第2部 ― エホバは禁令下で顧みてくださった
第二次世界大戦中に,私が着ていたナチの軍服のベルトのバックルには,「神は我らと共にあり」という銘が刻まれていました。私にとってこれは,教会が戦争と流血行為に関わっていることを示す一例にしか過ぎませんでした。私はそのことに嫌気がさしていました。それで東ドイツのリンバク-オーベルフローナで二人のエホバの証人が私に話しかけた時にはすでに宗教に対して激しい嫌悪感を抱いており,無神論の進化論者になっていました。
私は家に来た証人に,「私がクリスチャンになることなど期待しないでくださいよ」と言いました。しかし彼らの論議には,神は存在するということを私に確信させるものがありました。私は好奇心から聖書を買い,やがて証人と聖書研究を始めました。それは1953年の春のことで,東ドイツにおけるエホバの証人の活動は共産主義政府により禁止されてすでに3年近くたっていました。
1953年11月15日号の「ものみの塔」誌は,当時のエホバの証人の状況を次のように描写していました。「絶えず監視されていたり脅されたりしても,尾行されていないことをまず確かめないと互いに訪問することができなくても,ものみの塔の文書を所持しているところを見つかると『扇動文書配布』のかどで二,三年投獄されることになっても,さらには,これまで奉仕の先頭に立っていた何百人ものより円熟した兄弟たちが投獄されていても,それでも東ドイツのエホバの僕たちは宣べ伝える業を続けています」。
1955年,妻のレジーナと私は,西ドイツのニュルンベルクで開かれたエホバの証人の国際大会に出席し,その翌年には二人とも西ベルリンでバプテスマを受けました。もちろんそれはベルリンの壁が造られ,東ドイツと西ベルリンが分断された1961年よりも前のことでした。しかし,バプテスマを受ける前でさえ,エホバに対する私の忠節は試みを受けました。
責任を引き受ける
私たちが行くようになっていた,リンバク-オーベルフローナのエホバの証人の会衆は,西ベルリンから聖書文書を持ち帰ることのできる人を必要としていました。私たちはちょっとした商売をしていましたし,幼い子供も二人いましたが,エホバに仕えることはすでに私たちの生活の中心となっていました。私たちは所有していた古い車を改造しました。そのため60冊の書籍を隠すことができるようになりました。運搬係を務めるのは危険な仕事でしたが,私はこの仕事を通してエホバに依り頼むことを学びました。
東ベルリンから西側地区へ車で入るのは容易なことではなく,どうしてそれがうまくいったのか,いまだに不思議に思うことがよくあります。自由地区に入ると文書を受け取り,国境を越える前に書籍を車の中に隠して東ドイツへ戻りました。
ある日のこと,私たちが書籍をちょうど隠し終えた時に,アパートから一人の見知らぬ人が出て来ました。「おーい,君たち!」とその人は大声で叫びました。私は心臓が止まりそうになりました。私たちを見張っていたのでしょうか。「次の時には別の場所にしたほうがいい。あの角のところに東ドイツ警察の無線パトカーが止まるから,捕まってしまうぞ」。私はほっと,あんどの吐息をつきました。国境越えはうまくいき,車に乗っていた私たち4人は家に帰り着くまでずっと歌を歌っていました。
孤立する時のための準備
1950年代中,東ドイツの兄弟たちは文書や指示を西ドイツの兄弟たちから得ていました。しかし1960年に調整が行なわれたため,東ドイツの証人はそれぞれ,自分の住む地域の仲間の証人たちとの連絡を密に保つことができるようになりました。そして,1961年6月,長老たちのための王国宣教学校の最初のクラスがベルリンで開かれました。私はその4週間の課程の最初のものに出席しました。それからわずか6週間後にベルリンの壁が造られ,私たちは突然西ドイツから切り離されたのです。以後,私たちの業は地下活動となったうえに孤立してしまいました。
一部の人は,東ドイツにおけるエホバの証人の活動が衰退し,停止してしまうのではないかという恐れを抱きました。しかし,前もって施されていた組織上の調整が,1年足らずで早くも霊的な一致と強さを保つ助けになりました。加えて,王国宣教学校の最初のクラスに出席して訓練を受けた長老たちは,他の長老たちに同様の訓練を施すことができるようになっていました。ですからエホバは,ちょうど1949年の地域大会を通して1950年の禁令に備えさせたように,孤立する時への備えをさせてくださったのです。
西ドイツから切り離されたので,組織の活動を継続するには私たちが率先して事を行なう必要があることは明らかです。そこで私たちは西ベルリンに住むクリスチャンの兄弟たちに手紙を書き,西からの旅行者が利用しやすい東ドイツの幹線道路で会うことを提案しました。約束の場所にくると,私たちは車が故障したふりをしてそこにいました。数分もすると兄弟たちが車でやってきて,聖書文書を渡してくれました。うれしいことに兄弟たちは,私が安全を図ってベルリンに置いてきた王国宣教学校の教科書と要点を書き留めたノート,それに聖書も持ってきてくれました。それらを再び手にしたときは,体が震えるほどの感動を覚えました。次の数年間,それらのものが私にとってどれほど必要になるかは,その時は分かりませんでした。
秘密裏に開かれた学校
それから数日後,私たちは,東ドイツのすべての地域で王国宣教学校のクラスを設けるようにとの指示を受けました。私を含めて4人の教訓者が任命されました。しかし私には,禁令下ですべての長老を訓練するのは不可能なことのように思えました。そこで隠ぺい策を講じ,休暇を利用したキャンプという形でクラスを設けることにしました。
各クラスは4人の生徒と教訓者の私,それにコックの役を務める兄弟を加えて6人で構成されていました。兄弟たちの妻や子供たちも一緒でした。ですから普通一つのグループの人数は15人から20人でした。普通のキャンプ場を使うことは全く不可能に思えたので,私は家族と一緒に適当な場所を探しに出かけました。
ある村の中を通っていた時のこと,私たちは1本の小道が主要道路から遠く離れた小さな森へ通じているのに気づきました。そこはうってつけの場所のように思えたので,私は市長のところへ行って訳を話しました。「私たちは幾つかの家族と一緒に二,三週間キャンプできる場所を探しています。子供たちが自由に跳ね回れるような,私たちだけで使える場所が欲しいのですが,あそこの森を使わせていただくわけにはいかないでしょうか」。市長の同意が得られたので,私たちは計画を練りました。
キャンプ場に来ると私たちは,幾つかのテントと私のトレーラーハウスをうまく配置して,真ん中に外から見えない中庭をつくりました。トレーラーハウスは私たちの教室になりました。私たちは14日にわたり,1日に8時間,その中でみっちり勉強をしました。中庭には不意の来客という万一の場合に備えて椅子とテーブルが置いてありました。ところがその客が実際にやって来たのです。そのような時には家族の愛による協力を本当にありがたく思いました。
私たちが授業を行なっている間,家族は見張りをしていました。その時には,共産党の地方書記でもある市長が,私たちのいる森へ向かって小道をやって来るのが見えました。見張りは,トレーラーハウスの中の警報器にケーブルでつながっているスイッチを押しました。私たちはすぐにトレーラーハウスから飛び出し,テーブルのまわりのあらかじめ決められた位置につき,トランプを始めました。本当にキャンプをしているように見せかけるため,酒のビンまで置いてありました。市長は友好的な態度で私たちの様子を見たあと,実際に行なわれていることには何の疑いも抱かずに帰って行きました。
1962年春から1965年の後半にかけて国中で王国宣教学校が開かれました。東ドイツの特殊な状況に対処する方法に関する情報を含め,学校で受けた徹底的な訓練により,長老たちは宣べ伝える業を監督する準備ができました。学校に出席するために長老たちは休暇を犠牲にしただけでなく,投獄されるのも覚悟していました。
学校がもたらした益
当局は私たちの活動を注意深く観察しており,ほとんどの長老が学校を終了していた1965年の後半に,彼らは私たちの組織を葬り去ろうと企てました。当局は,業の指導者と考えられた15人の証人を逮捕しました。それは周到に準備された行動で,国中で一斉に行なわれました。またもや多くの人が,証人たちの活動は停止するだろうと思いました。しかし,エホバの助けによって私たちは状況に合わせて調整を施し,それまでと同じく業を続けました。
それができたのは,特に長老たちが王国宣教学校で訓練を受けており,学校期間中の楽しい交わりによって信頼の絆が築かれていたためでした。こうして組織はその気概を示しました。私たちが組織の指示にしっかりと,従順に従ったことは本当に重要なことだったのです。―イザヤ 48:17。
続く数か月のうちに,政府当局による大規模な弾圧も私たちの活動に不利な影響をほとんど及ぼしていないことが明らかになりました。ほどなくして,王国宣教学校を再び開くことができました。ひとたび私たちの回復力に気づくと当局は戦術を変えざるを得ませんでした。エホバは大勝利を収められたのです。
宣教において活発
当時,会衆の書籍研究の群れは,約5名で構成されていました。この書籍研究の取り決めを通して各自聖書文書を受け取り,宣べ伝える業もこれら小さな群れによって秩序正しく行なわれました。エホバは初めから祝福してくださり,聖書研究を望む大勢の人々をレジーナと私に与えてくださいました。
見つかって逮捕されないよう,家から家の奉仕はある程度調整されました。1軒の家を訪問しては二,三軒とばし,別の家のドアをノックするという方法をとりました。ある家で,一人の婦人がレジーナと私を中に入れてくれました。その婦人と聖書に関する一つの話題について話し合っていると,彼女の息子が部屋の中に入ってきました。非常に率直に物を言う子でした。
その子はこう尋ねました。「神を見たことがあると言うんですか。言っとくけど,僕は目に見えるものしか信じないね。それ以外のものはみなくだらないよ」。
私はこう答えました。「私にはそうは思えないね。君は自分の脳を見たことがあるかい。君が行なうことはすべて,君に脳があることの証拠だと思うけど」。
レジーナと私は,例えば電気などのように,私たちが見なくても信じられるものをほかにも幾つか挙げました。この若者は話に注意深く耳を傾けていました。そして彼と母親との家庭聖書研究が始まり,二人とも証人になりました。事実,妻と私が研究した人のうちの14人が証人になりました。そのうちの半数は家から家の訪問で会った人でした。あとの半数は非公式の証言で出会った人でした。
家庭聖書研究が定期的に司会されるようになり,その人が信頼の置ける人だと分かるとすぐにその研究生を集会に招待しました。しかし,考慮すべき最も重要な点は,その研究生が神の民の安全を脅かすことがないかどうかということでした。そのようなわけで,聖書研究生を集会に招待しようと思うまで,時には1年ほど,また場合によってはもっと長くかかりました。思い出すのは,ある程度の名の通っていた一人の男性のことです。彼は共産党の幹部ととても親しい間柄にありました。彼は聖書研究を9年間行なった後,ようやく集会に出席することが許されました。現在,この男性は私たちのクリスチャンの兄弟です。
当局は依然私たちをつけねらう
1965年以降は,大勢が逮捕されるということはもうありませんでしたが,かといって平穏無事であったわけでもありません。当局は依然として私たちの動きをつぶさに監視していました。このころ私は,組織の活動に深くかかわっていたので,警官に特別目をつけられていました。私は幾度となく捕まっては職務質問を受け,車で警察署に連行され,尋問を受けました。彼らはよくこう言ったものでした。「さあ,これでお前さんも自由の身とはお別れだ。刑務所行きだな」。しかし,最後には彼らは決まって私を釈放しました。
1972年に二人の警官が私のところに来て,意図せずに私たちの組織に対して立派なほめ言葉を述べました。彼らは会衆の「ものみの塔」研究を盗み聞きしていたのです。「その記事は実に不快だ」と,彼らは抗議しました。彼らは,討議されていた記事を他の人が読んだ場合,共産主義のイデオロギーをどう思うか心配していたようです。彼らは,「結局のところ,『ものみの塔』誌の発行部数は五,六百万冊だし,発展途上国で読まれている。安物のタブロイド版の新聞とはわけが違う」と言いました。私は心の中で,『全くその通りです』と言いました。
私たちは1972年まで,22年間禁令下にあったわけですが,その間エホバは愛情深く,賢明な方法で私たちを導いてくださいました。私たちはエホバの指示に注意深く従っていましたが,東ドイツのエホバの証人が法的認可を得たのは,それから18年後のことでした。今私たちは,私たちの神エホバを崇拝するすばらしい自由を得ていることを,心から感謝しています。―ヘルムート・マルティンの語った経験。