ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 塔87 5/1 22–30ページ
  • 93年の人生を回顧して

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 93年の人生を回顧して
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1987
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 高等学校と大学
  • 「これこそ真理なのだ!」
  • ラッセル兄弟を知るようになる
  • 「終了した秘義」
  • ベテルへ招かれる
  • ラジオと大会に関する特権
  • 協会の会長が代わる
  • エホバの霊に導かれている組織内での私の人生
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1988
  • 王とその王国を宣伝しなさい!(1919-1941年)
    エホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
  • たゆみなく良いたよりを宣明する(1942-1975年)
    エホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
  • 『エホバは豊かな報いをもってわたしを扱ってくださった』
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1984
もっと見る
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1987
塔87 5/1 22–30ページ

93年の人生を回顧して

フレデリック・W・フランズの語った経験

時は1893年9月12日,米国オハイオ州シンシナティ市とは川ひとつ隔てて南側にあるケンタッキー州カビントン市で,一人の男の子が生まれました。幸福な父親,エドワード・フレデリック・フランズと,喜んだ母親,アイダ・ルイーズ,旧姓クルーガーは,二人のその息子をフレデリック・ウィリアム・フランズと名づけました。

こうして93年に及ぶ私の人生が始まりました。父はドイツ生まれでルーテル教会員でしたから,私に洗礼を受けさせました。その洗礼は,牧師が水にぬらした手を私の額に置くことによって施されました。そして,洗礼証書に必要事項が記入され,額に入れられて,二人の兄,アルバート・エドワードとハーマン・フレデリックの洗礼証書と共に部屋の壁に掛けられました。それから20年たって初めて,私はそのような宗教儀式がどれほど聖書に反しているかを知りました。

私たちが,馬を使わない車,つまり二人乗りの無蓋自動車が道路を走るのを初めて見たのは,グリーナップ通りへ引っ越した時のことでした。初めて飛行機を見たのは,さらに何年も後のことでした。当時,私たちはクリーガー・パン屋の隣に住んでおり,父は夜その店でパン焼き人として働いていました。父はいつも朝,家に帰って来て寝ました。午後は暇なので,子供の私たちと幾らかの時間を一緒に過ごしてくれました。

私は学齢に達したとき,最初,聖ヨゼフ・ローマ・カトリック教会の教区学校へ通うことになり,礼拝式に出席しました。そこが12番通りとグリーナップ通りに近かったからです。今でもその学校の教室のことを思い起こせます。ある時,私は無作法な振る舞いをしたため,教師を務めていたその教会の“兄弟”(修道士)から,教室で皆の前に出て手を伸ばすようにと言われ,開いた手のひらを長さ30㌢の物差しで数回たたかれました。

また,教会の中の電気のついていない告解室に入り,仕切りの後ろにいる聴罪司祭と話して,暗記したお祈りをしたり,自分がどんなに悪い子だったかを告白したりしたことも思い出します。告白をした後,祭壇の手すりのところへ行ってひざまずくと,司祭はパンを一かけら私の口に入れ,こうして教会の教えに従い,私のために聖体拝領をさせてくれました。もっとも,ぶどう酒は司祭が後で飲むために取って置かれました。こうして,私は正式の宗教教育を受け始め,後年しだいに増し加えられた,神に対する敬意が育まれるようになりました。

1899年にその教区学校で1年の課程を終了した後,私たち家族はオハイオ川を越えてシンシナティ市のメアリー通り17番(今の東15番通り)へ引っ越しました。今度は公立学校へ通うことになり,3年生として転入しました。私はいい加減な生徒でしたから,ある時,いたずらをしたということで,右隣の机の生徒と一緒に校長室へ行かされました。校長室へ行くと,フィッツシモンズ校長は私たち二人を前屈みにさせ,手の指先を靴の先に触れさせる姿勢を取らせたまま,籐のむちで私たちのお尻を何回も打ちたたきました。察しがつくと思いますが,私は落第しました。

しかし,父は私が同じ学年に2年とどまることを快く思わなかったため,次の学期が始まった時,私をリバティー・ストリート学校のローガン校長の執務室へ連れて行きました。父はローガン校長に私を4年生として入学させてほしいと頼みました。ローガン先生は私に優しく接してくださり,「では,お子さんの知識を確かめてみましょう」と言われました。物事を探るような幾つかの質問に私が答えたので,校長先生は満足されたらしく,「お子さんは4年生に入る資格があるようです」と言われました。こうして,校長先生自ら,私を落第した学年より上の学年に推薦してくださいました。それ以来,私は落ち着いて学業に真剣に打ち込むようになり,二度と再び落第しませんでした。

若いころの私の生活はまた,宗教的な面でも変化しました。どういうわけか,シンシナティ市の第二長老派教会の代表者たちが母と接触するようになり,母はアルバートとハーマンと私をその教会の日曜学校へ通わせることにしました。当時,フィッシャー先生が日曜学校の校長で,若いベッシー・オバールが私の日曜学校の先生でした。こうして私は,霊感を受けて記された聖書に親しむようになりました。その日曜学校の先生がクリスマス・プレゼントとして私に聖書を1冊贈ってくださった時,どれほど感謝したかしれません。

私は聖書の一部を毎日読むことを生活の中で絶対に欠かせない事柄にしようと決心しました。結果として,その聖なる書物に精通するようになりました。また,その健全な影響を受けたおかげで,級友のみだらな会話や不道徳な行為に巻き込まれずにすみました。ですから,級友から変わり者と思われたのも不思議ではありませんでした。

高等学校と大学

1907年に中学校を卒業した後も,両親は私が引き続き教育を受け,一番上の兄のアルバートが1年間通ったことのあるウッドワード高等学校へ入学することを許してくれました。私も兄と同じように古典の課程を取ることにしました。それで,ラテン語の勉強を始め,その勉強は以後7年間続きました。

そして,1911年の春,卒業の時が来ました。私は,シンシナティ最大の講堂である音楽堂で行なわれる卒業式に際し,ウッドワード高校の卒業生総代に選ばれました。

その時には,シンシナティ市の全部で三つの高校,すなわちウッドワード高校,ヒューズ高校,およびウォルナット・ヒルズ高校の生徒が一堂に会して卒業式が行なわれました。高校の最上級生は,満員の聴衆と向かい合って,広い演壇上の席に座りました。最初の話はウッドワード高校の卒業生総代が行なうことになっていました。私はその時のために,「学校と市民権」という主題を選びました。話し手は3人とも盛んな拍手喝さいを受けました。私はその時,人生の18年目を迎えていました。

両親は私がさらに教育を受けることを許してくれたので,私はシンシナティ大学に入学し,教養課程を選びました。そのころ,私は長老派教会の説教師になろうと決心していました。

ラテン語の勉強を続けながら,今度はギリシャ語の勉強も始めました。アーサー・キンセラ教授のもとで聖書のギリシャ語を勉強できたのは,何という祝福だったのでしょう。私は,ギリシャ語に関する何冊かの書物を著したジョセフ・ハリー博士のもとで古典ギリシャ語も勉強しました。長老派教会の牧師になりたいのなら,聖書のギリシャ語を駆使できなければならないことを知っていたので,私は猛烈に勉強して及第点を取りました。

学校でギリシャ語とラテン語を勉強しているうちに,スペイン語を学ぶことにも興味を持つようになりました。スペイン語がラテン語によく似ていることに気づいたからです。当時,クリスチャンとして奉仕の務めに携わる際,スペイン語をどれほど使うことができるようになるかは,考えてもみませんでした。

私の大学時代の決定的な時期は,学長のリヨン博士が,講堂で行なわれた学生集会で,私が英国オックスフォード大学への留学資格の得られるセシル・ローズ奨学金を獲得するため,オハイオ州立大学へ行って他の学生と一緒に選考試験を受けることになった,という発表をしたころでした。志望者の一人は陸上競技の点では私よりも成績が優れていましたが,私はその人と比べてひけを取らない成績を収めていたため,大学側はその人と一緒に私をオックスフォード大学へ送りたいと考えました。私はその奨学金を得る資格があることを認められたので感謝しました。普通なら,それは非常に喜ばしいことだったでしょう。

「これこそ真理なのだ!」

私たちは,イエス・キリストがあるとき弟子たちに,「[あなた方は]真理を知り,真理はあなた方を自由にするでしょう」と言われたのを思い起こします。(ヨハネ 8:32)その年の前年である1913年のこと,兄のアルバートがシカゴで「真理」を知りました。アルバートはどのようにして「真理」を知ったのでしょうか。

1913年の春のある日曜日の夜,アルバートは,シカゴで働いていた時に住んでいたYMCAの寄宿舎で,早めに床に就いていました。すると,同室の友達が部屋に飛び込んで来て,困ったことが起きたと言って事情を話しました。友達はその夜,ヒンドマンさんとかいう人の家に招待されており,娘のノーラの女友達も一人,家に来ることになっていました。アルバートの同室の友達にとって,二人の女性の相手をするのは,荷が重すぎたのでしょう。そこで,アルバートはその難局に対処することにしました。その夜,アルバートの同室の友達はその二人の若い女性と共に大変上手に時を過ごしていました。しかし,ヒンドマン夫婦は主にアルバートに注意を向け,ものみの塔聖書冊子協会の教えを持ち出しました。

その後アルバートは,国際聖書研究者のグラスゴー会衆の一成員であったスコットランド人の医師,ジョン・エドガーの著した,「死者はどこにいるか」という題の小冊子を私のもとに送ってきました。最初,私はその小冊子をわきへ置いていたのですが,ある晩,聖歌隊の練習に出かける前に少し時間があったので,その小冊子を読み始めました。ところが,非常に興味深い内容だったので,途中でやめることができず,長老派教会までの1㌔半ほどの道のりを歩きながら読み続けました。教会の扉にはまだ錠が掛かっていましたから,入口の冷たい石段に腰かけてずっと読んでいました。オルガン奏者がやって来て,私が読み物に熱中しているのに気づき,「何だかとても興味深そうだね」と言いました。「ええ,実に興味深いんです!」と,私は答えました。

私は学び始めていた新しい真理がとても面白かったので,その小冊子をどう思うか,説教師のワトソン博士に尋ねてみたいと思いました。それで,実際,その日の晩に小冊子を博士に手渡して,「ワトソン先生,この小冊子のことを何かご存じですか」と尋ねてみました。

博士はその小冊子を取ってページをめくると,「ああ,これはきっとあのラッセルのくだらない話の一部だ。あの男に終末論の何が分かるものか」とあざけるように言いました。博士の軽べつ的な態度に私はすっかり面食らってしまいました。私はその小冊子を返してもらってそこを立ち去りながら,「博士がこれをどう思おうと構わない。これこそ真理なのだ!」と自分に言い聞かせました。

それから間もなく,アルバートは帰省した折に,チャールズ・テイズ・ラッセルの著した「聖書研究」の最初の3巻を持って来てくれました。アルバートはまた,私が地元の聖書研究者の会衆と親しく交われるように取り計らってくれました。なんと聖書研究者たちは長老派教会のすぐ隣で集まりを持っていたのです。私は学んでいた事柄から大きな喜びを得ていましたから,ほどなくして,長老派教会との関係を絶つ時が来たと思いました。

それで,後日,アルバートが再び帰省していた時,私たちは日曜日の夜のワトソン博士の講演に一度出席しました。講演が終わってから,アルバートと私は,教区の人たちとお別れの握手をしていた博士のところへ歩いて行き,私は博士に,「ワトソン先生,私は教会を出ます」と言いました。

博士はこう言いました。「そうか,そうだろうと思っていたよ! 君があのラッセルのくだらないものを読んでいるのを見た時,すぐにそう思ったのだ。わたしはあのラッセルという男をわたしの教会の中へ踏み込ませたりするつもりはない」。それからさらに,「フレッド,教会のわたしの聖具室へ行って,一緒に祈ったほうがいいとは思わないか」と言いました。私は,「いいえ,ワトソン先生,私は決心したのです」と告げました。

そう言って,アルバートと私は教会をあとにしました。偽りを教える宗教制度に捕らわれていた状態から自由にされて,実にそう快な気分になりました。神の言葉に大変忠節な国際聖書研究者の会衆に入れていただけたのは本当に良いことでした。私は,1914年4月5日,イリノイ州のシカゴで,水のバプテスマを受けて聖別されたことを表わしました。当時,献身は聖別と呼ばれていたのです。

私は,教育当局がセシル・ローズ奨学金資格検定試験の結果を発表する少し前に,当局に手紙を書いて,オックスフォード大学奨学金には関心がなくなったので,志望者の名簿から私を削除してもらいたい旨を知らせましたが,この件で後悔したことは一度もありません。大学で私が師事していたギリシャ語の教授,ジョセフ・ハリー博士から,私がその奨学金を受けるよう選ばれたことを知らされたのですが,私は前述の手紙を当局に出したのです。

それから2か月後,すなわち1914年6月28日,オーストリア-ハンガリーのフェルディナント大公とその妻の殺害事件が,ボスニアのサラエボで起きました。まさしくその同じ日に,国際聖書研究者たちは,米国オハイオ州コロンバスの記念館で全国大会の三日目を楽しんでいました。それからちょうど1か月後の1914年7月28日,人類史上最初の世界大戦が勃発しました。私たち聖書研究者は,2,520年に及ぶ異邦人の時が同年10月1日には終わることを予想していました。

私はシンシナティ大学で下級優等試験合格者として3学期を終えるほんの2週間前の1914年5月に,父の許可を得て退学していました。私は直ちに,ものみの塔聖書冊子協会と打ち合わせて,聖書文書頒布者<コルポーター>,つまり今日の全時間奉仕者である開拓者になりました。私はそのころには国際聖書研究者のシンシナティ会衆と活発に交わっていました。

後に,私はシンシナティ会衆の長老になりました。それで,アメリカ合衆国が連合国側に付いて第一次世界大戦に巻き込まれるようになり,青年たちが徴兵された時,私は福音を伝える聖職者として免除されました。

ラッセル兄弟を知るようになる

私がこれまでの人生で懐かしく回顧する出来事の一つは,協会の初代の会長,チャールズ・テイズ・ラッセルにお会いするという喜びを味わったことです。1914年1月4日の日曜日に「創造の写真劇」が音楽堂で初公開されることになっていましたが,その前日に私は初めて同会長と個人的に知り合いました。その土曜日,シンシナティ会衆のある長老が音楽堂の外で私を迎え,「ラッセル兄弟が中にいらっしゃるから,舞台裏へ行けばお会いできるよ」と言いました。私は是非とも会いたいと思って中に入り,いつのまにか面と向かって話していました。ラッセル兄弟は,「創造の写真劇」の初上映を行なう手はずが整っているかどうかを検分するために来ておられたのでした。

その後,1916年にラッセル兄弟はたまたまシンシナティで汽車の乗り継ぎをすることになり,数時間途中下車されました。そのことを聞いた一人の姉妹と私は,鉄道の駅へ駆けつけ,駅で秘書と共におられたラッセル兄弟を見つけました。ラッセル兄弟は弁当を持っておられ,昼食の時間になった時,弁当を私たちにも分けてくださいました。

昼食が終わると,ラッセル兄弟は,聖書に関する質問のある人はいませんか,と言われました。私は,アダムが意識的な罪人で,悔い改めなかったことからすると,復活させられる見込みが果たしてあるかどうかに関して質問しました。すると,ラッセル兄弟は目を輝かせ,「兄弟,あなたは質問をすると同時に,質問に答えておられますね。とすると,どういうことが疑問だったのでしょうか」と言われました。

「終了した秘義」

1916年10月31日,火曜日,チャールズ・テイズ・ラッセルは,「聖書研究」という一連の著書の第7巻を著さずに亡くなりました。ラッセル兄弟は,カリフォルニアから帰る途中の汽車の中で臨終に際して,秘書から第7巻について尋ねられた時,「それは,だれかほかの人が書かなければならないでしょう」と答えました。

翌年の1917年に,その第7巻は預言書であるエゼキエル書と啓示の書に関する注解書としてまさしく出版されました。また,それには聖書のソロモンの歌の書に関するすばらしい解説も載せられていました。協会はその新しい本を大々的に頒布する計画を立てました。それで,その第7巻は米国中の諸会衆の特定の人にあてて幾カートンも発送されました。オハイオ州シンシナティ市ベイミラー通り1810番地の私の家にも幾つものカートンが送り届けられ,その中の書籍の配布の仕方に関するその後の指示を待つ間,保管されていました。

「終了した秘義」の本には,戦争反対を表明していた著名な人々の言葉が8ページにわたって引用されていました。ところが,キリスト教世界のカトリックやプロテスタントなどの宗教組織にそそのかされた米国政府が異議を唱えたため,その本は247ページから254ページまで切り取られました。その後,「終了した秘義」の本を人々に提供しましたが,その際,それらのページが抜けている理由を人々に説明しました。その処置で満足しなかった米国政府は,国内の宗教組織からさらにそそのかされて,「聖書研究」第7巻をそっくり出版禁止処分に付しました。

私は,家の裏口で仕事をしていたある日曜日の朝のことを思い出します。男の人たちが家のわきの歩道を歩いて来ると,先頭の人がコートのえりを開くようにして金属製のバッジを私に見せ,家に入らせるよう要求しました。それで,私はやむをえず家に入らせ,「終了した秘義」の本の入った幾つものカートンを見せました。数日後,彼らは一台のトラックでやって来て,それらのカートンを全部持ち去りました。

後日,私たちは,ものみの塔協会の二代目の会長ジョセフ・F・ラザフォードと,ブルックリンの本部で奉仕していた同僚のうち6人が,米国の戦争遂行に傾ける努力を妨害したとして不当にも有罪宣告を受けたことを知りました。それらの兄弟たちは,四つの訴因の各々に対してアトランタ連邦刑務所での20年の懲役刑を宣告されました。もっとも,その懲役刑は各々同時に執行されることになりました。戦争は1918年11月11日に終わり,次いで1919年3月25日にラザフォード兄弟とその同僚は保釈されました。その後,それら兄弟たちは無実の罪を完全に晴らされました。また,「終了した秘義」の本も禁令を解除され,再び自由に頒布することが許されました。

協会が1919年9月1日から8日まで,オハイオ州サンダスキーの近くの保養地だった半島の端に位置していたシーダー・ポイントで開催するよう取り決めた戦後初めての大会は私たちの霊を何と元気づける集まりだったのでしょう。その大会に出席できたことは,私にとって大変喜ばしい特権でした。

ベテルへ招かれる

翌年の1920年,ラザフォード会長は,オハイオ州シンシナティ市で一般の聴衆に話をする招きに応じてくださいました。当時,私は聖書文書頒布者の業を行なっていましたが,ラザフォード兄弟は,ブルックリンの本部のベテルで奉仕するために手紙で申し込むよう私に勧めてくださいました。

私はその手紙を出し,喜ばしい承諾の返事を受けた後,ニューヨーク行きの列車に乗りました。1920年6月1日,火曜日の夜,私はニューヨークに着き,ケンタッキー州ルイスビル出身の旧友,レオ・ペレに迎えられ,ベテル・ホームへ案内されました。そして翌日の水曜日,ユゴー・リーマーとクラレンス・ビーティと共に屋根裏部屋で同室するよう正式に割り当てられ,ブルックリンのベテル家族の102人目の成員になりました。

協会はマートル街35番地に最初の印刷施設を開設し,その地下室に最初の輪転印刷機が設置されました。その輪転機は大きかったので,私たちはそれを“戦艦”と呼びました。私たちは「黄金時代」という題名の,協会の新しい雑誌を生産していました。その雑誌の名称は後に「慰め」となり,現在では「目ざめよ!」となっています。雑誌は床の細長い穴を通って上って来て,傾斜した板の上をワイヤロープで運ばれるようになっており,私はそれらの雑誌を集めて,後で断裁したり処理したりする時のためにそろえて積み上げました。

印刷機から雑誌が生産されなかった土曜日の午前中,私たち大勢の兄弟たちは,予約者の住所氏名の記された茶色の包装紙で雑誌を巻いてのり付けし,その後,郵便局で取り扱ってもらいました。私は,聖書文書頒布者部門で奉仕していたドナルド・ハズレットがメーブル・カーテルと結婚するためにベテルを去るまで,その仕事を何か月も続けました。その後,マートル街35番からコロンビア・ハイツ124番の協会の事務所へ移り,聖書文書頒布者部門で奉仕することになりました。

また,ニューヨーク会衆の一成員として,ブルックリンのリッジウッド地区のアフターマン家で開かれた書籍研究を司会するよう割り当てられました。

ラジオと大会に関する特権

私は1926年までずっと聖書文書頒布者部門で奉仕しました。その間に,ものみの塔聖書冊子協会は協会最初のラジオ放送局WBBRをスタテン島に開設しました。それは1924年のことでした。私は協会のラジオ番組で奉仕する喜ばしい特権をいただきました。その番組では話をするだけでなく,テノール独唱や,ピアノの伴奏でマンドリン演奏もしました。さらに,WBBR男声四重唱団でセカンド・テノールも受け持ちました。もちろん,協会の会長であったラザフォード兄弟はWBBR放送の主要な話し手で,その話に大勢の聴取者が耳を傾けました。

ものみの塔聖書冊子協会の全国大会がオハイオ州シーダー・ポイントで二度目に開かれたのは1922年のことでした。私たちはこの大会で,「王とその王国を宣伝し,宣伝し,宣伝しなさい!」というラザフォード兄弟の大変力強い勧めを受けました。

私が1920年代にあずかった大変貴重な特権の一つは,1926年に英国のロンドンで開催された国際大会でラザフォード兄弟と一緒に奉仕したことです。その時,ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで大勢の聴衆を前に,私がそのホールの有名なオルガンの伴奏でテノールの独唱をした後,ラザフォード兄弟が公開講演を行ないました。

翌日の夜,ラザフォード兄弟は,「ユダヤ人のためのパレスチナ ― それはなぜか」という主題でユダヤ人の聴衆に話し,私はヘンデルの「メサイア」の一部で独唱部分の「慰めよ,汝らわが民を慰めよ」を歌いました。何千人ものユダヤ人がその特別の集まりに出席していました。当時,私たちはヘブライ語聖書の預言を,割礼を受けた肉のユダヤ人に間違って適用していました。しかし,1932年にエホバは私たちの目を開き,それらの預言が霊的イスラエルに適用されることを理解させてくださいました。

また,1931年のオハイオ州コロンバスで開かれた大会に出席し,その大会でラザフォード兄弟がエホバの証人という『新しい名称』を提起した時,私は本当に胸の躍る思いがしました。そして私たちすべては熱意にあふれてその名称を採択しました! その後直ちに,全世界のエホバの民のすべての会衆もその『新しい名称』を採択しました。―イザヤ 62:2と比較してください。

1935年5月31日,金曜日,ラザフォード兄弟は,啓示 7章9節から17節に関する画期的な講演をして,その節に描かれている『大いなる群衆』の成員の実体を正確に説明しましたが,その時,私は演壇のすぐ下の楽団席でオーケストラの指揮者として奉仕していました。そして,ラザフォード兄弟が,『大いなる群衆』(ジェームズ王欽定訳)すなわち「大群衆」は『良き羊飼い』イエス・キリストの『他の羊』で構成されることになっていたという点を明らかにした時,いわゆるヨナダブ級の人々も出席するよう特に招かれていた理由が明らかになりました。(ヨハネ 10:14,16,欽定訳)それは胸を躍らせる出来事でした。翌日,6月1日の土曜日に,大会出席者の中の840名が,地上の楽園<パラダイス>を期待してキリストを通して神に献身したことを表わす水の浸礼を受けました。それは私にとって何と心を動かす事柄だったのでしょう。その時以来,キリストの「ほかの羊」の数のほうが,りっぱな羊飼いイエス・キリストの,霊によって生み出された羊のような弟子たちである,徐々に減少する「小さな群れ」の成員よりもはるかに多くなってゆきました。―ルカ 12:32。

しかし,1939年に第二次世界大戦が勃発した時,「大群衆」を集める業もこれで終わりになるかのように思えました。私は,ラザフォード兄弟がある時,「ところで,フレッド,『大いなる群衆』も結局はそれほど大きくなりそうもないようだね」と私に言われたのを思い出します。大規模な取り入れがなお前途に控えていようとは,私たちには知る由もありませんでした。

1934年に協会は,携帯用蓄音機を導入し,聖書文書を紹介するためにラザフォード会長の数々の講話のレコードが用いられました。それらの話がスペイン語に翻訳されて,そのレコードが出された時,私は,アダムス通り117番の協会の工場の付近に住むスペイン語を話す人々に音信を伝えるため,専らそれらのレコードを用いました。それから,再訪問をして,聖書の真理を学ぶよう関心のある人たちを助け,こうしてやがてブルックリンで,スペイン語を話す人々の最初の会衆を組織する特権にあずかりました。私はブルックリンのスペイン語会衆が設立されて以来ずっと,その最初の会衆に所属しています。

協会の会長が代わる

1942年1月8日にラザフォード兄弟が亡くなり,ネイサン・H・ノアがその後を継いで協会の会長になりました。1942年の夏にノア兄弟が行なった,「平和 ― それは永続するか」という主題の公開講演は,第二次世界大戦がたけなわだったにもかかわらず,ごく近い将来に対する私たちの展望を一変させるものとなりました。その後まもなく,1943年2月1日,月曜日,ノア兄弟は王国農場に,第1期生100名が入学した,ものみの塔ギレアデ聖書学校を開設しました。私はその開校式のプログラムに関連して奉仕する特権をいただきました。教官としては,エドアルド・ケラー兄弟,マックスウェル・G・フレンド兄弟,ビクター・ブラックウェル兄弟,およびアルバート・D・シュローダー兄弟が奉仕しました。

ノア兄弟は開校式の最初の話の中で,協会にはこの学校を5年間運営してゆけるだけの資金があることを知らせました。ところが何と,全能者なるエホバ神はその9倍もの長い期間にわたって今日までこの学校を運営させてくださいました。

ネイサン・H・ノアと共に交われたことは,非常に大きな特権でした。1923年7月4日に,その故郷ペンシルバニア州アレンタウン郊外のリトル・リハイ川のほとりで,私がバプテスマ希望者たちに対する話をして,同兄弟が浸礼を受けた時に,この兄弟がものみの塔聖書冊子協会の3代目の会長になるなどとは夢にも思いませんでした。

ノア兄弟が会長を務めている期間に,私は広範囲に旅行し,中南米やオーストラリアを含め,世界の至る所で大きな集まりの際に兄弟たちに話をし,忠実を保つよう励ましました。そのような機会の一つとして,スペインのエホバの証人の業が禁じられていた1955年には,バルセロナ郊外の森の中でひそかに開かれた大会で奉仕しました。スペインの兄弟たちのその集まりは武装した秘密警察官に包囲され,男の人たちは警察本部へトラックで連行されました。警察署で私たちは勾留され,尋問を受けました。私は米国市民でしたから,スペイン語が分からない振りをしました。さらに,二人の姉妹が逃れて,私が逮捕されたことをアメリカ領事館に知らせたので,今度は領事館が警察と接触することになりました。警察当局は,その件が国際的な事件になったり,公にされて不利な事態が生じたりするのを避けたいと考え,ついに私たち外国人と,後にはほかの兄弟たちを去らせました。その後,私たちの多くはセラノ兄弟の家で一緒に集まり,エホバがご自分の民を救出してくださったことを大いに喜び合いました。スペインは1970年にエホバの証人を正式に認可しました。現在,マドリードの近くに支部事務所があり,昨年の時点でスペインにおける私たちの組織には6万5,000人以上の王国伝道者が交わっており,この国の至る所に会衆があります。

1977年6月8日,ネイサン・H・ノアは亡くなり,地上の歩みを終えたため,私がその後を継いで協会の会長の職に就きました。ノア兄弟は,協会の以前の二人の会長,ラッセル兄弟やラザフォード兄弟よりも長く,35年余にわたって会長として奉仕しました。私はエホバの証人の統治体の成員の一人として,統治体の出版委員会と執筆委員会で奉仕するよう割り当てられました。

コロンビア・ハイツ25番の協会の事務所で引き続き奉仕するのは,大きな特権ですし,本当に喜びです。通常の仕事の日には,総合事務所とベテル・ホームの間を歩くことが必要ですが,これは老化してゆく体のために実に良い運動です。今は93歳ですから,視力も衰えていますが,エホバが私に健康を与えて祝福してくださったおかげで,これまでの66年間,病気でベテルの仕事を休んだ日は一日もありませんでしたし,今なお全時間奉仕できることを非常にうれしく思っています。1920年以来,ここにいて,ブルックリンの本部や世界中の組織の発展と拡大を見ることができたのは,私にとって確かに神の恵みでした。

この記事を書いている今も,私は幾百万もの仲間の証人たちと共に,宇宙主権者エホバ神と,セラフたちやケルブたち,および天の聖なるみ使いたちを治めておられる,神の陸軍元帥イエス・キリストとに対する全き確信を抱きながら,なお前途に控えている,聖書の示す事柄,すなわち偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンの滅びと,「とこしえからとこしえまで」存在しておられる宇宙主権者エホバ神の側の最大の勝利という最高潮に達する,ハルマゲドンにおける全能者なる神の大いなる日の戦争とを待ち望んでいます。ハレルヤ!―詩編 90:2,バイイングトン訳。

[23ページの図版]

[24ページの図版]

1920年: 仲間のベテル奉仕者と共に。中央が私

[25ページの図版]

1961年: N・H・ノア兄弟と共に

[26ページの図版]

1978年: 日本の大会で話をしているところ

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする