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  • イエスは子供たちと時を過ごされた
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1998
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1998
塔98 11/1 30–31ページ

彼らはエホバのご意志を行なった

イエスは子供たちと時を過ごされた

イエスの3年半にわたる宣教は終わりに近づいていました。まもなくエルサレムに入り,苦痛の伴う死を遂げられることになります。イエスは,前途に何があるかを十分に知っておられました。そのため弟子たちにこう言われました。「人の子は人々の手に引き渡されます。そして人々は彼を殺します」― マルコ 9:31。

ですからイエスは,一日,一時,一瞬といえども最大限に活用したいと思っておられたに違いありません。弟子たちにもまだ注意を払う必要がありました。謙遜さが必要なことや,つまずく危険が常にあることについて,弟子たちを強く諭す必要があることを感じておられました。(マルコ 9:35-37,42-48)また弟子たちは,結婚,離婚,独身を保つことなどについても,教えられる必要がありました。(マタイ 19:3-12)ご自分がまもなく死ぬことを知っておられたので,イエスは,簡潔に,緊急感を持って弟子たちに話をされたに違いありません。時間が非常に大切であったことを考えると,イエスが次に行なわれたことはいっそう注目に値します。

イエスは子供たちを歓迎する

聖書には,「彼に触っていただこうとして,人々が幼子たちをそのもとに連れて来るのであった」と述べられています。弟子たちはそれを見るとすぐに非難しました。子供たちの相手をするにはイエスはあまりにも重要な方,忙しすぎる方だ,と弟子たちは考えたのでしょう。イエスが弟子たちに対して憤然とされたとき,彼らがどれほど驚いたか想像してみてください。イエスは弟子たちに,「幼子たちをわたしのところに来させなさい。止めようとしてはなりません。神の王国はこのような者たちのものだからです」と言われました。それから,「あなた方に真実に言いますが,だれでも,幼子のように神の王国を受け入れる者でなければ,決してそれに入れないのです」と付け加えられました。―マルコ 10:13-15。

イエスは,称賛に値する特質が子供たちにあるのをご覧になりました。子供たちはふつう何でも知りたがり,また信じて疑いません。親の言葉を素直に受け入れ,他の子供たちの前で親を擁護することさえします。言われることをよく受け入れる,教えやすい子供の気質は,神の王国に入ることを願う人すべてが見倣うに値します。イエスも「神の王国はこのような者たちのものだからです」と言われました。―マタイ 18:1-5と比較してください。

しかしイエスは,子供たちを例えに用いただけではありませんでした。聖書の記述は,イエスが子供たちと親しむことを真に好んでおられたことを明らかにしています。マルコは,イエスが「子供たちを自分の両腕に抱き寄せ,その上に両手を置いて祝福しはじめられた」と述べています。(マルコ 10:16)イエスが『子供たちを自分の両腕に抱き寄せた』という,心温まる詳細な記述は,マルコの記述にしか含まれていません。a 親たちは,ただ「触って」もらうだけでもいいと思って子供たちを連れてきたのですが,イエスのしたことは親の期待をはるかに超えたものでした。

イエスが子供たちの上に「両手を置い(た)」ことにはどんな意義があったのでしょうか。ここでは,バプテスマのような,宗教的な儀式であったことを示すものは何もありません。両手を置くことは任命することを意味する場合もありましたが,祝福を与えることを意味するだけの場合もありました。(創世記 48:14。使徒 6:6)ですから,イエスはこの子供たちを祝福しておられただけのことだったのでしょう。

いずれにしても,マルコはより強い意味の“祝福”(カテウロゲオー)という言葉を使い,強意的効果を表わしています。これはイエスが子供たちを熱烈に,優しく,温かく祝福したことを示しています。イエスが子供たちを,時間を奪う厄介者と見ておられなかったことは明らかです。

わたしたちに対する教訓

イエスは,大人にも子供にも,威圧するような,あるいは侮辱するような態度で接したりはされませんでした。「イエスはすぐに笑顔を見せ,うれしそうに笑ったに違いない」と,ある参考文献は述べています。どんな年齢層の人も,イエスのそばでくつろいだ気分になれたのは少しも不思議ではありません。イエスの模範を思い出して,わたしは,「他の人が近づきやすい人間だろうか」,「色々な活動をすることも,他の人のことを気遣うこともできないほど忙しそうに見えるだろうか」と,自問してみることができます。人々に対する誠実な関心を培うならば,イエスが行なわれたように,自分自身を惜しみなく与えるように動かされます。他の人はわたしたちが純粋な関心を持っていることに気づき,わたしたちに引き寄せられるでしょう。―箴言 11:25。

マルコの記述が示しているように,イエスは子供たちと一緒にいることを楽しまれました。イエスは時間を取って子供たちが遊ぶところを観察されたようです。というのは,イエスは子供の遊びをご自分の例え話の一つで述べておられるからです。(マタイ 11:16-19)おそらく,イエスに祝福された子供たちの中には,年があまりにも幼くて,イエスがどういう方なのかも,イエスが教えた事柄も正しく理解できなかった子がいたことでしょう。それでもイエスは,時間を無駄にしたとは感じられませんでした。子供たちを愛していたので,一緒に時を過ごされたのです。イエスが宣教中に出会った子供の中には,後になって,イエスの愛にこたえるよう心を動かされ,弟子になった人も多かったことでしょう。

イエスが,ご自分の人生における極めて重要な最後の週にも子供たちと共に時を過ごされたのであれば,わたしたちも忙しい予定の中で,子供たちと共に過ごす時間を作ることができるに違いありません。特に父親のいない男の子や女の子など,特別に世話を必要としている子供たちに心を配りましょう。よく世話をされる子供はみな,本当にすくすくと育つものです。そして,エホバはわたしたちに,可能な限り子供たちに愛と助けを与えるよう強く望んでおられるのです。―詩編 10:14。

[脚注]

a イエスは「彼らを抱擁した」としている翻訳もあります。また,イエスは「彼らを腕で抱え上げた」という訳もあります。

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