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  • マカベア家 ― どのような人たちでしたか
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1998
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1998
塔98 11/15 21–24ページ

マカベア家 ― どのような人たちでしたか

多くの人にとって,マカベア時代は,ヘブライ語聖書の最後の幾つかの書が完成してからイエス・キリストの到来までの時期に埋もれたブラックボックスのようなものでしょう。ちょうど,飛行機の墜落事故の後に回収されたブラックボックスを調べると,特定の詳細な事柄が明らかになるように,ユダヤ国民にとって変化をもたらした過渡期であったマカベア時代について詳しく調べてみると,幾つかの点で洞察が得られます。

マカベア家の人々とはどのような人たちだったのでしょうか。予告されたメシアが到来する以前のユダヤ教にどのような影響を及ぼしましたか。―ダニエル 9:25,26。

ヘレニズムの大波

アレクサンドロス大王は,ギリシャからはるかインドに至るまで様々な領土を征服しました。(西暦前336-323年)その広大な王国は,ヘレニズム,つまりギリシャの言語や文化を広める要因となりました。アレクサンドロスの士官や兵士は地元の女性と結婚したので,ギリシャ文化と異国の文化を融合させることになりました。アレクサンドロスの死後,同大王の王国はその武将たちの間で分割されました。西暦前2世紀の初めに,シリアのギリシャ系セレウコス朝のアンティオコス3世は,エジプトのギリシャ系プトレマイオス朝の支配下からイスラエルを奪い取りました。ヘレニズムによる支配はイスラエルのユダヤ人にどのような影響を及ぼしましたか。

ある歴史家はこう書いています。「ユダヤ人はヘレニズム化された隣人との接触を避けられなかった上,国外の同胞と接触する機会が少なかったため,ギリシャの文化や思想を吸収せざるを得なかった。……実際,ヘレニズム時代に生きていれば,ただそれだけでギリシャ文化を吸収することになったのである」。ユダヤ人はギリシャ名を使うようになりましたし,程度の差こそあれ,ギリシャの習慣や服装を取り入れました。巧みに同化させようとする力は増大してゆきました。

祭司たちの腐敗

ユダヤ人の中でも,ヘレニズムの影響をいちばん受けやすかったのは祭司たちでした。多くの祭司たちにとって,ヘレニズムを受け入れることは,ユダヤ教を時世に後れないよう発展させることを意味しました。そうしたユダヤ人の一人は,大祭司オニアス3世の弟ヤソン(ヘブライ語ではヨシュア)でした。オニアスがアンティオキアに行っていた間に,ヤソンはギリシャ人の当局者たちにわいろを送りました。なぜでしたか。オニアスの代わりに自分を大祭司として任命させるためでした。ギリシャ系セレウコス朝の支配者アンティオコス・エピファネス(西暦前175-164年)は,その申し出を快く受け入れました。それまでギリシャ系の支配者たちはユダヤ人の大祭司職に干渉しませんでしたが,アンティオコスは軍事行動のための資金を必要としていたのです。また,ヘレニズム化政策をもっと積極的に推進するユダヤ人の指導者を得て喜んでいました。ヤソンの依頼により,アンティオコスはエルサレムにギリシャの都市(ポリス)としての地位を与えました。それでヤソンは体育場を建設し,ユダヤ人の若者や祭司たちさえその体育場で競技を行ないました。

裏切りは裏切りを生みました。それから3年後,祭司の家系の人ではなかったと思われるメネラオスがさらに高額のわいろを送ったので,ヤソンは逃亡しました。メネラオスはアンティオコスに支払うため,神殿の宝物庫から巨額のお金を運び出しました。オニアス3世(アンティオキアで流浪の身であった)はそのことをはっきりと批判したため,メネラオスは同3世の殺害を謀りました。

アンティオコスが死んだといううわさが広まると,ヤソンはメネラオスから大祭司職を奪い返すため,1,000人の部下と共にエルサレムに戻って来ました。ところが,アンティオコスは死んではいませんでした。ヤソンの行動や,ヘレニズム化政策に反抗するユダヤ人の間で起きた騒動について聞いたアンティオコスは,徹底した対抗策を講じました。

アンティオコスは行動を起こす

モシェ・パールマンは自著「マカベア家」(英語)の中でこう書いています。「記録は明確ではないが,アンティオコスは,ユダヤ人に宗教的自由を認めたのは政治的誤りだったという結論に達したようである。アンティオコスにとって,エルサレムにおける近時の反乱は純粋に宗教的な動機からではなく,ユダヤに広まっていた親エジプト的風潮のために起きたものであって,厳密に言えば,自国の諸民族すべての中でユダヤ人だけが追求して大幅に認められていた宗教上の分離主義のために,そうした政治的感情が危険な方法で表現されたのである。……それで,そういうことはやめさせなければならないという結論に達した」。

イスラエルの政治家であり,学者でもあるアバ・イーバンは,その後の出来事を次のように要約しています。「[西暦前]168および167年中,矢継ぎ早に,ユダヤ人は大量虐殺を被り,神殿は略奪され,ユダヤ教の慣習は禁止された。割礼は死刑によって罰せられる罪とされ,安息日を守ることも同様の罪とみなされた。167年12月,最大の侮辱が加えられた。その時,アンティオコスの命令により神殿域にゼウスの祭壇が建てられ,ユダヤ人は豚肉をギリシャ人の神にささげるよう要求された。もとよりそれは,ユダヤ人の律法によれば汚れたものであった」。その期間中,メネラオスやヘレニズム化された他のユダヤ人は引き続き自分の立場にとどまり,今では汚された神殿でそれぞれ務めを行ないました。

多くのユダヤ人はヘレニズムを受け入れましたが,ハシディーム,つまり“敬虔な者たち”と称する新しいグループの人々は,モーセの律法にいっそう厳密に従うことを奨励しました。今や,ヘレニズム化された祭司たちに愛想をつかした一般の人々は,ますますハシディームを支持するようになりました。ユダヤ人は国内の至る所で,異教の習慣に従って犠牲をささげるか,それとも死ぬかの二者択一を迫られるようになり,殉教の時代が始まりました。外典のマカベア書には,妥協よりも死を選んだ男女子供に関する様々な記述が載せられています。

マカベア家は反発する

アンティオコスの講じた極端な処置が元で,ユダヤ人は自分たちの宗教のために戦うようになりました。エルサレムの北西,現在のロド市の近くにあるモディンで,マッタティアスという名の祭司が町の中心地に呼び出されました。マッタティアスは地元の人々から尊敬されていたので,王の代表者たちはマッタティアスを説得して,異教の供犠に加わらせようとしました。自分自身の命を救うため,また他の一般の人々のための手本を示させるためでした。マッタティアスがそうするのを拒むと,別のユダヤ人が進み出て,今にも妥協しそうになりました。憤りに満たされたマッタティアスは武器をつかむなり,そのユダヤ人を殺してしまいました。このかなり年配の男性の激しい反発ぶりにぼう然としたギリシャ人の兵士たちは,対応に手間取りました。マッタティアスはとっさにギリシャ人の役人をも殺しました。マッタティアスの5人の息子とその町の住民は,ギリシャ人部隊が防衛態勢を整える前にその部隊を制圧しました。

マッタティアスは,『律法を熱心に守る者は皆,わたしに従え』と,大声で叫びました。マッタティアスとその息子たちは報復を免れるため丘陵地に逃げましたが,そうした行動に関するうわさが広まるにつれて,ユダヤ人(多くのハシディームを含む)は彼らに加わりました。

マッタティアスは息子のユダを軍事作戦の責任者に任じました。多分,ユダは武勇の人であったためと思われますが,「槌」という意味のマカベアと呼ばれました。マッタティアスとその息子たちはハスモン家と呼ばれました。この名称はヘシュモンという町,もしくは同名の父祖に由来するものでした。(ヨシュア 15:27)しかし,その反乱が続いた期間中,ユダ・マカベアが著名な人物となったため,その家族全体はマカベア家と呼ばれるようになりました。

取り戻された神殿

反抗が始まった年に,マッタティアスとその息子たちは小規模な軍隊を組織できました。ギリシャ人の軍隊は安息日に,ハシディームの戦士のグループを一度ならず攻撃しました。それらの戦士は自衛することができたものの,安息日の定めを破ろうとはしませんでした。その結果,大虐殺が起きました。今や宗教上の権威者とみなされていたマッタティアスは,安息日にも自衛することをユダヤ人に許す規定を設けました。この規定はその反乱に新たな命を与えただけでなく,ユダヤ人の律法を変化する状況に適合させることをユダヤ教の指導者たちに許す手本となりました。タルムードは後代の陳述の中でこの傾向を反映して,「安息日の神聖さを一度汚して,多くの安息日を神聖なものとするように」と述べています。―ヨマー 85b。

かなり年配の父が亡くなった後,ユダ・マカベアは疑う余地のない反抗の指導者になりました。野戦で敵を撃ち破る力がないことを悟っていたユダは,現代のゲリラ戦のような新戦術を考案しました。つまり,通常の防衛手段を講じられないような場所でアンティオコスの軍勢を撃ち倒したのです。こうしてユダは自軍より圧倒的に大きな軍勢を次々に撃ち破りました。

ローマ帝国が興隆し,セレウコス朝内部でも抗争があったため,同王朝の支配者たちは,反ユダヤ人令の実施にあまり関心を持たなくなりました。こうしてユダにとっては,まさしくエルサレムの城門にまで攻撃を強行する道が開かれました。西暦前165年(あるいは,もしかすると西暦前164年)12月,ユダと配下の軍隊は神殿を占拠し,その器具類を清め,再び神殿を奉献しました。神殿が汚されてからちょうど3年たった時のことでした。ユダヤ人は毎年,ハヌッカつまり献納の祭りの際にこの出来事を祝います。

敬神に取って代わった政治活動

反抗の目標はすでに達成されていました。ユダヤ教の慣習に対する禁止令は廃止され,神殿での崇拝は回復され,犠牲は元どおりささげられるようになっていました。今や満足したハシディームは,ユダ・マカベアの軍隊を離れ,家に戻りました。しかし,ユダには別の考えがありました。よく訓練された軍隊を持っているのですから,その軍隊を用いて独立したユダヤ国家を樹立していいはずです。反抗を起こした宗教上の理由は,今や政治的な動機に置き換えられました。こうして,闘争は続行されました。

ユダ・マカベアは,セレウコス朝の支配を排除する戦いのための支援を求めてローマと盟約を結びました。ユダは西暦前160年に戦死しましたが,その兄弟たちが戦いを続行しました。ユダの兄弟ヨナタンは依然,セレウコス朝の主権のもとにありましたが,自分をユダヤの大祭司ならびに支配者として任命することに同朝の支配者たちが同意するよう物事をうまく操作しました。ヨナタンがシリア側の陰謀に欺かれ,捕らえられて殺されると,その兄弟シメオン ― マカベア家の兄弟たちの最後の人 ― が後を継ぎました。シメオンの支配下で(西暦前141年),セレウコス朝による支配の最後の痕跡が除かれました。シメオンはローマとの同盟関係を更新し,ユダヤ人の指導者層はシメオンを支配者ならびに大祭司として受け入れました。こうして,独立したハスモン王朝はマカベア家の人々の手によって確立されたのです。

マカベア家は,メシアが到来する以前に神殿における崇拝を再確立しました。(ヨハネ 1:41,42; 2:13-17と比較してください。)しかし祭司職に対する信頼は,ヘレニズム化された祭司たちによってくじかれたように,ハスモン家の支配下でなおいっそう揺らぎました。忠実なダビデの家系の王ではなく,政治家肌の祭司たちによる支配は,確かにユダヤ民族に真の祝福をもたらしませんでした。―サムエル第二 7:16。詩編 89:3,4,35,36。

[21ページの図版]

ユダ・マカベアの父マッタティアスは大声でこう叫んだ。『律法を熱心に守る者は皆,わたしに従え』

[クレジット]

ユダヤ人の避難民に訴えるマッタティアス/The Doré Bible Illustrations/Dover Publications

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