ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 塔88 7/1 18–22ページ
  • 私は公正を見いだした ― 政治にではなく,真のキリスト教に

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 私は公正を見いだした ― 政治にではなく,真のキリスト教に
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1988
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 子供のころから探していた
  • ヒトラーのフランス侵攻
  • 商業,政治,および宗教に嫌気がさす
  • 希望の音信
  • 真の公正を支持する立場を明確にする
  • 宣教を拡大する
  • 新しい区域と新しい生活
  • あふれるほどの祝福
  • 公正な社会 実現するか
    ほかのトピック
  • 1986 エホバの証人の年鑑
    1986 エホバの証人の年鑑
  • イエスは「地上に公正を確立する」
    エホバに近づきなさい
  • 1976 エホバの証人の年鑑
    1976 エホバの証人の年鑑
もっと見る
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1988
塔88 7/1 18–22ページ

私は公正を見いだした ― 政治にではなく,真のキリスト教に

ザビエル・ノルの語った経験

不公正! 私は若いころから不公正を目にし,そのために苦しみました。若者の私は自分に問いました。不公正はただ我慢しなければならないものなのだろうか。不公正をなくせる政府は地上にないのだろうか。公正はどこにあるのだろうか,と。私は最後にそれを見いだしましたが,それは予想外のところにありました。

子供のころから探していた

私は,フランス北部のアルザス地方にあるウィテルシェイムという小さな町で育ちました。父はその地域の多くの人と同じく,カリウム鉱山で働いていました。1930年代当時,産業界の労働者たちは抗議運動で騒然としていました。私は子供でしたが,労働者のデモ行進に参加していたのを覚えています。私たちはこぶしを挙げ,社会主義者の歌う“インターナショナル”などの革命歌を歌いながら通りを練り歩きました。労働者は公正とより良い生活状況を要求しました。

鉱山労働者がストライキに入って鉱山に立てこもった時,私はよく父に弁当を持って行きました。鉱山のレールを通して父にガメール(弁当箱)を渡すのですが,それには武装した国家警備隊の非常線を通過しなければならないので,とても怖かったことを今でも覚えています。私は熱情的なスローガンを掲げた旗や,風に翻る赤旗に感動しました。赤旗の中にはハンマーと鎌を描いたものもありました。

女の人たちはスローガンを叫びながら鉱山の門の前に集まり,“搾取者たち”と闘い続けるよう夫たちを激励していました。ほかの女の人たちは,絶えず夫の身の安全を心配しながら生活していました。男たちの中には,感情的には反資本主義であったにもかかわらず,家族を養えるだけのお金を稼ぐために,暗くなってからこっそりと鉱山へ出かけて行く人もいました。父もそうすることがありました。それで父は,“スト破り”を見張るピケ隊に見つかった時のために,カバンの中にピストルを忍ばせていました。

ヒトラーのフランス侵攻

戦争が勃発した時,私は17歳でした。数か月後,ナチがフランスに侵攻しました。ナチの主張によれば,アルザスは単なる占領地区ではなく,ドイツ帝国の一部だから,私のような若い男子は皆,ヒトラーの軍隊に入れられるということでした。それで私は,スーツケースを背中にくくりつけ,やって来る侵入者の前を自転車に乗って逃げました。南へ向かうトラックの後ろにつかまって行くこともありました。避難する人々の流れは,ドイツの戦闘機にすぐに見つかって標的になったため,飛行機の音が聞こえると,私は溝の中に身を伏せました。

私は,まだドイツに占領されていなかったフランスの中南部へたどり着きました。しかし,そこでも不公正を目にしました。私は街路を掃除したり,棺桶を共同墓地に運んだり,セメント工場で45㌔もある大きな荷物を肩で担いだりして一生懸命働きました。ほんのわずかな収入を得るために1日12時間働くこともありました。私たち避難者が受け取るはずだった救援物資の大半は,それを分配する役目の係官に横取りされました。1940年の終わりごろ,私は自国を解放するための闘いに加わる決意をしました。そして,北アフリカのアルジェリアへ行って,当地に残留していたフランス軍に入隊しました。軍隊生活は,民間人として生活していた時と少しも変わらず,公正に対する私の渇きをいやすものではありませんでした。しかしそれでも,ヨーロッパを解放することにあずかりたいと思っていました。1942年も終わりに近づいたころ,アメリカ軍が北アフリカに上陸しました。しかし,1943年のある日,私は,処理していた手投げ弾の起爆薬が爆発して,手の指を3本失いました。それで,ヨーロッパを奪回することになっていた部隊には入れませんでした。

