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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1990
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魂は死後も生き続けますか

「魂: 死後も生き続け,将来の状態において幸福か災難を経験すると考えられている,人間の霊的な部分」。(オックスフォード英語辞典縮刷版)大抵の宗教の教えは,この定義と大体一致しています。新カトリック百科事典には,「人間の魂は不滅であって人間の死後も存在し続けるという教理は……キリスト教の哲学および神学の礎石の一つである」と書かれています。

この基礎をなす信条が異教の哲学に由来することを知れば,驚く人がいることでしょう。魂とは,肉体から離れて存在し得る無形の何ものかであるという信条は,イエスが生まれるずっと前からありました。その信条によれば,魂は肉体の死後も生き延びて,亡霊,つまり霊魂というかたちで生き続けます。

ギリシャ人は,この信条を哲学用語で表現しました。ギリシャの有名な哲学者ソクラテスの語ったとされる言葉が次のように引用されています。「魂は……もし肉体から何も引きずり出すことなく純粋なかたちで肉体を離れるなら……魂自体に似たもの,目に見えず神聖で不滅で賢いものの中に入り込む。そこにたどり着くと,魂は,誤りや愚行や恐れや……人間が被る他のすべての苦難から自由にされて幸福である。そして……実際に神々と共にその後いつまでも生きる」―「ファイドン」,80,D,E; 81,A。

聖書の教えではない

では,魂の不滅に関するこの異教の信条は,どのような道をたどってキリスト教世界やユダヤ人社会で教えられるようになったのでしょうか。

新カトリック百科事典は,「魂が死後に生き残るという考えを,聖書から容易に読み取ることはできない」と控え目に述べています。しかし,魂の不滅の教理は聖書の中に全く見いだせないと言うほうが正確です。同百科事典は,「旧約[聖書]における人間の魂自体に関する概念は,ギリシャ哲学や現代哲学における概念と同じではない」ことを認めています。

一般に「魂」と訳されるヘブライ語ネフェシュは,いわゆる旧約聖書の中に754回出てきます。また,一般に「魂」と訳されるギリシャ語プシュケーは,いわゆる新約聖書の中に102回出てきます。これらの語の聖書における用法を調べると,驚くようなイメージが浮かび上がってきます。

創世記 2章7節には,神がアダムの鼻孔に命の息を吹き入れられると,アダムは「生きた魂[ネフェシュ]になった」とあります。アダムは生きた魂を与えられたのではなく,生きた魂になったという点に注目してください。言い換えると,新しく創造されたアダムは,魂だったのです。新カトリック百科事典が,「旧約[聖書]における魂は,人間の一部ではなく,人全体,つまり生きた存在としての人間を意味している」と結論しているのも不思議ではありません。

他の聖句もこの点を裏づけています。例えばレビ記 7章20節には,「共与の犠牲の肉を食べる魂」のことが言われており,レビ記 23章30節にも,「この日に何か仕事を行なう魂がいれば」と書かれています。箴言 25章25節には,「遠い地からもたらされる良い報告は,疲れた魂に対する冷たい水のようだ」とあり,詩編 105編18節にも,「人々は彼に足かせを掛けて苦しめ,彼の魂は鉄かせの中に入った」と記されています。では,肉を食べることができ,仕事を行ない,水でさわやかになり,鉄かせの中に入れられるものは何でしょうか。別個に存在する人間の霊的な部分ですか。それとも人間自身でしょうか。答えは明らかです。

興味深いことに,魂であるのは人間だけではありません。創世記 1章20節によると,神は創造の1区分において,「水は生きた魂の群れを群がり出させ(るように)」と言われました。ですから,魚も魂です。また神は創造の別の1区分において,「家畜と動く生き物と地の野獣」も魂であることを示されました。―創世記 1:24。レビ記 11:10,46; 24:18; 民数記 31:28; ヨブ 41:21; エゼキエル 47:9と比較してください。

ですから,聖書における「魂」は,死後に肉体を離れる何か影のような霊の存在ではありません。それは,人や動物,あるいは人や動物が持っている命を意味する語なのです。

死後に何が起きるか

ですから明らかに聖書は,人間が不滅の魂を持っているという異教の考えを否定しています。では,この点に関して真理を教えたのは,だれだと思いますか。異教徒のギリシャ哲学者でしょうか。それとも,神ご自身の契約の民でしょうか。間違いなくそれは神の民でした。神はご自分の民に,霊感によるみ言葉をお与えになりました。

それでも,魂は死後どうなるかという疑問が残ります。魂は人なので,人が死ぬ時に魂も死ぬことは明白です。言い換えれば,死んだ人は死んだ魂です。多くの聖句がこの点を裏づけています。「罪を犯している魂 ― それが死ぬのである」とエゼキエル 18章4節には記されています。裁き人 16章30節にも,「それからサムソンは言った,『わたしの魂はフィリスティア人と共に死ぬのだ』」とあります。他の聖句によれば,魂は断たれ(創世記 17:14),剣で討たれ(ヨシュア 10:37),窒息し(ヨブ 7:15),おぼれる(ヨナ 2:5)ことがあります。死亡した魂,つまり死んだ魂は死んだ人なのです。―レビ記 19:28; 21:1,11。

