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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1983
塔83 11/15 31ページ

読者からの質問

■ 出産は自然の一過程です。そうであれば,国家の免許や認定の要求を満たさずに,クリスチャンが産婆を業とするのは間違いでしょうか。

確かに出産は自然の一過程で,わたしたちの命の与え主エホバに誉れが帰されるべき驚異です。(創世記 1:27,28; 49:25)そして昔から,経験を積んだ産婆たちは数多くの分娩を助けてきました。(出エジプト記 1:15-20)WHO(世界保健機関)の伝えるところによると,第三世界の国々では分娩の60ないし80%について,伝統的な出産介助員つまり産婆が手助けをしています。(メディカル・トリビューン誌,1983年1月26日号)先進諸国の中にさえ,訓練を受けた助産婦の世話をおもに受けながら出産センターや家庭で,通常の分娩をすませるということがこれまでにも増して受け入れられるようになっている所があります。

しかし,聖書の歴史は,出産に際して合併症の起きる場合があること,また時には母親や子供,あるいはその双方が死亡する場合さえあることを示しています。(創世記 3:16; 35:16-19)WHOは,「年に50万人ほどの婦人が出産の合併症で死亡している」と伝えています。そのため,病院や医師のいる所で分娩をするよう促す保健当局者は少なくありません。また,産婆を訓練して,資格のある人々を認可したり免許を与えたりしている保健当局もあります。

言うまでもなく,好みや主張や物事のやり方には相反するものがあります。合併症がないと思われる場合には,家庭での出産のほうが好ましいだろうか。分娩の際に母親にとって一番楽な姿勢はどんな姿勢か。落ち着かせる環境,場合によっては水中で産み出されたほうが赤ちゃんは元気だろうか。通常,麻酔を使うべきだろうか。へその緒はいつ切るべきだろうか。

クリスチャン会衆はそのような問題について公式の見解を定めていません。それらは個人的な問題だからです。また助産婦よりも産科医の世話になるよう婦人たちに勧めることもしませんし,その逆を勧めることもしません。それもやはり個人的な決定に任されているからです。しかし,夫婦は母親と子供の双方にとって何が最善であるかに関心があるはずです。母親も子供も生き長らえて,健康な状態でエホバに仕えたいと願っているからです。

WHOの報告はこう述べています。「[産婆の]訓練は安全な分娩と清潔さを保つ方法とに重きが置かれている」。出産を介助する人々を登録したり認可したり免許を与えたりするための計画は,資格がないのに開業しているような人々に頼ることなく,母子共に資格のある人の世話を受けられるようにするために設けられているのは明らかです。国の法律が,免許のある人,あるいは認可を受けた人だけが分娩の介助を業としてもよいと定めている所さえあるでしょう。この点で既存の法律を無視する人は,法律違反者として告発されるおそれがあり,不注意や無資格が原因で死亡事故が起きたりすれば,血の罪を負うことになりかねません。―ローマ 13:1-4。

出産にしろ他の治療にしろ,健康にかかわる世話を求めたり与えたりする場合に,クリスチャンはイエスの次の言葉を思いに留めておかねばなりません。「それでは,カエサルのものはカエサルに,しかし神のものは神に返しなさい」― マタイ 22:21。

■ 聖書の詩編の区切りに関して,「章」という言葉を使ってもよいのでしょうか。

聖書は通例66冊の書に分けられており,詩編はそのうちの一つになっています。歴史書にしろ小説にしろいかなる本であれ,そのおもな分け方は章による分け方で,聖書の書の場合も例外ではありません。ですから,わたしたちは一般に創世記 1章,2章などと言うわけです。この観点からすれば,詩編の書の150のおもな標準的区分は,やはり章と呼んでも差し支えないことになります。

しかし,詩編に相当する英語の書名“Psalms”は,この書をPsalmoiと呼んでいるギリシャ語セプトゥアギンタ訳に由来しています。このギリシャ語の書名は音楽の伴奏を付けて歌われる歌を指しています。わたしたちの手元にある詩編の書を構成するさまざまな詩的著述は本来歌として歌われていたものと思われます。多分たて琴の伴奏で歌われたのでしょう。事実,ウェブスター大学生用新辞典は,“psalm”という語をこう定義しています。「崇拝に用いられた神聖な歌あるいは詩。特に,詩編の書の中に集められた聖書の聖歌の一つ」。

ですから,一例として「詩編 100章」と言うのは間違いでも不適切なことでもありませんが,「詩編 100編」あるいは「詩編 第100編」というほうがより正確で,叙述的です。事実,「使徒たちの活動」を書いた際に弟子ルカはそのような書き方をしています。ルカは,ある陳述が『詩編の第二編に書いてある』と述べているからです。―使徒 13:33。

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