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  • 私の主要な関心はエホバを喜ばせること
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1998
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1998
塔98 11/1 19–23ページ

私の主要な関心はエホバを喜ばせること

テオドロス・ニロスの語った経験

突然,監房の扉が開き,「ニロスはどいつだ」と,士官が大声で呼びました。私が名乗ると士官は私に命じました。「立て。お前に死刑を執行する」。1952年,ギリシャのコリントにあった軍のキャンプでの出来事でした。なぜ私の命は,どうなるか分からないような危険な状態にあったのでしょうか。そのことを説明する前に,私の生い立ちについて少しお話ししましょう。

父が聖書研究者(エホバの証人は当時,その名で知られていた)と接触したのは,1925年ごろのことでした。間もなく父も聖書研究者になり,自分の8人の兄弟姉妹に信じた事柄を伝えるようになりました。彼らは一人残らず聖書の真理を受け入れ,父の両親も真理を受け入れました。その後父は結婚し,1929年,ギリシャのアグリニオンで私が生まれました。

ギリシャにとって,当時は何という恐ろしい時期だったのでしょう。まず,メタクサス将軍が残忍な独裁政治を行なっていました。そして1939年には第二次世界大戦が勃発し,間もなく,国はナチスに占領されました。病気と飢きんが猛威を振るいました。死者の膨れ上がった遺体は小さな手押し車で運ばれていきました。世の災いを見れば,神の王国が必要なことは極めて明らかでした。

奉仕に身をささげた生活

1942年8月20日,私たちのグループが集会のためにテッサロニキ郊外に集まっていた時,主宰監督は,市に爆弾を投下している英国の戦闘機を指さして,『集まり合うことをやめたりしない』ようにという勧めに従うことによって私たちがどれほど守られているかを強調しました。(ヘブライ 10:25)その時,私たちは海岸に集まっていました。そして私は,バプテスマを受けるために自らを差し出した人たちの中にいました。水から上がった私たちが一列に整列すると,クリスチャンの兄弟姉妹が,私たちの下した決定をほめる歌を歌ってくれました。それは本当に忘れがたい日でした。

その後間もなく,一人の少年と一緒に家から家への宣教で人々を訪問していた時,警察官に逮捕され,警察署に連れて行かれました。彼らは,私たちが共産主義者とみなされていることや,宣べ伝える業が禁じられていることを思い知らせようとして私たちを殴打し,「ばか野郎! エホバはスターリンと同じなんだ」と言いました。

そのころにはすでに,ギリシャの内戦は激化しており,熱狂的な反共産主義運動が高まっていました。次の日,私たちはまるで犯罪者のように手錠をかけられて自宅の前を行進させられました。しかし,私が受けた試みはそれだけではありませんでした。

学校における信仰の試み

1944年の初め,私はまだ学校に通っており,ナチスは依然としてテッサロニキを占領していました。ある日学校で,私たちの宗教の教師だったギリシャ正教会の司祭から,その日の聖句の朗読の試験を受けなければならないと言われました。「彼は正教会のクリスチャンではありません」と,他の子供たちが言いました。

「では何なんだ」と,教師は尋ねました。

「エホバの証人です」と,私は答えました。

「羊の中のおおかみだ」と教師は叫び,私を捕まえて顔に平手打ちを加えました。

『おおかみが羊に噛みつかれるとは,いったいどういうことなんだ』と,私は考えました。

数日後,私たちおよそ350人は昼食のテーブルに着いていました。監督は,「ニロスが感謝の祈りをささげます」と言いました。私は,いわゆる『我らの父よ』を復唱しました。マタイ 6章9節から13節に記録されている,イエスが追随者たちに教えた祈りです。監督はそれが気に入りませんでした。それでテーブルの自分の席から,「なぜあんな祈りをしたんだ」と,怒りを含んだ声で尋ねました。

「エホバの証人だからです」と,私は言いました。するとこの監督も私をつかみ,私のほほを殴りました。その日の後刻,別の教師が私を自分の事務所に呼び,「ニロス,よくやった。自分の信念をしっかり守りなさい。くじけてはいけない」と言いました。その夜,父は使徒パウロの次の言葉で私を力づけてくれました。「キリスト・イエスにあって敬虔な専心のうちに生活しようと願う人はみな同じように迫害を受けます」― テモテ第二 3:12。

高校を終えると,どんな職業に就くかを選択しなければなりませんでした。また,ギリシャでは内乱が起こっていたため,クリスチャンの中立の問題にも立ち向かわねばなりませんでした。(イザヤ 2:4。マタイ 26:52)結局,1952年の初めに,私は20年の拘禁刑を言い渡されました。ギリシャの歴史における困難な時期に,武器を取ることを拒否したからです。

クリスチャンの中立が試される

メソロンギオンとコリントにあった軍のキャンプの中に監禁されていた時,政治上の大義を支持する兵士になるのは,聖書によって訓練された自分の良心が許さないということを軍の指揮官に説明する機会がありました。テモテ第二 2章3節を示して,「私はすでにイエスの兵士なのです」と説明しました。もう一度考え直すよう勧められたので,これは衝動的に決めたことではなく,神のご意志を行なうために神に献身したことを考え,真剣に考慮した後に下した決定であることを話しました。

結果として20日間,強制労働を行ない,一日おきに食事を抜かれ,縦90㌢横180㌢の監房のコンクリートの床の上で寝ることになりました。しかもその監房には他の二人の証人も入れられていたのです。死刑執行のために監房から呼び出されたのは,コリントのキャンプにいた期間中のことでした。

刑場へ行く途中,士官は,「何か言いたいことはないか」と聞きました。

「ありません」と,私は答えました。

「家族に手紙を書かないのか」。

私はまた,「書きません」と答えました。「私がここで処刑されるかもしれないことを家族はすでに承知しています」。

中庭に到着すると,私は壁に向かって立つよう命じられました。ところが,士官は兵士たちに発砲命令を出す代わりに,「彼を中に入れろ」と命じました。それはすべて,私の決意を試すために仕組まれた死刑のまねごとだったのです。

その後,私はマクロニソスという小さな島に送られました。そこでは聖書以外にはどんな文書を持つことも許されませんでした。13人の証人たちは,500人近い犯罪者の囚人たちとは別の小さな家に監禁されました。それでも,文書は何らかの方法でひそかに持ち込まれました。例えば,ある日,ルクーミア(人気のあるキャンディー)が一箱私の所に送られてきました。検査官たちはルクーミアの試食に気を取られて,その下に隠してあった「ものみの塔」誌には気づきませんでした。ある証人は,「兵士たちはルクーミアを食べたけれども,私たちは『ものみの塔』を『食べた』」と書いています。

当時新しく発表された書籍,「宗教は人類の為に何を成したか?」も1冊届き,英語の分かる囚人の証人が翻訳しました。また,ひそかに集会を開いて「ものみの塔」誌を一緒に研究することもありました。私たちは刑務所を一つの学校,また霊性を強める機会とみなしました。何にもまして,自分たちの忠誠の歩みはエホバに喜ばれるということを知っていたゆえに私たちは幸福でした。

私が最後に監禁された刑務所は,ペロポネソス東部のティリンサにありました。その刑務所の中で,仲間の囚人と聖書研究をしていたところ,一人の看守がそれを注意深く観察していることに気づきました。それから何年もたった後,テッサロニキでその看守に会った時は本当に驚きました。彼はその時すでに証人になっていました。後に,彼の子供の一人は刑務所に送られました。看守として働くためではなく,囚人として送られたのです。その息子は私と同じ理由で投獄されました。

釈放後に再開した活動

最初に宣告された刑期は20年でしたが,服役したのはわずか3年でした。釈放後,私はアテネに住むことにしました。ところが,すぐにある種の胸膜炎にかかり,テッサロニキに帰ることを余儀なくされました。2か月間,病床に臥しました。その後,クーラという名の愛らしい女性に会い,1959年12月に結婚しました。1962年に,クーラは開拓者として奉仕するようになりました。エホバの証人の全時間奉仕者はそのように呼ばれています。3年後には,私もクーラと一緒に開拓奉仕ができるようになりました。

1965年1月には,巡回奉仕を行なうよう任命されました。会衆を訪問して霊的に強める仕事です。その年の夏には,オーストリアのウィーンで開かれた,私たちにとって初めての大きな地域大会に出席する特権にもあずかりました。その大会は,私たちがギリシャで開いていた大会とは異なっていました。ギリシャでは業が禁令下にあったため,森の中でひそかに集まらなければならなかったからです。1965年の終わりごろ,アテネにあるエホバの証人の支部事務所で働くよう招かれました。しかし,親族の中に,健康上の問題を抱えた者がいたため,1967年にはテッサロニキに帰らなければなりませんでした。

家族に対する責任を果たすかたわら,私たちは引き続き福音宣明の業に忙しく携わりました。いとこのコスタスに話をした時のことです。私が神の組織の美しさと,そこに存在する愛や一致や神に対する従順について話すと彼は,「もし神が存在しさえすれば,それは本当にすばらしいことだ」と言いました。では,神が存在するかどうか調べてみてはどうかと私が勧めると,彼はその勧めに応じました。そこで私は,1969年8月にドイツのニュルンベルクで開かれる,エホバの証人の国際大会に出席するつもりでいることを話しました。するとコスタスは,私も一緒に行っていいですかと尋ねました。私と聖書を研究していたコスタスの友人アレコスも行きたいと言いました。

ニュルンベルクの大会は実に壮観でした。大会は,かつてヒトラーが戦勝を祝った広い競技場で開かれたのです。出席者最高数は15万人以上に達し,すべての活動の上にエホバの霊が表わされていました。その後間もなく,コスタスもアレコスもバプテスマを受けました。二人は現在クリスチャンの長老として奉仕しており,家族も証人です。

私は聖書に関心を持つある女性と研究を始めました。彼女の夫は,私たちの信条を調べたいと言いました。そしてそのすぐ後,ギリシャ正教会の神学者でサッコスという人を討論に招いたことを知らせてきました。そのご主人は,私たち両方に幾つか質問をしたいと思っていました。サッコス氏は司祭を伴って来ました。私たちが訪問していたご主人は,開始にあたって,「まず,サッコス氏に三つの質問に答えていただきたいと思います」と言いました。

私たちが話し合いで用いていた翻訳聖書を取り上げながら,「質問1。これは純粋な聖書ですか,それとも証人たちの聖書ですか」と尋ねました。サッコス氏は,それは権威ある翻訳だと答え,エホバの証人のことを「聖書愛好者」とも言いました。

ご主人は続けて,「質問2。エホバの証人は品行方正な人々ですか」と尋ねました。実際は,妻がどんな種類の人たちと付き合うようになったのか知りたかったのです。神学者は,エホバの証人は確かに品行方正な人たちだと答えました。

ご主人は,「質問3」と続けました。「エホバの証人は給料をもらっていますか」。「いいえ,もらっていません」と,神学者は答えました。

最後にそのご主人は,「質問の答えが分かりましたので,私は心を決めました」と言って話を終えました。その後,このご主人は聖書研究を続け,間もなくエホバの証人としてバプテスマを受けました。

豊かで,報いの多い人生

1976年1月,私はもう一度巡回監督として奉仕を始めました。それからおよそ6年後に,ギリシャでは新しい形の伝道方法であった街路伝道を先頭に立って行なう特権を得ました。その後,1991年10月に,妻と私は特別開拓者として奉仕するようになりました。しかし数か月後に,心臓バイパス手術を4か所受けることになりました。感謝すべきことに手術は成功しました。現在の健康状態はとても良好で,全時間の宣教奉仕を再開することができました。また,テッサロニキの会衆の一つで長老として奉仕するとともに,地元の医療機関連絡委員会でも奉仕し,医療上の必要を抱えている人たちを援助しています。

自分の人生を振り返ってみると,天の父に喜ばれることを行なうことが,いかに大きな満足をもたらすかが分かります。ずっと以前に魅力ある神からの招きを受け入れたことを大変うれしく思っています。「我が子よ,賢くあって,わたしの心を歓ばせよ。わたしを嘲弄している者にわたしが返答するためである」。(箴言 27:11)エホバの組織に入ってくる誠実な人の数が世界中で増加しているのを見るのは,本当に大きな喜びです。聖書の真理によって人々を自由にし,義なる新しい世でその人々がとこしえの命を得る見込みを開くための業にあずかるのはまさしく特権です。―ヨハネ 8:32。ペテロ第二 3:13。

私たちは,若いエホバの僕たちが全時間宣教を目標にし,自分の時間や力をエホバにささげるよういつも励ましています。エホバを信頼し,エホバの心を歓ばせることに無上の喜びを見いだすことこそ,人が経験できる最も充実した生き方であることは間違いありません。―箴言 3:5。伝道の書 12:1。

[21ページの写真]

(左から右へ)

1965年,ベテルの厨房で奉仕しているところ

1970年,講演を行なっているところ。当時宣べ伝える活動は禁令下にあった

1959年,妻と共に

[23ページの写真]

妻のクーラと共に

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