では,死んだ魂はどんな状態にあるのでしょうか。簡単に言って,死は生の反対です。すべての感覚は,肉体と結びついています。見たり聞いたり考えたりする能力は,目や耳や脳が正常に機能するかどうかにかかっています。目がなければ見ることはできません。耳がなければ聞くことはできません。脳がなければ何もできません。人が死ぬ時,これらの器官はすべて機能を停止します。人は存在を停止するのです。

このことと調和して,伝道の書 9章5節と10節は,「死んだ者には何の意識もな(い)。……シェオル[墓],すなわちあなたの行こうとしている場所には,業も企ても知識も知恵もない」と述べています。同じように,詩編 146編3節と4節にもこうあります。「高貴な者にも,地の人の子にも信頼を置いてはならない。彼らに救いはない。その霊[生命力]は出て行き,彼は自分の地面に帰る。その日に彼の考えは滅びうせる」。ですから,人(魂)は死ぬ時にただ存在を停止するのです。

異教の教えから教会の教理へ

『しかし新約聖書は,魂の不滅を教えているのではないだろうか』と尋ねる人もいるかもしれません。ところがそうではありません。新カトリック百科事典はその点を認め,「新約[聖書]は,死に関するこの[旧約聖書の]理解を忠実に守っている」と述べています。言い換えれば,魂は死ぬというのが“新約聖書”の教えです。イエス・キリストは,ご自分が魂の不滅を信じていないことをはっきり示されました。こう問いかけておられます。「安息日に許されているのは,善行をすることですか,悪行をすることですか。魂を救うことですか,殺すことですか」。(マルコ 3:4)クリスチャンの使徒パウロも同様に,創世記 2章7節を引用することにより,魂に関する“旧約聖書”の見方を支持しています。「まさにそう書かれています。『最初の人アダムは生きた魂になった』」― コリント第一 15:45。

では,どのようにしてプラトンの思想が教会の教理になったのでしょうか。ジェイムズ・ヘイスティングズ編,「宗教・倫理の百科事典」はこう説明します。「キリスト教の福音がユダヤ教の会堂の門を通ってローマ帝国の領土に入ったとき,ヘブライ思想を根本とする魂の概念がギリシャ思想という環境の中に移植された。その適応過程で起きた変化は小さくなかった」。教会の教師たちは,「ギリシャ哲学の既存の用語や概念」を使って,自分たちの告げる音信を「ギリシャ思想の世界にとって分かりやすい」ものにしようと努めました。同様にユダヤ教の神学者たちの著作にも,「プラトン主義の強い影響」が認められるようになりました。―ユダヤ百科事典。

このようにして,魂に関する聖書の教えは捨てられ,紛れもなく異教のものである教理がそれに取って代わりました。そうすることによって,キリスト教が一般の人にも受け入れやすくなったなどといって,それを正当化することは決してできません。使徒パウロは,ギリシャ文化のまさに中心地であったアテネで宣べ伝えた時に,魂に関するプラトンの教理を教えたりはしませんでした。パウロの話に耳を傾けたギリシャ人の中には,それを受け入れ難く感じた人が大勢いましたが,それでもパウロは,復活に関するキリスト教の教理を宣べ伝えたのです。―使徒 17:22-32。

実際,使徒パウロは,聖書に基づく真理と異教思想の混合を戒め,こう言いました。「光が闇と何を分け合うのでしょうか。さらに,キリストとベリアルの間にどんな調和があるでしょうか」。(コリント第二 6:14,15)キリスト教世界が,異教の教えを自らの哲学と神学の基礎にして,神ご自身に恥辱をもたらしたことに疑問の余地はありません。

死者のための希望

自分の信じたいことを信じるのは人々の自由です。とはいえ,魂の不滅の教理が非聖書的であることは否定できません。では,人間には死後の命の希望がないのでしょうか。

「[人は]また生きられるでしょうか」と問いかけたヨブは,続けて霊感による答えを与えています。「あなた[エホバ]は呼んでくださり,私はあなたに答えます。ご自分のみ手の業をあなたは慕われます」とヨブは言いました。(ヨブ 14:14,15)ですから聖書は,神の記憶の中にある人がすべて復活するという希望を差し伸べています。神は,ヨブのような忠実な僕たちを生き返らせたいと切に願っておられます。キリスト・イエスは,この希望が現実のものであるという確証を与え,こう言われました。「このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです。良いことを行なった者は命の復活へ,いとうべきことを習わしにした者は裁きの復活へと出て来るのです」― ヨハネ 5:28,29。

この預言が成就する時,イザヤ 25章8節が約束しているとおり,神は『実際に死を永久に呑み込まれます』。これは,啓示 21章4節が述べているように,『もはや死ぬことのない』世界です。あなたは葬式も葬儀場もない,墓石も墓地もない,悲しみの涙もない,ただ喜びの涙だけが存在する世界に住んでみたいと思いませんか。

不滅の魂の教理を信じるように育てられた人もいるかもしれません。しかし,聖書を研究すれば,解放をもたらす聖書の約束に対する信仰を築くことができます。a また,聖書の約束にあずかるためにしなければならないことも学べます。それは,不滅の魂として生き延びるのではなく,地上の楽園で「永遠の命」を受けるという約束なのです。―ヨハネ 17:3。ルカ 23:43。

[脚注]

a 聖書を研究したいと思われるなら,お気軽に本誌の発行者に手紙を書くか,地元のエホバの証人の王国会館に連絡なさってください。

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