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  • 温和さには力がある
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1982
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  • 温和であることは弱さのしるしですか
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  • 他の人々は成功した
  • その力はどこにあるか
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  • 会衆内で
  • 隣人との接触において
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    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1985
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    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔(研究用)2020
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1982
塔82 12/1 8–11ページ

温和さには力がある

あるトラックの運転手は反対方向から来た車を止めました。その車のドライバーが減光するのを怠ったので,少し目がくらんだのです。トラックの運転手は鉄棒を手に取ると,そのいわば不幸なドライバー仲間の車のヘッドライトを両方ともたたきつぶし,かわいそうなそのドライバーと,もう乗れなくなった車とをしり目に走り去ってしまいました。あなたはこのような話をよく耳にしますか。

自分の気に食わないことにはすべて暴力で応ずる人が沢山います。言葉で攻撃するか腕力に訴えます。温和さに欠けた行為が伝染病のように広がっています。結局は自己を主張するほうが効果的だから,温和な態度に出るのはむだだと考える人が増えています。しかし本当にそうでしょうか。

歴史に見る一つの模範

その人は非常な圧迫を受けていました。剣やこん棒を手にした大勢の群衆がその人を捕らえようとしてやって来ていたからです。それで一人の親しい仲間が剣を抜き,敵対する群衆の中にいた一人の人の耳を切り落としました。緊張した空気がみなぎっていました。逮捕されたその人はこの危機に臨んで何をしたでしょうか。

その人とはイエス・キリストでした。その反応に注意してください。イエスはご自分を救おうとした人に向かって言われました。「あなたの剣を元の所に納めなさい。すべて剣を取る者は剣によって滅びるのです。それともあなたは,わたしが父に訴えて,この瞬間に十二軍団以上のみ使いを備えていただくことができないとでも考えるのですか」。(マタイ 26:47-53)イエスは厳しい態度を示すよりも,むしろ傷つけられた人の「耳に触れて,おいやしになった」のです。―ルカ 22:51。

温和であることは弱さのしるしですか

イエスが温和な態度をお示しになったことを,弱い性格のせいにすることは決してできません。イエスは天の父の力を背後に持つ強力な人で,正しい事柄は断固擁護されました。イエスが宣教を開始された時に行なわれたことを覚えていますか。エルサレムの神殿に入って「牛や羊やはとを売る者たちと,席に着いている両替人たち」をご覧になると,縄でむちを作り,「それらの者をみな羊や牛もろとも神殿から追い出し」ておしまいになりました。(ヨハネ 2:14,15。マタイ 23:13-36もご覧ください。)弱いところなど全く見られません!

温和さは単に平静さを外面に示すことではなく,強いけれども温和な神のご性格の反映であることを,イエスは手本によって示されました。エホバは罪を黙認しないことにおいては強い方です。罪を徹底的に嫌悪され,それについては極めてはっきりと語られます。(箴言 6:16-19)それでも,温和な態度で,堕落した人間のために,イエス・キリストの贖いの犠牲と祭司の働きとを通してご自身と和解する道を設けてくださいました。(ローマ 5:10。テモテ第一 2:5,6。ヘブライ 4:14-16)ですからエホバの温和さは,罪を完全に清めることにつながるのです。(ヨハネ第一 1:9)そういうわけで温和さには力があります。救う力さえあるのです。

温和さを身に着ける方法

不完全なクリスチャンは,自分自身の内部では温和さの力が余り強くないことに気付きます。アダムの家族の一員として罪の中に生まれたために,わたしたちは皆堕落した肉的な傾向を持っており,神に属する命から疎外されていました。(エフェソス 2:3; 4:17,18)わたしたちには信仰も希望もなく,恐らくざ折感や不安も感じていたでしょう。この思いの状態が温和さの欠けた態度を生み出す温床となり得ることは,容易に理解できます。(箴言 25:28と比較してください。)しかし,神の道について学び,罪の許しを受けてからどうなったでしょうか。わたしたちは信仰において強くなり,神の霊の実を培う点で進歩しました。霊の実には温和さも含まれます。―ガラテア 5:22,23。

ですから,だれの場合でも,この優れた特質が得られるのは,自分自身の意志力を働かせるためではないのです。むしろ温和さは,わたしたちが力の源として神に近付く結果生まれるものです。さらに,イエスの模範に倣いたいという心からの願いも,温和な態度で行動する助けになります。

ペテロ第一 3章3,4節で指摘されているように,温和さは内部的な特質ですから,「心の中の秘められた人」と関連があります。温和さはもともと生来受け継いだものではありません。正確な知識と神の言葉を適用することにより,神の霊の実として身に着けるものです。温和さはエホバ神に倣った「新しい人格」の一部なのです。(コロサイ 3:10)しかし温和さという敬虔な特質は容易に身に着くものでしょうか。

