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  • 私は悔いのない人生を送りました

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  • 私は悔いのない人生を送りました
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1997
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1997
塔97 7/1 22–25ページ

私は悔いのない人生を送りました

パウル・オブリストの語った経験

私がまだ6歳だった1912年に,母は5人目の子供を出産する際に亡くなりました。その2年後,ベルタ・バイベルという若い家政婦が家族の身辺の世話をするようになりました。翌年,父がベルタと結婚したときには,私たち子供はまた母親を持つことができて大喜びでした。

私たちは,スイスのドイツ語圏にあるブルッグという小さな町に住んでいました。ベルタは本当にクリスチャンらしい人で,私はとても好きでした。ベルタは1908年に,聖書研究者(エホバの証人)の出版物の研究を始めていたので,学んだ事柄を他の人に話すのを常としていました。

ベルタと父が結婚して間もない1915年,私はベルタと共に「創造の写真劇」を見に行きました。国際誠心聖書研究者協会が提供したこのスライドと映画は,私の思いと心に深い印象を残しました。他の人たちも感動していました。ブルッグの会館は超満員で,警察はドアを閉め切り,あとから来た人たちを追い返しました。それで,多くの人たちは,開いている窓にはしごを掛けて中に入ることを試み,何人かはそれに成功しました。

母の立派な手本

ヨーロッパでは第一次世界大戦がたけなわで,人々は将来に対して恐怖感を抱いていました。ですから,母が行なっていたように,神の王国に関する慰めの音信を携えて家から家を訪問するのは崇高な行為でした。一緒に行くことを許されることもあったので,私にとってそれはとても楽しいひとときでした。1918年に,母はついにエホバ神への献身の象徴として水のバプテスマを受けることができました。

父は,母がバプテスマを受けるまでは母が行なう崇拝に干渉することはありませんでしたが,そのあと反対するようになりました。ある日,父は母の聖書関係の文書を取り上げ,ストーブの中にほうり込みました。母は火の中から聖書だけかろうじてつかみ出すことができました。しかし,次に母がしたことには驚きました。母は父に近づいて父を抱擁したのです。母は父に対して何の憤りも宿していなかったのです。

父はあっけに取られ,落ち着きを取り戻しました。それでも,父の反対は時々燃え上がることがあり,私たちは父の激こうに耐えなければなりませんでした。

就職と霊的な進歩

3年にわたる理髪師の見習い訓練を1924年に終了したのち,自立してスイスのフランス語圏で仕事を見つけました。これはフランス語を磨く機会になりました。この移転で霊的な進歩はいくらか妨げられることになりましたが,聖書の真理に対する愛を失うことは決してありませんでした。ですから,6年後に実家に戻った時には,ブルッグのクリスチャン会衆の集会に出席するようになりました。

その後まもなく,約40㌔離れたラインフェルデンという小さな町に移り住みました。そこでは姉の理髪店で働くかたわら,聖書研究者の小さな群れと交わることによって霊的な進歩を続けました。ある日,責任者だったゾダー兄弟は,週中の聖書研究を終えるに当たって,「日曜日の野外奉仕に参加される方がいますか」と尋ねました。私は,だれかと一緒に行って奉仕の方法を教えてもらえると思い,参加しますと答えました。

日曜日になって区域に着いてみると,ゾダー兄弟は,「オブリストさんはあそこで奉仕してください」と言いました。あのときほど心臓がどきどきしたことはありませんでしたが,訪問を開始し,人々に神の王国について話しました。(使徒 20:20)その時以来,イエスがこの事物の体制の終結が来る前に行なわねばならないと言われた宣べ伝える業を遂行する点で,ぐらついたことは一度もありません。(マタイ 24:14)1934年3月4日,28歳の時に,エホバ神への献身の象徴として水のバプテスマを受けました。

それから2年後,スイスのイタリア語圏にあるルガノという都市で,理髪師の仕事を見つけ,その都市ですぐに良いたよりの伝道を始めました。イタリア語はあまり知りませんでしたが,それでも,初めて奉仕に出た日曜日には,持って行った小冊子20冊をすべて配布してしまいました。そのうちに,幾人かの関心ある人たちを集めて群れを作り,「ものみの塔」誌を研究するようになりました。最終的に,それらの人たちの多くはバプテスマを受け,1937年2月,ルガノにエホバの証人の会衆が設立されました。

2か月後の1937年4月,私の人生を大きく変えることになった1通の手紙を受け取りました。それはベテルで奉仕するようにとの招待でした。エホバの証人の支部施設は各国でそう呼ばれています。私はすぐにその招待に応じましたが,今までその決定を一度も後悔したことはありません。こうして,60年にわたる全時間宣教という生涯の仕事を始めることになったのです。

波乱の時期のベテル奉仕

当時,スイスのベテルは首都ベルンにありました。私たちはそこで,14か国語の書籍や小冊子,また雑誌を印刷し,ヨーロッパ各地に発送しました。その時代には,私たちの好きなようにバンを利用するわけにはいかなかったので,印刷された文書を手押し車で駅に運ぶこともありました。ベテルでの最初の割り当ては組版部門でした。この部門で私たちは印刷に使う鉛の活字を組みました。その後間もなく,受付で働くようになりました。もちろん,ベテル家族の理髪師として働くこともありました。

1939年9月,第二次世界大戦がぼっ発し,ナチの猛攻撃でヨーロッパ中に恐怖が広がりました。スイスは交戦国のまっただ中にある中立国でした。最初のうち私たちは,妨害されることなくクリスチャンの活動を続けました。ところが,1940年7月5日の午後2時,ロビーの受付にいた時に,一人の民間人が,銃剣付きの小銃を持った兵士を引き連れてやって来ました。

「ツルヒャーはどこだ」と,その民間人はかみつきました。フランツ・ツルヒャーは当時,スイスにおける伝道を指導する支部の監督でした。

「どちら様でしょうか」と,私は尋ねました。すると,彼らはいきなり私をつかみ,私を引きずるようにして階段を上り,ツルヒャーの事務所に連れて行けと命令しました。

ベテル家族は全員 ― 当時は40人ぐらい ― 食堂に集まるよう指示されました。逃げ出そうという気になる者がいないよう,建物の外には4丁の自動小銃が置かれていました。建物の中では,50人ほどの兵士が捜索を始めました。期待とは裏腹に,エホバの証人が軍役へのレジスタンスを促進していることを示す証拠は何も見つかりませんでした。それでも,大量の文書が押収され,5台の軍のトラックで持ち去られました。

私たちが政府当局による「ものみの塔」誌の検閲を拒否したため,スイスにおける「ものみの塔」誌の出版は停止されました。これにより,ベテルの仕事を行なう要員が少なくて済むようになり,家族のより若い成員はベテル奉仕を離れて開拓者 ― 宣べ伝える業に全時間従事するエホバの証人はそう呼ばれている ― になるよう勧められました。

戦時中に開拓奉仕を行なう

1940年7月,私はスイスのイタリア語圏内のルガノの近くに戻りました。ルガノはベテルに来る前に住んでいた所です。そのころにはすでにファシストの強い影響下にも置かれていたこの堅いカトリックの地域が,私の開拓奉仕の区域として割り当てられたのです。

警察官に呼び止められて宣べ伝える活動をやめるよう強要されない日はまずありませんでした。ある日,庭の門の所である女性と話をしていると,私服を着た男が私を後ろからつかまえてパトカーのところまで引いて行き,その車でルガノまで私を連れて行って警察に引き渡しました。尋問に対して私は,エホバ神が私たちに宣べ伝えるよう命令しておられることを説明しました。

警察官はごう慢な態度で,「この地上では,命令を出すのは我々だ。神様には,天で命令を出していただく」と言い放ちました。

「蛇のように用心深く,しかもはとのように純真」であるようにとのイエスの助言に従うことは,戦時中特に大切でした。(マタイ 10:16)ですから,手持ちの文書はすべてシャツの内ポケットに隠していました。そして,何も落とさないように,ひざ下ですそ口をしっかり絞ったニッカーボッカーを着用しました。

そのうちに,エンガディン谷へ移動するよう指示を受けましたが,警察との追いかけっこは続きました。そこはスイス・アルプスの東部に位置する美しい谷です。冬場は大量の積雪で覆われてしまうので,区域内を移動するのに役立つスキーを送ってもらいました。

寒い冬にスキーで旅行するには温かい手袋がどうしても必要です。私の手袋は,絶えず使っていたのですり切れてきました。ですからある日,手編みのセーターと温かい手袋の入った,全く予期していなかった小包が郵送されてきたときには,本当にうれしく思いました。それは以前交わっていたベルンの会衆のあるクリスチャン姉妹が編んでくれたものでした。今でもそのことを思い出すたびに,感謝の念に満たされます。

喜ばしい特権の数々

1943年,スイスの情勢は安定し始め,私はベテルで奉仕するよう呼び戻されました。約100㌔離れたローザンヌのフランス語の会衆で幾つかの問題が生じたため,その都市を定期的に訪問して,伝道者たちが神の組織に対して正しい見方を持てるよう援助することになりました。

その後,一時的に巡回監督として奉仕し,スイスにあったフランス語の会衆をすべて回りました。週の前半はベテルで働きましたが,金曜日,土曜日,日曜日は毎週違った会衆を訪問して霊的な援助を与えることに努めました。それに加えて,1960年にベルンでフランス語の会衆が設立されると,そこの主宰監督に任命されました。1970年までこの立場で奉仕しましたが,その年にベテルはベルンからトゥーンという町にある今の美しい場所に引っ越しました。

うれしいことに,トゥーンにもイタリア語を話す証人たちの小さな群れがあることが分かり,早速一緒に働き始めました。やがて会衆が設立され,私は主宰監督として奉仕するようになり,若い兄弟たちがその責任を負う資格を身に付けるまで,何年ものあいだその立場にとどまりました。

特に喜ばしい特権はエホバの民の国際大会に出席することであると私は考えています。例えば,1950年に,ニューヨークのヤンキー・スタジアムで,記念すべき「拡大する神権政治大会」が開催されました。ニューヨークのブルックリンにあるエホバの証人の世界本部の見学は,私の心に永続的な印象を残しました。また,翌年,英国のロンドンで開かれた「清い崇拝大会」でのミルトン・G・ヘンシェル兄弟の話も忘れることはないでしょう。それは,「あなた方に言いますが,もしこれらの者が黙っているなら,石が叫ぶでしょう」というイエスの言葉が強調された話でした。(ルカ 19:40)ヘンシェル兄弟は,「石が叫ぶ必要があるでしょうか」と聴衆に問いかけました。幾万もの人が,「ノー」と答えたときのその鳴り響く声は,今でも耳に残っています。

1937年にベテルに入ったとき,父は私たちがわずかな払い戻し金しかもらっていないことを知り,心配して,「年を取った時にはどうやって暮らしていくのだ」と尋ねました。私はそれに対する答えとして詩編作者ダビデの次の言葉を引用しました。「義なる者が完全に捨てられるのを見たことも,その子孫がパンを捜し求めるのを見たこともない」。(詩編 37:25)この言葉は私の場合,確かに成就しました。

80年余り前,ベルタ・バイベルが父と結婚し,その母の手本と導きを通して私がエホバとその特質を知るようになったのは何と幸いだったのでしょう。家族の他の成員は母を嘲笑しましたが,母は1983年に亡くなるまで,エホバに忠実に仕えました。母は自分の神エホバに仕えることを悔いたことなど一度もありませんでした。私も独身を保ち,全生涯をエホバへの奉仕にささげてきたことに何の悔いもありません。

[25ページの図版]

ベテルで働いているところ

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