商業,政治,および宗教に嫌気がさす

アルジェリアで再び民間人の生活に戻ったものの,労働界における,人が人を利用する状態には甚だしいものがあり,憤りを覚えました。ある同僚などは,危険な労働状況のもとで働いていたため,致命的なガスを吸い込んで死亡しました。その後間もなく,私も友人と同じ状況のもとで危うく死にそうになりました。その営利会社は,従業員の健康どころか命に対してさえ何の配慮も払っていませんでした。闘わねば補償を取りつけることができず,全く嫌気がさしてしまいました。

わずか24歳という若さで,私は老人ホームに入ることになり,終戦までそこにいました。老人ホームにいる間に,戦争が始まった当時アルジェリアに追放されたフランス共産党の闘士たちと知り合いました。私たちは親しくなり,勧められるままに私は不公正に対する彼らの闘いに加わりました。

戦争が終わるとすぐ私は,新たな理想に燃えてアルザスの故郷に帰りました。しかし,物事は私の期待どおりにはなりませんでした。共産党員の中に戦時中,善良な憂国の士ではなかった人もいた,ということを知って非常に当惑しました。ある日,党の役員の一人が私に,「いいかい,ザビエル,強硬路線論者しか受け入れないとすれば,何も達成できないよ」と言いました。それには私は同意できないこと,そして失望していることを告げました。

また私は,理想と公正を声高に叫ぶ人たちが,給料の大半を鉱山の酒場で酒に費やし,家族を貧困状態に陥れていることにも気づきました。にもかかわらず,私が依然として共産党に投票していたのは,労働者階級のために公正を獲得する努力は,ほとんどが共産主義者によって行なわれていると思っていたからです。

私は若いころミサの時に侍者を務めたことがあったので,カトリックの司祭は,教会の闘士になるよう私を説得するつもりで我が家を訪れました。しかし,私は僧職者に対する信頼を失っていました。僧職者は支配者階級の味方に違いないと思っていたのです。それに私は,多くのカトリック司祭たちがフランス占領中のドイツ軍に協力していたことを知っていました。私が軍隊にいた時,カトリックの従軍司祭が愛国主義を説いたことも覚えていました。しかし,ドイツ軍でもカトリック司祭が同じことをしたことも知っていました。それは政治家や軍の指導者の仕事であって,教会の聖職者のすることではない,と私は考えていました。

そのうえ,苦い経験をしたため,神に対する信仰はひどくぐらついていました。私の姉は20歳になった日に砲弾の破片に当たって死にました。その時,私は心の中で,「もし神がいるのなら,一体なぜこんな不公正を許すのか」と言いました。それでも,故郷の美しい田園地方の平穏な静けさには,深い感動を覚えました。「これがすべて『ただ偶然に生じた』なんてことはあり得ない」と,心の中で言ったものです。そういう時には祈ることもありました。

希望の音信

1947年のある日曜日の朝,30歳代の男性と女性が,私たちの家の戸口にやって来ました。その二人は私の父に話しかけましたが,父はその人たちに,「うちの息子に会ったほうがいい。あれは手に入る本は何でも読むから」と言いました。その通りでした。私は,共産党の機関紙「リュマニテ」からカトリックの日刊紙「ラ・クロワ」まで,何でも読んでいました。その二人の訪問者は私に,すべての人に対して公正な,戦争のない世界が来ること,またこの地が楽園になることなどについて話しました。どの人もみな自分の家に住み,病気も死も過去のものになるというのです。彼らは言うことをみな聖書から証明しましたから,本当に確信を抱いているのが分かりました。

私は25歳でしたが,聖書に手を触れたのはその時が初めてでした。その人たちが読んだ部分は私の好奇心をそそりました。事実にしては話が良すぎるように思えたので,問題を頭の中ではっきりとさせたいと思いました。訪問者は聖書を持って来ることを約束し,「神の救い」という本と「国々の民よ歓喜せよ」という題の小冊子を置いて帰りました。

彼らが立ち去るとすぐ,私はその小冊子を読み始めました。ラベンスブリュック強制収容所にいた女性のエホバの証人の忠誠に関する,ドゴール将軍の姪に当たる人の証言は,本当に啓発的なもので,「もし真のクリスチャンがいるとすれば,それはこの人たちに違いない」と,私は独り言を言いました。その夜,床に就く前に,「神の救い」の本を読み終え,非常に長い間いつも付きまとっていた,「公正の神がなぜ不公正を許されるのか」という疑問に対する答えをついに見いだしました。

真の公正を支持する立場を明確にする

翌日,証人たちは約束どおり,聖書を携えてやって来ました。私は自転車の事故に遭って肩にギプスを当てていたため,仕事に行くことができず,時間を持て余していました。わずか7日間で聖書全巻を読み通し,公正と義のすばらしい原則の記されていることを知りました。読み続けているうちに,これは神が与えてくださった本だという確信が深まりました。真の公正を確立するための闘いは,政治的なものではなく,霊的なものでなければならない,ということを理解するようになりました。―エフェソス 6:12。

私は見いだしたばかりの希望の音信を党内の友人が聞けば,きっと大喜びするに違いないと思いました。ところが,友人たちが少しも熱意を示さなかったのには非常にがっかりしました。私としては,もうだれに対してであれ,良いたよりを告げずにはいられませんでした。労働者を搾取する裕福な人たちを非難する,ヤコブ 5章1節から4節のような聖句を特に好んで引用しました。

当時私は郵便配達の仕事をしていました。自説を曲げない父をいらだたせないために,家を出る時は郵便配達人の帽子をかぶって出かけ,帰宅する時にも必ずその帽子をかぶっているようにしました。ある日,父は友人に,「近ごろ息子は相当超過勤務をしている」と言いました。実は,帽子を友人の所に預けて宣べ伝える業に出かけ,後でまたそれをかぶっていたのです。

エホバの証人と初めて接触してから3か月もたっていなかった時,スイスのバーゼルで開かれる大会に出席するため一人で出かけました。バプテスマの話の最中に,私はそばにいたエホバの証人の婦人(大会中,親切にも私に宿舎を提供してくれていた人)に,バプテスマを受けたいのですが,水着を持っていないんです,と言いました。その婦人はさっと席を立ち,話の終わる時間よりも大分前に,水泳パンツとタオルを持って戻って来ました。

宣教を拡大する

私はすでに,戸別訪問の業を月に約60時間行なっていました。しかし,王国会館で,開拓奉仕(全時間の宣べ伝える業)を励ます手紙が読まれた時,「私に言われているのだ」と,心の中で自分に言いました。

1949年の終わりごろ,私は開拓者として,地中海の有名な港町,マルセーユに派遣されました。戦後のその時代,マルセーユでの生活は楽しいものでした。そこは,路面電車の運転手も電車を止めて,街路で行なわれるペタンク(玉転がし)というゲームの邪魔をしないような町でした。私とほかの開拓者の兄弟たちは,売春婦も使っていた1軒の下宿屋のほかには滞在する場所がないことに気づきました。クリスチャンの奉仕者にとって理想的な場所ではありませんでしたが,私たちに関する限り,娼婦たちが不適当なことを言ったりしたりしたことは一度もなく,私たちの伝える音信には丁重に耳を傾けた,と言わなければなりません。

私たちはお金をほとんど持っていなかったので,必要物を備えることでエホバに大いに頼りました。夕方,家に帰ると,私たちは経験を話し合いました。ある日,私は戸別訪問をしていた時に,ユーゴスラビア人の女性に会いましたが,その人はテーブルのそばにあった大きな十字架像を持って来て,自分がどれほど神を愛しているかを示すために熱情をこめてその像に口づけしたのです。これには本当にびっくりしました。聖書研究を勧めたところ,その女性はそれに応じ,偶像崇拝のむなしさをすぐに悟りました。

1952年11月,パリ出身の開拓者,サラ・ロドリゲ姉妹が,宣べ伝える業を助けるためマルセーユにやって来ました。私たち開拓者の兄弟は,聖書の真理に関心を示した女の人たちを訪問する際に,ロドリゲ姉妹に一緒に行ってもらえるのでうれしく思いましたが,結局,私が姉妹を,いわば“さらった”格好になりました。彼女は私の妻になったからです。

私たちは,結婚して3か月後の1954年に,協会から,フランス領西インド諸島のマルティニーク島へ行くことを求められました。1950年代の初期にこの島から宣教者たちが追放されて以来,宣べ伝える業のために海外からこの島に渡る証人は私たちが初めてだということでした。私たちは海上で17日を過ごし,ついに到着しましたが,思いの中にはいろいろな疑問がありました。どんな応対を受けるだろうか。どこに住むことになるだろうか。どんな食べ物を食べるのだろうか。集会を開くのにふさわしい王国会館が見つかるまで,どれくらい期間がかかるだろうか。

