『順調な時期にも難しい時期にも宣べ伝える』
ハロルド・E・ギルの語った経験
私が19歳の若者だった時に,オーストラリアの奥地が私を招きました。第一次世界大戦のために,戦後の英国の経済は不景気に見舞われていました。私を含め,仕事にあぶれた人が幾百万人もいました。ある朝,オーストラリアのクイーンズランド州へ若者が移民するのを助ける政府の計画についての新聞広報を父から見せられました。こうして,1922年に,私たち一行25人はロンドンから出帆しました。
最初の勤め口はぶどう園でした。しかし,数か月後に,小麦を栽培するために開墾中の広い地所に移りました。そこでは多くの事柄を学びました。例えば,牛の乳の搾り方,斧や横引きのこぎりの使い方,太陽の位置により10分以内の誤差で時刻を知る方法,毒へびの安全な退治法,何頭かの馬を使って土地を耕す方法,柵を作る方法,自分の思いどおりの所に木を倒す方法,それにオーストラリアの奥地での生活に欠かせない他の数多くの仕事をする方法などです。
そこではいなごの大襲来にも遭いました。その数があまりにも多かったので,トラックの運転手は坂を登るのにタイヤにチェーンを着けなければならないほどでした。別の時には,幾千匹ものネズミに穀物などを入れて置く小屋を荒らされて大損害を被りました。ところが1週間後に,そのネズミはやって来た時と全く同様,突然ほかへ移動してしまったのです。また,悲痛な思いを抱かせる日照りの恐怖をも経験しました。その時には,幾千頭もの羊が至る所に死んで横たわっていました。
1927年に,クイーンズランド州南部のギンピーに近い未開墾地を借り,そこを切り開いてバナナを植えました。隣人のトム・ドブソンとアレック・ドブソンは聖書研究者でした。エホバの証人は当時そのように呼ばれていました。ある日のこと,州都のブリスベーンへ行って短期間滞在することを話すと,二人は彼らの両親のところを訪問するよう勧めてくれました。私はその勧めどおりにし,その父親と聖書について話し合って丸一日を費やしました。聖書の中に繰り返し現われる,神の王国という偉大な主題の簡潔さに心を打たれました。また,「国際聖書研究者」という名前も気に入りました。その名称から,だれもが聖書の研究者で,調和のうちにそろって神を崇拝する国際的な家族のイメージが心に浮かびました。バナナの栽培に戻った時には,J・F・ラザフォードの著書,「創造」を持ち帰っていました。それを読んで,自分が抱いてきた数多くの質問に対する答えをとうとう見いだしたので,さらに多くの文書を注文しました。
読めば読むほど,他の人々に王国について話したくなりました。その地方の社交クラブとクリケット・クラブの書記を務めていたので,私には大勢の友達がおり,その人たちも私が学んでいる真理に熱心な態度を示すに違いないと思いました。そこであちらこちらへ出かけるために古いオートバイを買い求めました。ところが驚いたことに,私の胸をときめかせた事柄に人々は冷淡な反応を示しました。私のことを気違いだと思ったのです。幾らかしつこすぎたところがあったとは思いますが,自分の学んだことを話したくてうずうずしていたのです。
聖書研究者から訓練と指示を受ける必要があったことは明らかでした。それで,バナナ農園を売り払い,ブリスベーンの会衆に加わりました。半年後,1928年4月2日に私はバプテスマを受けました。その後,別の農業の仕事に就きました。しかし,月日がたつにつれて,落ち着かない気持ちが募ってゆきました。それまでは奥地での生活を大いに楽しんでいたのに,もはやそれでは満足できなくなりました。別の種類の収穫の業に自分の時間とエネルギーを費やしたいという願いが私の内部で強くなってゆきました。テモテに対する使徒パウロの次の助言に,私は感銘を受けました。『み言葉を宣べ伝え,順調な時期にも難しい時期にもひたすらそれに携わり……福音宣明者の業を行ないなさい』― テモテ第二 4:2,5。
是非とも業に取り掛かりたいと思い,シドニーにあるものみの塔協会に手紙を書き,全時間奉仕者,つまり開拓者として霊的収穫に携わるための任命を求めました。協会は私の申込書を受理し,1929年に私をクイーンズランド州南部のトゥウンバに任命しました。
奥地で宣べ伝える
数か月後協会から手紙を受け取り,キャンピングカーが売りに出ているので私がそれを購入すればジョージ・シュエットも合流できると告げられました。そして,その通りになりました。ジョージは60代に入っており,長年にわたる聖書の研究者でした。私のほうはまだ20代で,全く経験がありませんでした。ジョージの助けや助言,それに聖書の知識は私にとって計り知れない価値がありました。もっとも,私はジョージの忍耐力を幾度も大いに試みたに違いありません。
私たちの区域はクイーンズランド州最西部の10万平方マイル(約26万平方㌔)の地域でした。その区域を3度網らしましたが,町々は小さくて遠く隔たっていました。羊や牛の牧場でさえ互いに60ないし70マイル(およそ95ないし115㌔)離れていました。人里離れた所に住むそれらの人々は,わずか10シリング(約480円)の寄付で提供された10冊一組の堅表紙の書籍を喜んで求めました。人々が非常に親切だったので,食事や晩の寝場所に困ることは一度もありませんでした。
奥地の道はわだちでできた小道にすぎませんでした。私たちは1年中,ぬかるみに対処するためにタイヤチェーンを,砂に対処するために金網を,そして問題に陥ったときに車を引き上げるために巻き上げ機を携行していました。ある時には,大水のために1週間身動きが取れなくなって食物と水が非常に乏しくなりましたが,生き延びることができました。別の時には,低木地帯のでこぼこ道を走っていて,近くの低木地帯が火事になっている所に差し掛かりました。突然,風向きが変わって火が私たちのほうに向かって来るのに気づきました。その小道は非常に狭かったため,向きを変えるわけにはいきません。私たちにできることといえば,祈りをささげ,アクセルを踏み込むことだけでした。私たちは間一髪のところを逃れました。どれほど危ういところまで行ったかを思うと,今でも震えがきます。
オーストラリアの支部で
1931年に,支部の監督であったアレックス・マギルブレイは,シドニーのベテル家族に加わるよう私を招待しました。私は大喜びしましたが,幾分圧倒されてもいました。当時協会のオーストラリア支部事務所は,中国,極東のほとんどの国々,南太平洋の島々など地球の四分の一を占める地域で良いたよりを宣べ伝える責任を担っていました。協会の当時の会長だったJ・F・ラザフォード兄弟は,それらの地域に「良いたより」を浸透させたいと強く願っていました。(マタイ 24:14)マック兄弟(私たちはみな支部の監督をそのように呼んでいた。)もそのことに同じほどの熱意を抱いていました。ベテルに入った時には,まさにそのうちの幾つかの土地にほどなくして自ら赴くことになろうとは思ってもみませんでした。
宣教者の業には苦しみに耐えることがいつでも関係しています。しかし第二次世界大戦前のその当時,宣教者を訓練するためのギレアデ学校はなく,宣教者の家もありませんでした。連絡を取るにも時間がかかり,それは孤立感をいやが上にも増し加えました。文書に対するわずかばかりの寄付のほかには何の経済的な支えもありませんでした。それらの文書は,兄弟たちの寛大さにより,協会が原価をはるかに割って提供してくれたものでした。福音宣明者の召しに応じる人々は,本当の意味で草分け,つまり開拓者でなければなりませんでした。その業は,通常二人一組で,人々のあふれる東洋の諸都市へ,あるいは太平洋の孤島へ出かけて行き,聖書の真理の種を処女地に植えることを意味しました。私たちは全く異なった信条や言語,生活様式に対処しなければならず,それにはエホバに対する全き信頼と忠節が求められました。
ニュージーランドへ
海外で奉仕するよう1932年に初めて任命されて赴いたのはニュージーランドでした。私は宣べ伝える業,とりわけ開拓奉仕の業を組織することに特別注意を払うことになっていました。ですから,諸会衆を訪問することに加えて,開拓者たちと共に野外で働きました。開拓者の中には,キャンプ用具一式と信頼のおける古い自転車をも含む乗り物を装備して,旅行するグループを作っている人々もいました。私は少しの間,南島でそのような1グループと共に奉仕しました。