他の人々は成功した

「いえ,そう易しいものではありません」と,背の高い,がっしりした男の人は答えました。「私はプロボクサーでしたが,リングの外でも,つまり自分の町でも,『近所のやっかい者』と言われていました。腕力があるために優越感を持ち,路上でのけんかが好きでした。また家庭でも自制心がはなはだしく欠けていました。ある時など,妻が気に食わないことを言ったので,地下室のドアと冷蔵庫を二度のキックで壊してしまったのを覚えています。自分を恥ずかしく思ったこともありました。家の前の庭で,自分が吐いた物の中に酔いつぶれて寝ていた時などは特にそう思いました。そのような時には神に助けを祈り求めました。エホバの証人との接触も勢い多くなりました。そして8年前にきっぱりと酒を断ちました。

「自分の激しやすい気性を制御するのにはとても苦労しました。でも今では,家から家に宣べ伝える時,腹を立てずに人々と話し合うことができます。古い性向と闘い続けねばならないものの,霊的兄弟たちの間の愛を見ることができるので温和な精神を培うのに大きな助けになっています。クリスチャンの長老として,同じ闘いをしている他の人々の気持ちがよく分かります。しかし,私はその闘いに勝てることを知っているのです」。

あるアンボン人の女性の場合も考えてみましょう。その人は非常に激しい気性の人で,ブラウスの下にナイフを隠し持っていました。そして,かっとなって何人かの人を傷つけたこともありました。そのうちに聖書の真理が生活の中に取り入れられました。エホバのクリスチャン証人となってから20年たった現在,その人はどう考えているでしょうか。「こんなに気が短くてはエホバを崇拝できないということに気付いたのです。それで,エホバの助けを得て行ないを改めました。もっとも,冷静さを保つためには今でも自分と闘わなければなりません」。

これらの例から分かることは,温和な性質を培いたいなら,周囲の世界でごく普通に行なわれている間違った考え方や行動を避けなければならないということです。使徒パウロがローマのクリスチャンにあてて書いた手紙の中で述べている通りです。「この事物の体制に合わせて形作られるのをやめなさい。むしろ,思いを作り直すことによって自分を変革しなさい。それは,神の善にして受け入れられる完全なご意志を自らわきまえ知るためです。わたしは,自分に与えられた過分のご親切によって,あなた方の中のすべての人に言います。自分のことを必要以上に考えてはなりません」。(ローマ 12:2,3)他の人の方が自分より上であると考え,自分のことを必要以上に考えないなら,その人々と温和な態度で接することがやさしくなります。―フィリピ 2:3。

その力はどこにあるか

人間関係において温和さは厳しさよりもはるかに強力です。難しい事態に対処しなければならない時,あるいは怒っている人,心を乱されている人,深い悲しみに沈んでいる人などに接する場合,温和な態度をもってすると良い結果が得られるでしょう。なぜなら,温和な態度は大抵の場合反応を引き出し,それによって苦境を克服する道が開けるからです。聖書は,『温和な答えは激しい怒りを遠ざける』と述べています。そうです,「温和な舌は骨をも砕く」のです。―箴言 15:1; 25:15。

温和であることには何と大きな力があるのでしょう! 実際,温和は,平和な関係を回復するか,元通りにできないほどの悪感情や不一致,償うことのできない損害などを招くかの違いを生み出します。では,このことが人間関係の様々な分野においてどのようにあてはまるか,また温和であることがいかに報いの大きいものであるかを調べてみましょう。

家族の中で

神は,家族が温かくて愛のある,相互理解の取決めとなるようにされました。しかし,残念なことに,現在は多くの家族が緊張や自制心の欠如ゆえに不幸な状態にあります。その原因の一部は,家族の成員が互いをよく知っていること,人間として不完全であるために家族のみんなが必ず間違いをすることなどにあるに違いありません。そうした間違いは,大げさに騒ぎ立てることもできれば,愛をもって覆うこともできます。

働き者のジョンが神経をすり減らすような1日の仕事を終えて家に帰るところを想像してください。「お帰りなさい」と,妻が明るい笑顔で迎えてくれるのを楽しみにしています。ところが妻はこう言います。「帰りに八百屋へ寄って買い物をしてきてちょうだいとわざわざ電話したのに,どうしたの」。ジョンはどう反応するでしょうか。温和な態度を取ることが神の道であることをジョンは知っています。しかし,こういう時に穏やかに話すのは大変難しいことかもしれません。でも幸いに,ジョンは妻の肩に手を掛けて言います。「忘れてたよ。ごめん,ごめん。今から行って来る。数分もあれば戻って来るよ」。そのような態度を取った報いとして,ジョンはその晩いやな思いをせずにすみました。

親子の関係においても同じことが言えます。温和な親には近付きやすいものです。イエスのことを思い出してください。子供たちは好んでイエスのところに来ました。(マタイ 19:14,15)なぜでしょうか。ご自分で言われたように,イエスは,「気質が温和で,心のへりくだった者」であられたからです。(マタイ 11:29)あなたは親として,イエスと同じように気質が温和ですか。

夫がクリスチャンでなく,妻がイエス・キリストの弟子である場合の家族関係についてはどうでしょうか。信者の妻が確信ある態度を保つのはよいことです。時がたつうちに夫を真理の側に引き寄せることができるかもしれないからです。しかしこの場合に,妻の側の温和な態度が重要であることに注意してください。使徒ペテロはこう書いています。「自分の夫に服しなさい。それは,み言葉に従順でない者がいるとしても,言葉によらず,妻の行状によって,つまり,深い敬意のこもったあなた方の貞潔な行状を実際に見て引き寄せられるためです。そして……もの静かで温和な霊という朽ちない装いをした,心の中の秘められた人を飾りとしなさい。それは神の目に大いに価値のあるものです」― ペテロ第一 3:1-4。

会衆内で

クリスチャン会衆は大きな家族のようなものです。(テモテ第一 3:15と比較してください。)真の家族的精神,間違いを大げさに言わず愛で覆う温和な精神が行き渡っていますから,会衆内の人は皆互いに親切にすることに全力を尽くします。このことは平和と一致を促進します。霊的監督を行なう立場にいる人々はとりわけ,温和で愛のある家族的精神をもって会衆の仲間のメンバーと接すべきです。使徒パウロは次のように書いています。「年長の男子を厳しく批判してはなりません。むしろ,父親に対するように懇願し,若い男子には兄弟に対するように,年長の婦人には母親に対するように,若い婦人には姉妹に対するように貞潔をつくして当たりなさい」― テモテ第一 5:1,2。

この優れた助言は,監督たちがキリストのような温和さを示す必要のあることを強調しています。もし会衆のある成員が気付かないで間違いをしたなら,その人を厳しくけん責するのは正しくないでしょう。なぜでしょうか。厳しい態度は相手の感情を害し,もしかしたら相手を怒らせるかもしれないからです。それに厳しい態度は人を寄せつけません。ですから監督たちは霊感による次の助言に注意しなければなりません。「兄弟たち,たとえ人がそれと知らずに何か誤った歩みをする場合でも,霊的に資格のあるあなた方は,温和な霊をもってそのような人に再調整を施すことに努め,それと共に,自分も誘惑されることがないよう,おのおの自分を見守りなさい」― ガラテア 6:1。

温和な精神をもって行動する時わたしたちは,わたしたちを扱う神ご自身の方法に倣っているのです。パウロはクリスチャンの監督テトスに,「すべての人に対して温和」な態度を示すようにと助言しています。なぜでしょうか。「わたしたちでさえ,かつては無分別で,不従順であり,惑わされ,さまざまな欲望や快楽の奴隷となり,悪とそねみのうちを歩み,憎悪すべき者,互いに憎み合う者であったのです」と述べています。しかしエホバが救いの手を差し伸べ,「ご自分の憐れみのもとに」わたしたちを救ってくださったのです。―テトス 3:2-7。

イエスは,「あなた方の光を人々の前に輝かせ」と追随者たちにお命じになりました。(マタイ 5:16)一般の人々は何に最も心を引かれるでしょうか。厳しさですか,それとも親切で温和な態度ですか。あなた自身の経験ではどうでしたか。恐らくわたしたちは皆,「それゆえ,自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません」というイエスの言葉に同意するでしょう。(マタイ 7:12)そうするにはわたしたちの側の温和さが求められないでしょうか。

隣人との接触において

わたしたちは,良いたよりを伝えるために訪問する時などに,隣人の反対に遭うかもしれません。そのような状況の下でも温和な態度を示すことは,クリスチャンの監督たちが会衆内でそうする必要があるのと同じく非常に大切であることは言うまでもありません。(テモテ第二 2:23-26と比較してください。)わたしたちが温和であるために,以前からの反対者たちがついに王国の音信に対して良い反応を示すようになるかもしれません。

全世界で幾百万もの人々が良いたよりを受け入れました。その人々は油そそがれたクリスチャンたちと交わり,愛に富む世界的兄弟関係の中に入っています。こうして,「すべての国民と部族と民と国語の中から来た……大群衆」は,今日,エホバ神と子羊イエス・キリストに救いを帰しています。(啓示 7:9,10; 14:1)これらの献身したクリスチャンたちは,エホバの温和さに救う力があることを示す生きた証拠です。彼らは感謝をもって応じ,神のような温和さを示すことに努めています。そしてそのことには大きな報いが伴うことを経験しています。あなたも神の祝福を享受する温和な気質の人々の中にいますように。―マタイ 5:5と比較してください。

[10ページの図版]

「忘れてたよ。ごめん,ごめん」

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