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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1986
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読者からの質問

■ ある人が真のキリスト教の信仰から離れてほかの宗教団体に加入する場合,会衆としてのふさわしい対応の仕方はどのようなものですか。

西暦1世紀にそのような事が時折生じました。ですから,今日そうしたことがたまに起きるのも理解しがたいことではありません。そのような事態が生じた時,会衆は会衆内の忠節なクリスチャンの霊的清さを守るためふさわしく対応します。

ある辞書では,背教は「自分の宗教,原則,政党などを捨てること」と定義されています。別の辞書には,「背教……1: 信仰を捨てること。2: それまでの忠節を放棄すること」と記されています。したがって,ユダ・イスカリオテはイエスを裏切ることによってエホバ神に対する崇拝を放棄した時,一種の背教の罪を犯しました。後日,使徒ヨハネや他の初期の弟子たちが生きていた時でさえ,真の信仰を捨て去ることによって背教者となった人たちもいました。ヨハネは,「彼らはわたしたちから出て行きましたが,彼らはわたしたちの仲間ではありませんでした。わたしたちの仲間であったなら,わたしたちのもとにとどまっていたはずです」と書いています。―ヨハネ第一 2:19。

今日,同じような事が起きたなら,どうすべきでしょうか。バプテスマを受けたクリスチャンでありながらエホバの民と交わるのをやめ,ほかの宗教団体と交わるようになったと思われる人について,会衆の長老たち,すなわち牧者たちは知らされるかもしれません。霊的な牧者たちは,迷い出たどんな羊にも気遣いを示すことについて話されたイエスの言葉に調和して,そのような人を助けることに関心を示すべきです。(マタイ 18:12-14。ヨハネ第一 5:16と比較してください。)しかし,その件を調べるよう指命された牧者たちが,当人はもはやエホバの民と一切かかわりを持ちたくないと思っており,偽りの宗教にとどまることを決意している,と判断する場合はどうでしょうか。

その場合には,当人が自ら関係を断絶したこと,それゆえにもはやエホバの証人ではないということが会衆に手短に発表されるでしょう。そのような人は『自分のそれまでの忠節を放棄』してしまったわけですが,どんな公式の排斥処置も取る必要はありません。なぜでしょうか。当人は既に自ら会衆との関係を断絶しているからです。恐らく当人は,自分に従うよう説得するために以前の兄弟たちとの接触を保とう,とはしていないでしょう。忠節な兄弟たちとしては,その人との交友を求めたりはしません。『その人が出て行ったのは,仲間ではなかったからです』。(ヨハネ第一 2:19)『わたしたちから出て行ってしまった』,関係を断絶したそのような人は,偽りの宗教や背教を助長する手紙や文書を送り始めるかもしれません。それはその人が明らかに『わたしたちの仲間ではない』ことを強調するものとなるでしょう。

ところが,中には神の民の内にとどまり,その民の中でほかの人々を誤導しようとする人がいる,と聖書は警告しています。使徒パウロは,「あなた方自身の中からも,弟子たちを引き離して自分につかせようとして曲がった事柄を言う者たちが起こるでしょう」と忠告しました。(使徒 20:30)パウロは,『自分たちが学んだ教えに逆らって分裂とつまずきのきっかけをもたらす人たちに目を留め,その人たちを避けるよう』クリスチャンにはっきり警告しました。―ローマ 16:17,18。

ですから,パウロの時代のヒメナオとフィレトのように,真のクリスチャン会衆の中で偽教師になった人がいるなら,群れの牧者たちは保護策を講じなければならないでしょう。当人が牧者たちの愛ある訓戒を退け,分派を助長し続けるなら,長老たちの委員会はそのような人を背教のゆえに排斥,すなわち追放することができるでしょう。(テモテ第二 2:17。テトス 3:10,11)会衆内の個々の兄弟姉妹はパウロの指示に従って,『分裂をもたらそう』としたその人を「避け」るでしょう。ヨハネも次のように同様の助言を与えています。「この教えを携えないであなた方のところにやって来る人がいれば,決して家に迎え入れてはなりませんし,あいさつのことばをかけてもなりません」― ヨハネ第二 10。

■ バビロンに捕らわれていたユダヤ人がエルサレムに帰還したとき,その旅程は800㌔ほどでしたか,それとも1,600㌔ほどでしたか。

古代バビロンからエルサレムまでの直線距離は約800㌔でした。その直線コースを取るとすれば,非常に乾燥した土地や砂漠が延々と続く所や,極めて荒涼とした土地を通って旅をすることになります。選択可能なもう一つの道は,距離にしておよそ2倍になりますが,ユーフラテス川を渓谷沿いにさかのぼってハランへ向かい,ハランから南下してダマスカスを通り,約束の地に入るという道です。アブラハムはウルからカナンへ自分の家族を連れて行ったとき,この後者の道を取りました。―創世記 11:31-12:5。

聖書は,ユダヤ人がバビロン捕囚から解放されてエルサレムへ帰還する際に通った道については説明していません。(エズラ 8:1-32; 7:7-9)ですから,2種類の数字のどちらにしても可能性があり,その旅に言及するときにはどちらでも使えます。それより重要なのは,帰還するユダヤ人が「神聖さの道」を通って行き,バビロン的な教義や慣行から解放されることになっていたということです。―イザヤ 35:8-10。1976年発行の「世の苦難からの人間の救いは近い!」という本の155ページから159ページと比較してください。

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