くからには,どんなことが起きてもここへは二度と戻って来るな。もうお前のことなど援助してやらないからな」。私は,エホバが必ず世話してくださるという確信を抱いていることを,はっきり告げました。私がベテルで奉仕してきた30年間,エホバはまさしくそのことを行なってくださいました。それらの歳月は様々な機会と特権に満ちており,大きな喜びを与えてくれました。

これまでの歳月を振り返って,エホバがどのように私のとりでとなり,必要なものをその都度備えてくださったかを思い起こすと,信仰が強まります。1953年のある大会で,私はフランシスカという名のトーゴの若い姉妹に会いました。3年間文通した後,私たちは結婚しました。フランシスカはずっと私のそばで奉仕を続け,健康上の問題があったにもかかわらず,私の大きな励みとなってきました。私たちは,私の奉仕の割当てを果たすために,ナイジェリアのすみずみにまで行き巡りました。私は,大会で大勢の聴衆に話をする特権を得てきましたし,旅行する奉仕者(巡回および地域監督)を訓練するための学校で彼らを教える特権にもあずかりました。

1969年にロンドンで開かれた国際大会に出席しましたが,それは私とフランシスカにとって初めての海外旅行でした。私はそれをエホバの組織が与えてくださった奨学金とみなしました。エホバの組織が道を開いてくださらなかったなら,ロンドンに旅行することなどできたでしょうか。その時以来,私たちはヨーロッパ,アメリカ,アフリカの様々な国で開かれた大会に出席する機会を得ました。1976年と1978年には,ニューヨークにある,ものみの塔聖書冊子協会の世界本部で,ブルックリンのベテル家族としばらく生活するという大きな喜びを味わいました。エホバの証人の統治体の指示の下に準備された特別の集まりと訓練課程に世界各地の他の支部委員と共に出席するよう招かれたのです。愛する神エホバへの忠実を保つことができるようにという願いを除けば,それ以上のどんなことが望めたでしょうか。

私の奉仕の歩みは必ずしも容易だったわけではありません。難しい問題や試練,病気を経験し,恐ろしい事故にも何度か遭いました。私の信仰は試みられてきました。しかし同時に,エホバと兄弟たちに仕えることからもたらされる言い尽くせぬ喜びと,キリスト教の知識という富や霊的な力を得てきました。

イエスの次の約束の真実さを私は身をもって味わっています。「わたしのため,また良いたよりのために,家,兄弟,姉妹,母,父,子ども,あるいは畑をあとにして,今この時期に百倍を,すなわち家と兄弟と姉妹と母と子どもと畑を迫害とともに得,きたらんとする事物の体制で永遠の命を得ない者はいません」。私は今,次のように語った詩篇作者と同じ感慨を抱いています。「わたしはエホバに言おう,『あなたはわたしの避難所,わたしのとりでであり,わたしのより頼む,わたしの神です』と」― 詩 91:2,新。マルコ 10:29,30。

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