ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 塔82 7/1 14–16ページ
  • 生来の不滅性,それとも復活 ― どちらですか

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 生来の不滅性,それとも復活 ― どちらですか
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1982
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 死後の命 ― どのように?
  • 真の意味での復活の希望
  • あなたは復活をどれほど固く信じていますか
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1998
  • 永遠の命に対する信仰を働かせなさい
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1990
  • 肉体の復活か,それとも一個の人間全体の復活か
    目ざめよ! 1982
  • 魂 ― あなたのことですか,それともあなたの内に宿っていますか
    目ざめよ! 1985
もっと見る
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1982
塔82 7/1 14–16ページ

生来の不滅性,それとも復活 ― どちらですか

このページに始まる一連の四つの記事を注意深くお調べになってください。死に際して魂がどうなるかについての聖書の見解,また復活,神の裁きの日,最後の患難に関する聖書の見解が,神の言葉の主題である王国に関連して紹介されています。

毎年3月か4月に,世界人口の4分の1余りの人々は,「キリストの復活祭」と呼ばれるイースターを祝います。復活祭の日にキリストの復活を祝うそれら十数億の人は,死後やがてよみがえらされるという希望を表明していることになります。しかし,妙なことですが,それらの人の多くは,死後の命は復活に依存しているのでなく自分の「不滅の魂」の存続に依存していると信じています。

イースターの祝いをしない他の幾十億の人も,死後の命の希望が復活にではなく,自分の「魂」の存続に懸かっていると信じています。キリスト教世界の内外を問わず,これらの人々がいずれも地上での短い生涯の後に何かがあるに違いないと感じていることは明らかです。生を受け,死んでゆくという点では動物と何ら変わらないというのはその人たちにとって無念なことなのでしょう。その後の命を願うのはごく自然なことです。読者もそのような願いを抱いておられるかもしれません。では,死後の命はどのようにして可能になるのでしょうか。

死後の命 ― どのように?

様々な宗教の「聖典」を見ると,この問題には大体二つの答えが出されています。幾つかの「聖典」は,死者の「魂」もしくは「霊」はそのまま生き続けると述べています。一方,聖書は,死者が復活によって生き返らされることを教えています。―ヘブライ 11:17-19。ルカ 20:37,38。ヨハネ 5:28,29; 11:24。

東洋の諸宗教が「魂」もしくは「霊」はそのまま生き続けると教えても驚くには当たりません。信頼できる歴史によれば,そうした信仰は東洋に起源があるからです。古代バビロニア人は,死者の魂がたくさんいる,よみの国があって,そこは男神ネルガルと女神エレッシュキガルによって治められていると信じていました。古代エジプト人も魂の不滅性を信じ,独自の「よみの国」の概念を持っていました。エジプト人は「死者の神」としてオシリスを崇拝しました。エジプト人と同様古代のペルシャ人も死後に「魂が計られる」ことを信じていました。古代ギリシャの哲学者の多くは不滅の魂というこの東洋の概念を取り入れ,西暦前4世紀にプラトンが最終的にその意味を明確にしました。

ユダヤ教とキリスト教世界の諸宗派が,将来の命の希望は不滅の魂を持っていることに依存するという考えを受け入れたのは驚くべきことです。それは明らかに聖書が教えていることではありません。簡約ユダヤ百科事典(1980年版)も次の点を明らかにしています。「聖書は魂の不滅性の教理を述べていないし,この教理は初期の[ユダヤ人の]ラビ文学にも明確に現われていない。……やがて,人間の人格には永遠かつ不滅な部分があるという考えがラビの信条の一部となり,後代のユダヤ教ではほぼ普遍的に受け入れられた」。

キリスト教世界の神学者たちはユダヤ教のラビに見倣い,バビロニア人,エジプト人,ペルシャ人およびギリシャ人が抱いていた,人間には不滅の魂があるという概念を取り入れました。しかし,キリスト教世界の諸教会は聖書を信じると唱えているため,キリスト教のものでないこの教えを取り入れることによって自らジレンマに陥りました。そのジレンマとは,復活という聖書の教えを固守しながら,人は不滅の魂によって死後も生き続けると教えることがどうしてできるか,というものです。

キリスト教世界の諸教会はこのジレンマをどのように切り抜けているでしょうか。その点を,カトリック百科事典は次のように述べています。「第4回ラテラノ公会議は次のことを教えている。すなわち,神に選ばれた者であれ,神に見放されて救いにあずからない者であれ,人間はだれでも,『現在付けている自分の肉体を付けて再び起き上がる』と教える。信経と信仰告白の語法によれば,この命への復帰は肉体の復活と呼ばれる」。(下線は本誌)言い換えれば,死者の復活とは単に,不死の魂が再び肉の体を付けるということです。しかし,それは聖書が教えていることではありません。

真の意味での復活の希望

生来の不滅性や「肉体の復活」が聖書で教えられていないことを認める聖書学者は少なくありません。フランスのカトリックの聖書学の教授,ジョルジュ・オズは次のように書いています。「『肉体』から離れた,純粋に霊的で非物質的な実在を意味する『魂』という概念は,……聖書の中に存在しない」。「新約聖書は『肉体の復活』に一度も言及しておらず,むしろ『死者の復活』について述べている」。

フランスのプロテスタントの教授オスカー・クルマンも,自著「霊魂の不滅か死者の復活か」の中で同様にこう述べています。「死者の復活に対するクリスチャンの期待と霊魂の不滅に対するギリシャ人の信仰との間には根本的な相違がある。……キリスト教は後になってこの二つの考えを結び付け,今日一般のクリスチャンは両者を全く混同しているが,私を含め学者の大多数が真理とみなす事柄を隠す理由は何もないと思う。……新約聖書の真髄と思想は,復活に対する信仰に全面的に支配されている。……神の新たな創造の業により,実際に死んでいる人の全存在が生き返るのである」。―(原文仏語。)

このように,聖書に述べられている将来の命の真の希望は不滅の魂が死後生き続けるということにではなく,復活,すなわち「死者が生き返ること」に基づいているのです。聖書は極めて明確に「義者と不義者との復活がある」と述べています。(使徒 24:15)死後の事柄に関しこれほどの宗教的混乱が一体どうして生じたのか次の記事で考慮しましょう。

[15ページの図版]

魂が死体の上を飛び回っている絵は,古代エジプト人が魂は死後も生き続けると信じていたことを示している

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする