ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 塔96 5/1 31ページ
  • 読者からの質問

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 読者からの質問
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1996
  • 関連する記事
  • 『目標に向かってひたすら走る』
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1984
  • フィリピ 4:13 「キリストのお陰で,どんなことにぶつかっても,これに打ち勝つことができる」
    聖句の解説
  • フィリピ人が学んだ秘訣
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1983
  • 目標に向かってまい進しなさい
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1990
もっと見る
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1996
塔96 5/1 31ページ

読者からの質問

自分は「後ろのものを忘れ,前のものに向かって身を伸ばし」ている,と述べた使徒パウロは,何を言おうとしていましたか。(フィリピ 3:13)人は意図的に何かを忘れることができるのですか。

いいえ。ほとんどの場合,何らかの記憶を意図的にぬぐい去ることはできません。現にわたしたちは,覚えていたい多くの事を忘れ,むしろ忘れてしまいたい事をいろいろ覚えているものです。では,パウロはフィリピ 3章13節の言葉を書いたとき,何を言おうとしていましたか。文脈は理解の助けになります。

パウロはフィリピ 3章で,自分が「肉に頼ることができる」ことについて説明しています。パウロはユダヤ教徒としての非の打ちどころのない経歴と,律法に対する熱意について語っています。それらはイスラエル国民の間で,パウロに多くの利益を与える可能性のあったものです。(フィリピ 3:4-6。使徒 22:3-5)それでもパウロは,そのような利益に背を向け,それらを言わば損として退けています。なぜでしょうか。なぜなら,パウロはさらに優れたもの,つまり「キリスト・イエスに関する知識の優れた価値」を見いだしたからです。―フィリピ 3:7,8。

パウロがおもな目標としていたのは,この世界における地位ではなく,「死人の中からの早い復活」を得ることでした。(フィリピ 3:11,12)ですからパウロはこう書いています。「後ろのものを忘れ,前のものに向かって身を伸ばし,キリスト・イエスによる神からの賞である上への召しのため,目標に向かってひたすら走っているのです」。(フィリピ 3:13,14)パウロは「後ろのものを忘れ」ていると述べたとき,「後ろのもの」をともかく記憶から消したと言っていたのではありません。明らかにパウロは,それらのものを依然として覚えていました。すぐ前にそれらのものを列挙しているからです。そのうえ,パウロは原語のギリシャ語では,完了した動作ではなく,進行中の動作を指す動詞を用いています。「忘れた」ではなく,「忘れている」と言っています。

「忘れる」と訳されるギリシャ語(エピランタノマイ)には微妙に異なる意味がありますが,その一つとして「意に介さない」,もしくは「軽んじる」という意味があります。「新約聖書釈義辞典」(ホルスト・バルツ,ゲルハルト・シュナイダー共編)によれば,これがフィリピ 3章13節の『忘れる』という言葉の意味です。パウロは,自分が手放したものについていつまでも考えたりしませんでした。それらを取るに足りないものとみなすことを学んでいたのです。それは天的な希望と比べるなら「多くのくず」に等しいものでした。―フィリピ 3:8。

今日,パウロの言葉はどのように当てはまるでしょうか。あるクリスチャンは,パウロのように,神に仕えるために犠牲を払ったかもしれません。全時間奉仕と引き換えに,実入りのよい仕事を手放したかもしれません。あるいは,裕福な家の出でありながらも,家族が真理を快く思わないため,金銭的なつながりを断たれてしまったかもしれません。そうした犠牲は称賛に値するとは言え,それらのものにいつまでも執着すべきではありません。クリスチャンは,前途にある輝かしい将来を思い見て「後ろのもの」を『忘れる』,つまり気にかけないようにします。―ルカ 9:62。

パウロの言葉の背後にある原則は,別の仕方で適用できるかもしれません。神について学ぶ前に悪行に携わっていたクリスチャンについてはどうでしょうか。(コロサイ 3:5-7)あるいは,クリスチャンになってから重大な罪を犯し,会衆によって懲らしめられた人がいるとしましょう。(コリント第二 7:8-13。ヤコブ 5:15-20)心から悔い改めて自分の歩みを変えたのであれば,その人は「洗われて清く」なりました。(コリント第一 6:9-11)済んでしまった事は仕方がありません。その人は,自分のしたことを文字通り決して忘れないかもしれません。事実,経験から学び,罪を繰り返さないようにするのは賢明なことでしょう。ですが,その人は絶えず自分を責めることはしない,という意味で「忘れ」ます。(イザヤ 65:17と比較してください。)その人は,イエスの犠牲に基づいて許しを得たので,過去を振り捨てるように努めます。

パウロはフィリピ 3章13節と14節で,自分を,ゴールに達するよう「身を伸ばし」ている,競走の走者として描いています。走者は後ろではなく,前を見つめます。同様にクリスチャンは,後に残してきたものではなく,前途の祝福を見つめるべきです。パウロはさらに,「もしあなた方が何かの点でこれと異なる考え方をしているとしても,神はここに述べた態度をあなた方に啓示してくださるでしょう」と述べています。(フィリピ 3:15)ですから,こうした見方を身に着けることができるよう,神に助けを祈り求めてください。聖書に示されている神の考えで思いを満たしましょう。(フィリピ 4:6-9)エホバがあなたを愛しておられること,またそれゆえに自分が享受している祝福について思い巡らしてください。(ヨハネ第一 4:9,10,17-19)そうすれば,後に残したものを気にかけないよう,エホバは聖霊によってあなたを助けてくださるでしょう。むしろパウロのように,あなたは前途にある輝かしい将来に目を向けることでしょう。―フィリピ 3:17。

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする