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  • 円熟に向けて前進するための私の決意
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1995
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1995
塔95 4/1 21–25ページ

円熟に向けて前進するための私の決意

カール・ダカウの語った経験

「円熟に向かって前進するか,それとも罪への逆戻りを選ぶか」。これは「ものみの塔」誌(英文),1948年6月15日号に掲載された記事の主題でした。その記事のおかげで私は,米国の農地の霊的に危険な状態から脱出し,南米で宣教者奉仕を生涯の仕事とするようになり,それから43年余りが過ぎました。

私は1914年3月31日に,ミネソタ州バーガスにあった丸太小屋の中で四人兄弟の三男として生まれ,楽しい少年時代を過ごしました。父と魚釣りをしたのを覚えています。しかし,母は病気がちだったので,家事を手伝うために小学5年生で学校をやめなければなりませんでした。母の病気が肺ガンと診断されたのは,私が13歳のころでした。

母は自分の命が長くないことを知っていたので,私に自分の代わりをさせるための訓練を始めました。台所の椅子に座り,料理の仕方やパンの焼き方を指導してくれました。さらに,洗濯や庭の手入れ,100羽もいる鶏の世話などを教えてくれました。聖書を毎日1章読むようにも励ましてくれたので,読書能力は限られていましたが,私はそれを実行しました。こうして10か月間私を訓練したあと母は,1928年1月27日に亡くなりました。

戦争による生活の変化

1939年9月に第二次世界大戦が勃発して以来,私たちが通っていたルーテル教会では,日曜日ごとに軍隊のために祈りがささげられました。兄のフランクは,人殺しはすまいと心に決めていました。ですから軍役を拒否して逮捕されました。裁判の際に兄は,「私が罪のない人を殺す前に,私を銃殺してください」と言いました。兄はワシントン州の沖合いにあるマクニール島の刑務所に1年間投獄されることになりました。

フランクはその刑務所で,戦時中,厳正中立の立場を保っていたゆえに投獄されていた300人余りのエホバの証人に出会いました。(イザヤ 2:4。ヨハネ 17:16)すぐに兄は証人たちと交わるようになり,その刑務所の中でバプテスマを受けました。兄の行状が良かったので,刑は9か月に短縮されました。1942年11月に,私たちはフランク釈放の知らせを聞き,そのすぐ後,兄は神の王国の良いたよりについて私たちに話してくれました。その音信を聖書で注意深く調べてみて,家族は皆,フランクが教えてくれたことは真理であると理解できました。

霊的前進を妨げるもの

1944年に,私は叔父と一緒に住むためにモンタナ州のマルタに引っ越しました。叔父と私には共通点がありました。二人とも結婚後半年で妻に去られていたのです。叔父は農作業や料理を手伝ってもらえるので喜び,収益は半々に分けていました。叔父は,もし私がずっといてくれるなら,260㌶の農地を相続させると言いました。当時は農業が栄えていた時期でしたし,私は根っから農業が好きでした。毎年大豊作で,当時小麦はブッシェル(27㌔)当たり3.16㌦で売れていました。

しかし叔父は,私がマルタにあるエホバの証人の小さな会衆の集会に出席するのを快く思っていなかったのです。私は叔父には内緒で,1947年6月7日,ウルフポイントで行なわれたエホバの証人の巡回大会でバプテスマを受けました。その時,一人のクリスチャンの兄弟が,開拓者つまり全時間奉仕者になることを勧めてくれました。自分の人生をそのように用いるのは私の心からの願いでしたが,叔父はそんなに多くの時間を宣教に費やすことはとても許してはくれないでしょう,と私は彼に説明しました。

少したってから叔父は,私あてに来たある友人からの手紙を開封して読んでしまいました。その友人は私に全時間奉仕者になることを強く勧めていたのです。かんかんに怒った叔父は,伝道をやめるか出て行くか,どちらかにしろと最後通告を突きつけました。その最後通告を受けたのはよいことでした。というのは,私は農作業が大好きなので,もし自分の決定にまかされていたなら,出て行ったかどうか分からなかったからです。そういうわけで,私はミネソタの家族のもとに戻りました。家族は全員すでにバプテスマを受けていて,デトロイト・レークス会衆と交わっていました。

開拓者になるよう最初に私を励ましてくれたのは私の家族でしたが,1948年になって私の家族は霊的な熱意を失うようになりました。ちょうどその時,「円熟に向かって前進するか,それとも罪への逆戻りを選ぶか」という記事が出され,霊的な面で私が必要としていた後押しをしてくれました。その記事は,「もしわたしたちが,絶えず前進する知識に付いてゆくことを故意に拒むなら,必ず悲しむべき結果になる」と警告していました。また,「わたしたちは立ち止まって後ろに戻るわけにはいかないので,義において進歩しなければならない。立ち止まるのではなくて前進することが,逆戻りに対抗する力である」とありました。

私の家族はいろいろな言い訳をしましたが,問題の根本は裕福になりたいという願望だったと思います。農作業に多くの時間を充て,伝道の時間を少なくすることによる経済上の利益を考えていたのです。私は富を得たいという気持ちにとらえられることなく,むしろ開拓者になる計画を立てました。それが簡単でないことは承知していましたし,もしかしたらなれないかもしれないとさえ思っていました。そこで自分を試してみようと思い,1948年に,1年のうちで最も天気の悪い12月にあえて開拓奉仕を始めるべく申し込みをしました。

開拓奉仕を始める

エホバは私の努力を祝福してくださいました。例えば,気温が零下27度にまで下がった日がありました。風があったので実際にはもっと寒く感じました。私はいつものように,雑誌を度々持ち替えながら街路伝道をしていました。冷たくなった方の手をポケットに入れ,もう一方の手で雑誌を持ちます。その手が冷たくなるとまたポケットに入れて手を替えるというふうにしていました。一人の男性が近づいてきました。かなり前から私の活動に気づいていたと言ってからその人は,「そこまでするほど重要な雑誌の中には何が書いてあるのですか。その2冊をください。読んでみます」と言いました。

そうこうしているうちに,家族と一緒にいるのは自分の霊性を危険にさらすことであると分かったので,ものみの塔協会にお願いしたところ,モンタナ州のマイルズシティーで奉仕するよう新たな任命を受けました。その町では私は会の僕,今の主宰監督として奉仕しました。幅2㍍,長さ3㍍のトレーラーハウスに住み,ドライクリーニングをする店でパートタイムの仕事をして生計を立てました。時折,一番好きな収穫の仕事に雇われることもありました。

この時期に私は,自分の家族の霊性が悪化しつつあることを絶えず耳にしていました。そしてついに家族は,デトロイト・レークス会衆の他の人たちと共に,エホバの組織に敵対するようになりました。会衆には17人の王国伝道者がいましたが,そのうち忠実を保ったのは7人だけでした。家族の者は私をもエホバの組織から引き離すことを決意していたので,解決策は一つしかないことを悟りました。それはさらに進歩することです。しかし,どのようにして進歩するのでしょうか。

宣教者としての奉仕を追い求める

1950年にニューヨーク市で開かれた国際大会で,私はものみの塔ギレアデ聖書学校第15期クラスの卒業式を目の当たりにしました。『ああ,私も,外国でエホバに仕えるあの人たちの中の一人だったらどんなにいいだろう』と考えました。

それで私も申込書を提出したところ,1951年2月に始まるギレアデ第17期生の一人として受け入れられました。学校があったニューヨーク州北部の農場は美しい所でした。授業の後はぜひ農場で働きたい,牛舎の中で牛の世話をするのもいいし,外で作物の世話をするのもいいな,と思っていました。しかし,王国農場の当時の監督ジョン・ブースの説明によると,ドライクリーニングの経験があるのは私だけだということでした。それで,私はその仕事を割り当てられました。

ギレアデは,小学5年生までの教育しか受けていない者には楽ではありませんでした。消灯は10時半でしたが,真夜中まで勉強することがしばしばでした。ある日,私は一人の教訓者の事務所に呼ばれました。「カール,君の成績はあまり良くないようだね」と教訓者は言いました。

『大変だ,学校をやめなさいと言うつもりなんだ』と,私は内心考えました。

しかしその教訓者は,どうすれば自分の時間を最も有効に利用でき,そんなに遅くまで勉強せずにすむか,親切に助言してくださったのです。私は恐る恐る,「私にはギレアデにとどまる資格があるのでしょうか」と尋ねてみました。

「もちろんあります。しかし,卒業証書がもらえるかどうかは分かりません」と,教訓者は答えました。

私はネイサン・H・ノア校長の言葉に慰めを見いだしました。以前にノア校長は,成績の良さよりも,任命された国にとどまっている宣教者たちの「粘り強さ」のほうに,感銘を受ける,と生徒たちに話したことがあったからです。

最も苦手な科目はスペイン語だったので,私はアラスカに行かせてもらいたいと思っていました。アラスカは気候の寒いところですが,私が生まれ育った地方もそうだったので,寒さには慣れていたからです。それに,英語で伝道できます。ですから,学校の課程の半ばで,南米のエクアドルに任命された時の驚きを想像していただけると思います。そうです,スペイン語を,しかも赤道直下の高温多湿の国で話さなければならないのです。

ある日のこと,FBIの人がギレアデ学校にいた私を訪ねてきました。その人は,デトロイト・レークスにあるわたしたちの組織から離れて行った会の僕の息子のことについて質問しました。朝鮮戦争が行なわれていた時だったので,その青年は,自分はエホバの証人だから兵役は免除されていると主張していました。私は彼がもうエホバの証人ではないことを説明しました。FBIの人は別れ際に,「あなたの神があなたの業を祝福されますように」と言いました。

その青年が,韓国で戦闘に参加しはじめて間もないころに殺されたということを,後になって知りました。神の組織内で円熟に向かって前進しようと思えばできた人なのに,何と悲しい結末でしょう。

1951年7月22日,ついに幸福な卒業式の日がやって来ました。もちろん,私の家族はだれも出席しませんでした。それでも私は,進歩を遂げた結果,卒業証書を授与され,この上ない喜びを感じていました。

外国の畑に合わせて調整する

任命された国に来て初めて,母が施してくれた訓練がいかに有益なものだったかを知りました。料理や手洗いの洗濯,水道水がないといったことなどは,私にとって初めての事ではありません。しかし,スペイン語での伝道は初めてでした。かなり長い間,証言をスペイン語で書いたものを使いました。スペイン語で公開講演をするようになるまでには3年かかり,しかも詳しいノートを用いました。

1951年にエクアドルに到着した時,王国伝道者は200人足らずでした。最初の25年ぐらいは,弟子を作る業がゆっくり行なわれているように思えました。わたしたちの聖書の教えは,非聖書的なカトリックの伝統とはかなり異なっています。わたしたちは,一人の配偶者に忠実であるようにという聖書の教えに従うので,その点は特に人気がありませんでした。―ヘブライ 13:4。

それでも,聖書文書は数多く配布することができました。バナナの産地の真ん中にあるマチャラの町での宣教はその良い例です。ニコラス・ウェスリーと私が1956年にそこに到着した時,エホバの証人は私たちだけでした。当時は幹線道路が建設中だったので,そこで使われていたダンプカーに乗せてもらい,早朝に家を出るようにしていました。そしてかなり遠くまで来た時に降ろしてもらい,今度は,来た道を戻る形で,自分たちの家に着くまでずっと証言を行ないました。

ある日,ニックと私は,どちらが雑誌を多く配布するかを記録しておくことにしました。お昼までは私がリードしていましたが,夕方までには二人とも114冊配布していたのを覚えています。私たちは雑誌経路の人たちに毎月数百冊の雑誌を配布しました。1か月に1,000冊を超えたことが6回ありました。それらの雑誌からどれだけ多くの人が聖書の真理を学んだかを考えてみてください。

マチャラでは,エクアドルで最初の,会衆所有の王国会館を建てる特権にもあずかりました。35年前の1960年の話です。その当時,集会の出席者はわずか15人くらいでした。現在マチャラには,繁栄する11の会衆があります。

米国を訪問する

1970年代の終わりに,私は休暇で米国に戻り,兄のフランクと数時間を共に過ごしました。兄は私を車に乗せて小山の上まで連れて行ってくれましたが,そこからは,レッド・リバー・バリーの向こうに長く延びる道路を見渡すことができます。それは美しい光景でした。熟した穀物が風に揺れています。穂先を垂れた小麦の海です。遠くには,岸に並木のあるシャイエン川が見えます。静かな自然の美を楽しんでいた私に,兄はいつもの調子で言いました。

「お前が南米をうろつき回るような愚か者でなければ,これもお前のものだったんだ」。

「フランク,その話はそこでやめて」と,私はすぐに話を遮りました。

兄はそれ以上何も言いませんでした。数年後に兄は脳卒中で急死し,ノースダコタ州にあった,合わせて400㌶余りの広さの三つの美しい農場を後に残しました。モンタナ州にあった,叔父の260㌶の農場も兄は相続していました。

今では,私の家族は皆亡くなって一人もいません。しかし,何年も前に家族全員がエホバの証人として出発したデトロイト・レークスには,90人余りのクリスチャンの兄弟姉妹から成る霊的な家族がいます。

引き続き霊的に前進する

ここエクアドルでは,過去15年間の霊的刈り入れで豊かな収穫を得ました。伝道者は1980年の約5,000人から,今では2万6,000人を超えるまでになっています。私は,優に100人を超える人々をバプテスマまで援助するという祝福を刈り取ってきました。

80歳になった今は,宣教に毎月30時間をささげるのに,150時間の要求を達成していた1951年当時よりも努力を要します。1989年に前立腺ガンがあると分かってからは,静養の時間を読書に充てています。その年以来,聖書通読を19回,「エホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々」の本の通読を6回行ないました。こうして霊的に前進を続けています。

確かに,私には米国の農場で物質上の利益を刈り取る機会がありました。しかし,物質の富のもたらす報いは,私が霊的な収穫で経験した喜びとは比較になりません。エクアドル支部は,私が自分の宣教者としての歩みにおいて14万7,000冊余りの雑誌と,1万8,000冊余りの書籍を配布したことを知らせてくれました。私はこれらを霊的な種と思っています。それらの種の多くはすでに芽を出しました。ほかの種も,人々が王国の真理について読む時に,やがてその人々の心の中で芽を出すことでしょう。

すべての霊的な子供たちや,わたしたちの神エホバに仕えることを選んだ大勢の人々と一緒に,神の新しい世に向かって前進すること以上にすばらしいことは考えられません。お金でこの邪悪な世の終わりを生き延びることは不可能です。(箴言 11:4。エゼキエル 7:19)しかし,わたしたちの霊的な活動の結ぶ実は永続します。もし一人一人が円熟に向かって引き続き前進するならば。

[24ページの図版]

モンタナ州マイルズシティーで開拓奉仕を開始,1949年

[24ページの図版]

宣教者の家の水を買う,1952年

[25ページの図版]

マチャラでの伝道,1957年

[25ページの図版]

1989年に病気になって以来,聖書通読を19回行なった

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