ある時私たちは,クライストチャーチの市民劇場を借りて,録音されたラザフォード兄弟の講演を聞かせました。ジム・テイトという名の若者がやって来て,深い関心を示しました。私は翌晩再びこの若者に会い,その熱心さに深い感銘を受けて,私たちの開拓者のグループに加わることを考慮してみるよう勧めました。今日であればそのような招待は実に時期尚早なものと思われるでしょう。ジム・テイトはまだバプテスマを受けていなかったのです。それでも,ジムは家へ行き,わずかばかりの持ち物をまとめて,自転車に載せ,両親に別れを告げて,喜びにあふれる私たちの一隊に加わりました。今日に至るまでジムは筋金入りのエホバの証人です。その当時は確かに,「順調な時期」でした。
極東
1936年にオーストラリアに戻り,バタビア(今のジャカルタ)およびシンガポールへの旅行のための概況説明を受けました。極東の宣教者たちとより緊密な連絡を取るための事務所に,どちらの都市のほうが適しているかを私は推薦することになっていました。私はより良い中心地としてシンガポールを選び,その事務所を運営し,同市内で宣べ伝える業を行なうためにそこにとどまりました。エホバはその業を祝福してくださり,18か月を経ずしてシンガポール会衆が設立されました。
後日,全長16㍍ほどの協会の帆船,ライトベアラー号がシンガポールに基地を置きました。奉仕者たちで成るその乗組員は,現在のインドネシアおよびマレーシアの数多くの港を訪れ,宣べ伝えました。彼らに文書を絶えず供給するのは私の務めの一つでした。1936年だけで,彼らは1万500冊の出版物を10か国語で配布したことを覚えています。
太平洋の島々
1937年7月に再びシドニーに呼ばれ,フィジーに派遣されました。そこではわたしたちの文書が禁令下に置かれていたので,フィジー人のテッド・ヒートレーの翻訳した,ラザフォード兄弟の講演のフィジー語版を使って,サウンドカーで宣べ伝えることに努力を傾けました。テッドはスピーカーを通して話をするために私に付いて来ました。私たちは主要な島であるビティ・レブ(大フィジー)のすべての村々を訪れ,好意的に迎えられました。それに加えて,スバ会衆を設立したり,家から家への宣べ伝える業を拡大したりするのを助けました。
1938年にラザフォード兄弟はオーストラリアとニュージーランドを訪れましたが,その訪問は大いに報道されました。報道の大半は敵意のあるものでしたが,それは好奇心を引き起こすことになったにすぎませんでした。私は同兄弟の訪問の手はずを整えるためにニュージーランドへ行きました。集会のために同兄弟を車に乗せてオークランド公会堂へ行く途中,兄弟が幾年も前に行なった講演の主題をもじった新聞のプラカードに兄弟の注意を促しました。そのプラカードには,「現存する万民は,ラザフォード判事の話を聞くぐらいなら死んだほうがましだ」と書かれていました。ラザフォード兄弟は大笑いしました。それはいずれも良い宣伝になり,公会堂は満員で人があふれ出るほどでした。
フィジーへ戻る
1940年のある日のこと,シドニーの事務所で働いていると,マック兄弟から「パスポートは大丈夫ですか」と尋ねられました。私が大丈夫だと告げると,「三日後にフィジーに向けて出帆する船があります。フィジーへ行って,わたしたちの文書に対する禁令について政府と法廷で争ってもらいたいのですが」と言われました。そこで,禁書になっている文書を一つのカートンに詰めてフィジーへ戻りました。推挙された弁護士は恐れて二の足を踏んでいたので,その人を使わないことにし,それほど恐れを抱いていない別の弁護士を見つけました。その弁護士は訴訟の準備はするが,法廷での弁論はしない,と言いました。その結果,私は法務長官を相手取って訴訟を行なうことになりました。結局,最初の弁護士が優柔不断であったために,時間の点での手続きの不備で私たちは敗訴しました。
その挫折の後に,総督のハリー・チャールズ・ルーク卿に会見を申し込み,それが許されました。首相と警察本部長も総督と同席していました。私は共にいてくださるようエホバに懇願しました。この件について話すに当たって,私は禁令が出るよう働きかけた張本人がローマ・カトリック教会であることを示す証拠を提出しました。話し合いの終わりに,総督は私のところにやって来て証拠として提出した禁書になっている本を私に手渡し,静かな口調でこう言いました。「ギルさん,あなたがお考えになっているほど私はローマ・カトリックの僧職者たちの謀りごとを知らないわけではありません。あなたの行なっている福音伝道の業をこれからもお続けになるようお勧めします」。私は総督に感謝の言葉を述べ,文書を送るようシドニーに電報を打ちに行きました。
米領サモア
次に私は米領サモアに派遣されました。そこで過ごした3か月の間,私は政府の主要な通訳で非常に尊敬されている人物,大酋長タリウ・タファのところに滞在しました。この人の姪がフィジーでエホバの証人になっており,前もって話をしておいてくれたのです。それで,船が波止場に着いた時,その大酋長が満面に笑みを浮かべて私を迎えました。私の滞在期間中ずっと,大酋長は非常に温かくもてなしてくれました。もちろん,その家族は生の魚とヤムイモだけからなる原住民の食事をしていました。サモア人はそれで元気にやってゆけますが,少しすると私には耐えられなくなりました。吹き出物が次から次にできて,西欧式の食事がしたくてたまらなくなりましたが,そのためのお金が全くありませんでした。その時までには,「難しい時期」を切り抜けることに慣れていました。
米領サモアでの私の仕事は,新たに翻訳された「死者はどこにいるか」という小冊子を3,500部配布することでした。到着してすぐに,その小冊子について知ってもらい,小冊子を1部進呈するために総督を表敬訪問しました。総督はその島にはすでに宗教がたくさんあると考えていました。海軍の軍隊付き牧師,ロンドン宣教師協会,セブンスデー・アドベンティスト,それにローマ・カトリックです。しかし,それらの宗派に1冊ずつ小冊子を贈り,それが配布にふさわしいと思うかどうか法務長官に各宗派の牧師が進言するように,と総督は提案しました。軍隊付き牧師は皮肉めいたことを言いましたが,敵意を示しませんでした。アドベンティスト派の人々は,彼らの羊の群れを連れ去らない限り,私が何をしようと構わないという態度を取りました。宣教師協会の牧師は,法王制について共通の立場を取っていることが分かってからは丁寧になりました。カトリックの司祭には結局一度も会うことがありませんでした。ある奇妙な出来事が生じたからです。
総督のところに行くときに護衛として付き添ったサモア人の警察官に,私はその小冊子を1部進呈しておきました。数日後,その警察官を見かけた時に,読んでみて面白かったかどうか尋ねました。すると警察官はこう言いました。「長官[法務長官]わたしに,『司祭のところへ行って,これ良い本か聞いて来なさい』と言った。わたし木の下へ行く,本読む。わたしこう言う。『これとても良い本,でも司祭に見せたら,「良くない本」と言う』。わたし長官に言う,『司祭言う,「とても良い本」』」。
後日,港の遊歩道沿いで証言をしていると,法務長官がやって来て,自分の事務所に私を招き入れました。事務所の中で,私は長官がその小冊子に目を通す間,小冊子の述べる音信を要約して話しました。すると長官は電話を取って,その本を解禁にするよう命令しました。確かに,非常に「順調な時期」になりました。私は自転車を購入して,この小冊子を配布しに出かけました。3か月間に,350冊の小冊子が入った一つのカートンを除いて,すべてを配布し尽くしました。
西サモア
私はその残った小冊子を船で数時間の所にある西サモアへ持って行きました。しかしそれよりも早く,私についての話が伝わっていたに違いありません。私が到着すると,警察官が上陸を許可しないと言ったからです。そこで私は自分のパスポートを呈示し,幾分威厳のある前書きを読み上げました。その前書きは,英国国王の臣民が「何の障害も受けずに通行し,この者にあらゆる援助と保護を差し伸べるよう」関係者すべてに要請しています。その結果総督と会見することができ,五日後に次の船が出るまでの滞在を許されました。私は自転車を借りて,その島を巡り,小冊子を遠く広く配布しました。
それから米領サモアに戻りました。太平洋では戦争がたけなわで,愛国心が高まっていました。当局者たちは私たちの厳正中立の立場を理解できなかったために,私たちのことを多くの土地で禁令下に置きました。(ヨハネ 15:19)とはいえ,当局者は私にサモアから出て行くよう丁重に要請し,私はオーストラリアへ戻りました。
ニュージーランドへ戻る
その時までに,ニュージーランドの兄弟たちに「難しい時期」が臨んでいました。そこが私の次の任命地になりました。しかし,私が到着して間もない1940年10月に,私たちの業はその地でも禁令下に置かれました。政府に対して数多くの手紙や電報が送られましたが,何の反応もありませんでした。送られた電報の中には私たちが法務長官に当てて送った次のような電報もありました。「貴政府は,クリスチャンとして集まり合い,歌と祈りと聖書研究をもって神を崇拝する権利を否認するのか。イエスかノーかでお答えいただきたい」。
翌日,首相の秘書が電話をしてきて,会見の場を設けてもよいということだったので,ロバート・レイズンビー兄弟と私がそれを受け入れました。首相のピーター・フレーザーと共に,法務長官と警察の高官が一人同席していました。3人は愛想が良く,丁重ではありましたが,自分たちには何の手も打てないという印象を与えました。しかし,1941年5月8日に,政府は禁令を改正し,私たちの集会は許可することにしました。もっとも,私たちは個人の家で小さなグループになり,ずっと集会は開いていました。また,文書を配布しない限り,妨げられずに宣べ伝えることもできました。後に,1945年3月,まだ太平洋で激しい戦争が行なわれている時に,禁令は完全に撤回されました。
英国に戻る
私は1941年にシドニーに戻りました。その時にはオーストラリアでも私たちは禁令下に置かれていました。マック兄弟は幾らかの話し合いの後に,私がロンドンへ行ってその地で禁令について何らかの措置が取れるかどうか試みてみることに同意しました。私は1941年10月2日に出帆しましたが,戦争に伴うさまざまな危険のゆえに,ほぼ3か月後の12月22日までリバプールに着きませんでした。
ロンドンでは,海軍本部委員会第一委員(海軍大臣)で,私の父の友人でもあるアレグザンダー卿と会見することを試みました。しかし,戦争がたけなわの時に,それは不可能でした。事実,ロンドン政府は私たちの問題を専ら関係諸政府の問題とみなしていました。
ニューヨークにある協会の本部へ旅をした後,私は英国に戻り,オーストラリアへ渡航するための切符を手に入れました。私の荷物は調べられ,ロンドンで封印され,それから私は船へ向かいました。私が滞在していた先の兄弟たちが餞別に幾らかの贈り物をくださり,私はそれを小さな旅行カバンに入れました。船に乗ろうとした時,税関の係官が,「どうしてこれらの品には封印がしていないのか」と尋ねました。私の簡単明瞭な説明に満足しなかった係官たちは,私を逮捕し,服を脱がせ,何の罪も見いださなかったにもかかわらず,検査を免れようとしたとの疑いで私を告発しました。私はウォルトン刑務所で1か月を過ごしました。今日に至るまで,私をオーストラリアに戻さないようにするために仕組まれたわなにはめられたと信じて疑っていません。
その後,渡航するのは不可能でした。そこで英国に定住し,最初はダービーシャーのアルフレトンで実りの多い宣教を楽しみ,後には巡回監督として諸会衆を訪問しました。次いで,必要が非常に大きかった所で奉仕するためにマルタへ赴きました。今では,若者だった62年前に後にした都市,シェフィールドに戻っています。同市にある15の会衆の一つであるエクレザル会衆の書記として奉仕するのは私にとって特権です。そしてこの後半生には,妻のジョーンの優れた支えを受けてきました。ジョーンは,私が35年前に研究したある家族の一員でした。
私は今,「順調な時期にも難しい時期にも」福音宣明者として奉仕した半世紀を振り返ることができます。そうしてみると,信頼と忠節という二つの特質を高く評価しないわけにはゆきません。そうです,どんな状況においても,エホバに信頼を置くのです。エホバとそのみ使いたちの大軍がわたしたちと共にいることに信頼を置いてください。わたしたちが孤立無援になることは決してありません。
そして,忠節を保つことです。エホバとイエス・キリストに対してだけでなく,わたしたちを大事に育て養ってくれる神の地的組織に対しても忠節を保つのです。確かに,組織内の調整やわたしたちにもたらされる問題やわたしたち自身の愚かさから来る問題によって,忠節が試みられることはあります。しかし,忠節と信頼という尊い特質は,「順調な時期にも難しい時期にも」,ずっと私たちの身の守りとなるでしょう。
[26ページの図版]
オーストラリアのクイーンズランド州の奥地で開拓をする
[28ページの図版]
ライトベアラー号の乗組員と共に ― シンガポールで
[29ページの図版]
サモアで私をもてなしてくれた大酋長タリウ・タファ