新しい区域と新しい生活

マルティニーク島の人々は,もてなしの精神の非常に豊かな人々でした。戸別訪問をすると,飲み物を飲んでゆくよう勧められることが少なくありません。それどころか,食事に招かれることも珍しくありませんでした。私たちは聖書の手引き書をたくさん配布しました。島民の大半は,聖書を持ってはいませんでしたが,聖書を高く評価していたのです。

私たちの最初の家はトタン屋根の小屋でした。雨季には,夜中に突然どしゃ降りになり,屋根をたたく雨の音にびっくりして目が覚める,ということがよくありました。水道の水は1日に二,三度しか出ません。風呂場もありません。狭い裏庭に置いた空のドラムかんの中に立ち,交替で互いに水を掛けてシャワーを取りました。かなり原始的な方法ですが,太陽の下を1日歩き回った後ですから,とても気持ちがよいのです。

サラはその土地の料理に慣れるため,パンノキの実の調理を学ばなければなりませんでした。私は子供のころ,パンノキと聞くといつも,枝にパンの塊がぶら下がっているところを想像していました。実はこの木の実,どちらかと言えば野菜に似ています。じゃが芋のように調理することができます。その当時は,その実を海ガメの卵と一緒に食べたものでした。おいしい料理でした。しかし今では,海ガメ卵はぜいたく品です。パンノキの実は肉や魚と一緒に調理してもおいしく食べられます。

物質的な問題は何とかなりましたし,豊かな霊的祝福は,どんな困難をも補って余りありました。ある日,私は家に着くなり,100人は座れる王国会館が見つかったよ,とサラに言いました。「いくらなの?」というサラの質問に,「大家さんはこちらの言う家賃でいいと言ってくれるんだ」と答えました。当時,私たちが出せるお金と言えば,月に10フランという,笑われそうな額でした。ところが幸いにも,その人はその額で承諾してくれたのです。

私たちは集会に出席する人が激増するものと大いに期待していました。というのは,人々はいつも,「会場があるなら,集会に行ってもいい」と言っていたからです。ところが,何か月もの間,出席者数の平均は,たったの10人でした。しかし,辛抱強さは実を結び,今では,“花の島”と呼ばれるこのマルティニーク島に24の会衆があり,合計2,000人ほどのエホバの証人がいます。

あふれるほどの祝福

1958年の終わりごろ,私は,ある若い研究生の招きに応じてフランス領ギアナへ出かけました。ニーナと呼ばれる小さな舟で10日間の海の旅をしたあと,マロニ川にある港町,セントローレントで宣べ伝える業を始めました。その町で私は,1945年にフランスが流刑植民地制度を廃止した後も当地にとどまった数人の元囚人に会いました。それからカイエンヌへ行き,私が会いに来た当の若者を訪ねました。フランス領ギアナに滞在していた時に私たちの雑誌を予約したその若者と数人の他の人たちは,今ではエホバの活発な僕になっています。

妻と私は,様々な訓練のために,ブルックリンにあるエホバの証人の世界本部に何度も招かれました。本部に滞在した期間は通算すると1年以上になります。そこにいる間に私は,公正と平等という聖書の原則がどのように神の民の間で実践されているかを実際に見ました。責任の重い地位に就いている人たちが,工場で働く若い人たちと同じ食卓に着き,全く同じ少額の払い戻し金を受け取っています。そうです,私の子供のころからの夢であった公正と平等が,そこではまさに現実となっているのです。

私はこれまで全時間奉仕を40年間続け,今は65歳です。妻と私はオートバイでマルティニーク島を駆け巡り,公正を基盤とするエホバの新しい事物の体制についての良いたよりを宣べ伝えながら,多くの年月を過ごしました。私たちは今,美しいフォールドフランス湾を見渡す支部事務所で働いています。神の組織内で過ごしたこれまでの年月の中で,一つの大切な教訓を教えられました。真の公正が見られるのは神の民の間だけであるということです。そこには人種的,部族的,あるいは宗教的障壁は全くありません。私たちは,何年もの間に真理に入ってきた人たちと共に,間もなく義の宿る新しい地で生活できるという希望を大事にしています。―ペテロ第二 3:13。

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする