愛の最も偉大な二つの表明に対して感謝を示す
「わたしたちは,彼がまずわたしたちを愛してくださったので愛するのです」― ヨハネ第一 4:19。
1 イエスはわたしたちにどんな模範を示されましたか。
どうすれば,エホバ神とイエス・キリストがわたしたちに示してくださった偉大な愛に対して,最もよく感謝を示せるでしょうか。主要な方法は,み父のみ名と王国を精力的に証しされたイエスに見倣うことです。(ペテロ第一 2:21)イエスは家でも,会堂でも,神殿でも,山腹でも,海岸でもそのようにされました。では,わたしたちにも活用できる九つの異なった方法について考えてみましょう。
家から家の活動
2 どうすれば,家から家の業をたゆみなく行なえますか。
2 わたしたちが愛と感謝を示すことのできる最初の,そして恐らく最も特色のある方法は,神の王国の良いたよりを携えて家から家に行くことです。そうするには,本当の意味ではばかりのない言い方が求められます。その業を行なうには絶えず他の人と面と向かわなければならず,それらの人たちの中にはわたしたちをやっかい者とみなす人が多いからです。無関心さ,いら立ち,さげすみ,あらわな反対などに直面しながら戸別訪問を続けるには,神と隣人に対する真の愛が必要です。―エゼキエル 3:7-9と比較してください。
3 家から家の活動にはどんな聖書的な根拠がありますか。
3 イエスが十二使徒に対して,後には70人の福音宣明者に対して与えた指示が福音書に記されていますが,その記述はそれらの弟子たちが神の王国の良いたよりを宣べ伝えるために家から家を訪問したことを明示しています。(マタイ 10:5-14。ルカ 10:1-7)使徒 20章20節によれば,パウロは家から家に行ったと述べています。その言葉はパウロが牧羊の訪問を行なったことに適用されてきましたが,21節を見れば,ここで言っている活動について疑問の余地はなくなります。パウロはそのあとで,「神に対する悔い改めとわたしたちの主イエスへの信仰について,[クリスチャンの兄弟姉妹たちにではなく]ユダヤ人にもギリシャ人にも徹底的に証しをした」と述べているからです。普通の場合,長老が牧羊の訪問をして,『神に対する悔い改めとイエスへの信仰』を勧めることはありません。むしろ長老は,集会や宣教に対する認識を増し加えるよう励ましたり,個人的な問題の助けを差し伸べたりします。
4 どんな事実によって,わたしたちは家から家に宣べ伝える業にあずかるよう促されますか。
4 わたしたちが家から家に行くことには聖書的な根拠があるというだけではなく,その活動の生み出す実も,そこにエホバの祝福があることを示しています。そうです,「知恵はその働きによって義にかなっていることが示されるのです」。(マタイ 11:19)家から家を訪問している人々が,義に飢え渇いている人に会えるようみ使いが指導していることの証拠を目にすることも珍しくありません。家の人は,自分は助けを祈り求めていたが,証人の訪問がその答えになったと言っています。
5 家から家の宣教に役立つどんな優れた助けがありますか。それは,どんなさまざまな面でわたしたちを助けてくれますか。
5 野外奉仕を行なうための実に強力な助けとして,「聖書から論じる」の本があります。この本には,聖書や宗教に関連した数々の話題をめぐる有用な情報に加え,聖書について話し合うための心をとらえる数々の紹介の言葉が収められています。ですから,それを常時携えてゆくだけではなく,いつも参照するようにしましょう。とりわけ開拓者は,野外奉仕のためのこの貴重な助けに対する深い感謝の気持ちを言い表わしています。あなたは,この本を一層十分に,そしてより効果的に用いることにより,神の愛に対する感謝を表わせるでしょうか。
6 王国の音信を携えて家から家に行くなら,どのような個人的な益を得ることができるようになりますか。
6 家から家の宣教にあずかれば,個人的に大きな益にあずかれるようになるという事実を見過ごすべきではありません。わたしたちクリスチャンが信仰に基づいて行動するなら,信仰はいよいよ強固になります。確信を持って語れば,信仰は強められます。自分自身の希望をますます鮮明なものにしなければ,他の人々に自分の抱く希望について語ることはできません。ガラテア 5章22節と23節に記されている霊の実を培うのに,家から家の宣教に定期的に参加することほど良い方法はありません。まさにそうあるべきです。聖書は「寛大な人は繁栄し,他の人をさわやかにする人は自分自身がさわやかにされる」と保証しているからです。―箴言 11:25,新国際訳。
再訪問を行なう
7,8 再訪問をすべきどんな論理的な,また実際的な理由がありますか。
7 神とキリストがわたしたちに示してくださった愛にこたえ応じるための2番目の方法は,以前に王国の音信に関心を示した人々を再訪問することです。パウロとバルナバは自分たちが伝道した人々のことを気遣いました。(使徒 15:36)実際,行動の一貫性を保つという面からしても,再訪問が必要になります。戸別に,非公式に,あるいは街路で証言する際,わたしたちは「霊的な必要を自覚している」人々を探します。(マタイ 5:3)言うまでもなく,そのような人たちに,言わば霊的な一杯の水,もしくは霊的な一切れのパンを与えるだけでは決して十分ではありません。命に至る道を歩むようになるには,より多くの助けが必要です。
8 わたしたちの最初の努力は,真理の種を植えることに例えられるかもしれませんが,使徒パウロがコリント第一 3章6節と7節で指摘しているように,それ以上の事柄が必要です。パウロが植えるだけでは不十分でした。種には,アポロが与えたように,水も必要でした。それから,神がそれを成長させてくださることを期待できたのです。クリスチャン宣教のこの分野を無視する人もいますが,多くの人は,宣教の中で実際これほど容易に行なえるものはないと考えています。なぜですか。わたしたちの訪問する人々は,すでにある程度の関心を示しているからです。
家庭聖書研究を司会する
9 家庭聖書研究の司会を目標とすべきなのはなぜですか。
9 王国の音信に関心を示した人々を定期的に再訪問すると,しばしば家庭聖書研究が始まります。これが,わたしたちの感謝を示すための3番目の方法です。これは確かに,わたしたちの宣教における最も楽しく報いの多い面となり得ます。なぜですか。人々が聖書に関する知識と認識を増し加えて生活を変化させるのを見,その人が神のご意志を行なうために献身してバプテスマを受けるまで援助できるのは,何という喜びでしょう。実際にそのような人たちをわたしたちの霊的な子供として,わたしたちを彼らの霊的な親として考えることができるのです。―コリント第一 4:14,15; ペテロ第一 5:13と比較してください。
10 家庭聖書研究を司会することの価値を示すどんな典型的な例がありますか。
10 典型的な一つの例を考えてみましょう。カリブ海に浮かぶ一つの島で家から家を訪問していたある宣教者はヒッピーの男女に会いましたが,その家はどう見てもきちんと片づいているとは言えませんでした。しかし,その二人は関心を示したので聖書研究の手引き書が配布され,家庭聖書研究が始まりました。この二人は数人の子供をもうけていましたが,結婚はしていませんでした。研究が進むにつれ,家の中は以前よりもきちんとなり,この二人と子供たちもきちんとするようになりました。やがて二人は宣教者の夫婦に自分たちを結婚させてほしいと願い出たので,バプテスマを受けるための道が開けました。その後のある日のこと,新しく兄弟になったその人は,生まれて初めて手に入れた自動車免許証をうれしそうに見せました。そうです,この人はエホバの証人になる前は結婚許可証や運転免許証を手に入れる必要性を理解していませんでしたが,今では神の律法とカエサルの法律の両方に従っています。
街路での証言
11,12 (イ)聖書には,街路での証言に参加することを勧めるどんな言葉がありますか。(ロ)こういう証言を行なうべきどんな理由がありますか。
11 神とキリストがわたしたちのためにしてくださった事柄に対する感謝を示せる4番目の方法は,街路での証言です。この業にあずかるとき,わたしたちは,「真の知恵がちまたで大声を上げて叫んでいる。公共広場でその声を出している。騒がしいちまたの上手で呼ばわる」という箴言 1章20節と21節の幾らか文字通りの意味の成就に貢献しているのです。
12 王国を宣べ伝える業のこの分野に定期的に参加すべき理由は非常に多くあります。家にいる人々に会うのが次第に難しくなっている地域は少なくありません。それらの人々は何かのレクリエーションをしたり,買い物をしたり,仕事をしたりしているのです。それに,ホテル住まいの人は言うに及ばず,関係者以外の立ち入りを禁止するマンションや分譲アパートに住む人々も大勢います。しかし街路には,いつでも人々の姿が見られます。
13 街路での証言を行なえば,どんな結果の生じることがありますか。例を挙げて説明してください。
13 米国に住む一人の長老は現在4件の家庭聖書研究を司会していますが,研究生は街路証言の活動に携わっているときに初めて接触した人たちです。もちろん,ただ黙って立っていたのではなく(もっとも,国によっては法的にそれしか許されていないところもある),通りに立っている人,バスを待っている人,ゆっくり歩いている人などに,親しみやすいほほえみを浮かべ,明るい声で近づきます。その長老は「発することばを常に慈しみのあるもの,塩で味つけされたもの」とし,一人一人に対する近づき方に関して識別力を働かせます。(コロサイ 4:5,6。ペテロ第一 3:15)この兄弟はそのような街路での証言を行なって家庭聖書研究を与えられただけでなく,大勢の人に文書を配布する面でも大きな成功を収めています。確かに,きちんとした身づくろいをし,親しみやすいほほえみを浮かべ,はばからずに語るなら,街路の証言で大きな成果を上げることができます。事実,最近5人の証人たちは,商店街の区域で,「生命 ― どのようにして存在するようになったか 進化か,それとも創造か」という書籍を30冊以上配布しました。車の中にいた人たちがその書籍を求めるというケースが多くありました。
非公式の証言
14 非公式の証言に価値があることは,どんなことから明らかですか。
14 神とキリストがわたしたちに示してくださった偉大な愛に対する感謝を表わす5番目の方法は,非公式の証言です。多くの場合,この方法は,義に飢え渇いている人々を探し出す面でも,文書を配布する面でも,非常な効果を上げてきました。確かにこの証言は,「自分のために,よい時を買い取りなさい」というエフェソス 5章15節と16節の諭しに注意を払っていることを示す一つの方法です。一人の宣教者は,タクシーに乗り合わせた人と会話を始めました。その男の人は関心を示したので,再訪問がなされ,聖書研究が始まりました。今その人はクリスチャンの長老です。別の場所の長老は一人の女性と会話を始めましたが,その人はユダヤ人と結婚するために宗教を変えようとしていたことが後で分かりました。その女性は,モーセ,ノア,ダビデなどのうちで一番古いのはだれなのかを知りたいと思っていました。長老はその女性に,今あなたに必要なのは,聖書中の出来事を年代順に示した「わたしの聖書物語の本」であると言いました。その女性にとって長老は全く面識のない人でしたが,その書籍を郵送してもらえるよう,すぐに名前と住所を告げ,必要な寄付を置いてゆきました。
15 非公式の証言を行なうための機会をめざとくとらえるために,何が助けになりますか。
15 時々わたしたちは,断わられるのではないかと考えて,すぐ隣にいる旅行者と話を始めるのを躊躇するかもしれません。しかし,勇気を奮い起こしてそうするとき,豊かに報われるという例は何と多いのでしょう。神の善良さと人々の必要に対する認識があれば,必要な勇気を持てるように助けられます。そうです,「神はわたしたちに,内気の霊ではなく,力と愛と自己鍛錬との霊を与えてくださった」ということを忘れてはなりません。―テモテ第二 1:7,新国際訳。
見知らぬ人々を歓迎する
16 王国会館を訪れている見知らぬ人々に機敏に注意を払うべきなのはなぜですか。
16 神とキリストへの感謝を示せる6番目の方法は,王国会館にやって来る見知らぬ人々を歓迎することです。隣人愛があれば,わたしたちの崇拝の場所を訪れる,見知らぬどんな人にも目ざとく気づくようになるはずです。そのような人が落ち着いた気持ちになれるよう,自分は霊的な福祉に誠実な関心を持つ友の中にいると感じさせるように努めましょう。その人はきっと,何とはない好奇心だけで王国会館に来たわけではないのです。本当に義に飢え渇いている人かもしれません。そのような人に純粋な関心を示せば,家庭聖書研究を始めて,命への道を歩むようその人を助けられるかもしれません。(マタイ 5:3,6; 7:13,14)実際,まさしくその通りのことが頻繁に生じてきました。ものみの塔ギレアデ聖書学校の第1期生であった一人の宣教者は,自分の非常に有望な二人の聖書研究生は,王国会館で初めて知り合った人たちだと述べました。
手紙を書いて証言する
17 手紙を書いて証言するなら,どんな結果の生じることがありますか。
17 神とキリストがわたしたちに示してくださった愛にこたえ応じるための7番目の方法は,手紙を書くことです。こういう証言の仕方を用いる人が,深い感謝のこもった返事の手紙を受け取ることも珍しくありません。体が病弱で家から家を一時的に訪問できないような全時間奉仕者で,この方法を用いる人もいます。例えば,このようなことがありました。12人の子供のいる家族があり,ある日のこと,父親が家に帰ってみると,5人の子供が銃で撃たれていました。その人の娘に求婚していた男が冷酷にも射殺したのです。キリスト教世界の僧職者に慰めを求めても満足できませんでした。そんなある日,その父親は見知らぬ人からの手紙を受け取りました。それはこの人の経験した悲劇を新聞で読み,慰めを差し伸べたいと考えたエホバの証人からの手紙で,その手紙には「真理」の本が同封されていました。それは,まさしくその人が探し求めていたものでした。この父親も現在では熱心なエホバの証人になっています。a
電話をかける
18,19 ある人々は,良いたよりを宣べ伝えるためのほかのどんな方法が効果的であることに気づいていますか。なぜですか。
18 証言をするための8番目の方法としては,電話を使って王国の良いたよりを宣べ伝えるという機会があります。これが,好感を与える効果的な証言方法であることは,次第に明らかにされています。宣教のこの分野で巧みになってゆく証人たちはますます増えており,この方法には良いところがたくさんあります。この方法を用いれば,家から家の活動では会えない人々に接することができます。電話による証言を思慮深く親切に,また機転をきかせて巧みに行なえば,家々を訪問したときよりも良い反応さえ得られることに気づいた人たちもいます。
19 英語圏の国にある日本人の一会衆では,電話帳を自分たちの区域の一部として活用しています。伝道者たちは日本名の人に電話をし,その人が関心を抱いている場合には個人的に訪問する取り決めを設けます。このようにして,文字通り幾十もの研究が始まりました。
良い行状によって証言する
20,21 わたしたちの行状はどんな良い影響を及ぼすことがありますか。例を挙げて説明してください。
20 神に誉れをもたらすことのできる9番目の方法は,わたしたちの良い行状です。かつてソ連の一ジャーナリストは,わたしたちのりっぱな行状はこのうえない説教だと語りました。実際,報道機関はエホバの証人の高い道徳律について幾度も論評してきました。ある新聞は,「エホバの証人がドイツ連邦共和国で最も正直な人々であることはだれの目にも明らかである」と伝えました。エホバの証人である一人の少女は新学期の初めに先生のところに「学校」のブロシュアーを持って行きました。先生は,エホバの証人とはかかわりを持ちたくないと言ってブロシュアーをそっけなく退けましたが,やがてその少女はりっぱな行状によって先生から大変ほめられるようになり,その先生のエホバの証人たちに対する態度もすっかり変わりました。同様の事柄は,エホバの証人である親が子供たちの学校の先生から受け取った次の手紙にも示されています。「あなたの信念がだれも否定できないほど成功を収めていることを示しているのは,あなたのお子さんたちです」。
21 世の人々がエホバの証人について良いことを言えば,それは必ず神とキリストに誉れをもたらします。まさにそうあるべきです。イエスは,人々がわたしたちの良い業を見て天の父に栄光を帰すことができるよう,光を輝かせるべきであると言われたのではありませんか。(マタイ 5:16)まさにわたしたちはりっぱな行状によって真理を飾ることができます。(テトス 2:10)確かに,わたしたちのりっぱな行状が神とキリストに賛美をもたらし,命の道を歩むよう他の人々を助けるという事実は,常に自分の行状が非難されるものとならないよう十分気を配っていなければならない強力な理由です。
22 あなたは,どのような方法で感謝を示すよう努力するつもりですか。なぜですか。
22 これまで調べてきたように,エホバとイエス・キリストがわたしたちのためにしてくださった事柄すべて,とりわけお二方による偉大な愛の表明に対する感謝を示すための方法はたくさんあります。そのような感謝を示す過程で,隣人への愛を示すことができます。―マルコ 12:30,31。
23 最後に,どんな方法で,神とキリストに対する感謝を示せますか。
23 最後に,主の晩さんを祝うことにより,二つの最も偉大な愛の表明に対する感謝を表わせることに注目しましょう。イエスは人間として地上で過ごした最後の晩に,ご自身の肉と血を表わすパンとぶどう酒で成る,年に一度の記念の食事を制定されました。イエスは,この祝いをご自分の記念として行なうようお命じになりました。(コリント第一 11:23-26)今年の主の晩さんは4月12日,日曜日の日没後に行なわれます。エホバの証人はイエスの命令に従い,全地で集まり合います。この機会を逃さないようにしてください!
[脚注]
a 詳しくは,「目ざめよ!」誌,1986年10月22日号の12-16ページをご覧ください。
復習の質問
□ イエスはどのように,またどこで証しを行なわれましたか
□ 神の偉大な愛に対する感謝を示す面で,どのようにイエスに見倣えますか