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    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1962
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    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1962
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1999
塔99 4/1 23–27ページ

パラダイスを探して

パスカル・スティージの語った経験

もう夜も更け,フランス南部にあるベジエの町の通りには人っ子ひとりいませんでした。宗教書を扱う書店の塗りたての壁を見つけた友人と私は,ドイツの哲学者ニーチェの「神は死んだ。超人万歳!」という言葉を黒い字で大きく書きなぐりました。それにしても,なぜ私はそんなことをするようになったのでしょうか。

私は1951年にフランスで,イタリア系のカトリックの家庭に生まれました。子供のころ,休暇には家族でイタリアの南部によく出かけたものです。そのあたりではどの村にも聖母マリアの像がありました。祖父と一緒に長い行列に加わって,衣装をまとった巨大なマリア像の後について山地を歩いたりもしましたが,確信などまったくありませんでした。基礎教育は,イエズス会が運営する宗教的な学校で終えました。とはいえ,神への信仰を本当に築いてくれるような事柄を聞いた覚えはまったくありません。

私が人生の目的について熟考するようになったのは,医学を学ぶためにモンペリエの大学に入ったころのことです。父は戦時中に負傷し,ベッドのそばにはいつも医師がいました。戦禍で傷ついた人をいやすために多大の時間と労力を費やすより,戦争を終わらせるほうがよいのではないでしょうか。ところが,ベトナム戦争は最高潮に達していたのです。私の考えでは,例えて言えば,肺ガンを治療する唯一の筋道の通った方法は,そのおもな原因であるたばこを取り除くことでした。さらに,栄養失調を原因とする発展途上国の病気と,飽食を原因とする豊かな国の病気についてはどうでしょうか。悲惨な結果を何とかしようとするよりも,原因を取り除くほうが良いのではないでしょうか。なぜ地上にはたくさんの苦しみがあるのでしょうか。私は,この自滅的な社会には何かとんでもない間違いがあると感じ,その責任は政府にあると考えました。

私はある無政府主義者の書いた本を愛読し,そこから取った文章をよく壁に書きました。徐々に,私自身も無政府主義になりました。信仰も道徳律も持たず,神も支配者も望みませんでした。私にとって神と宗教は,金持ちや権力者が私たちを支配したり搾取したりするために考案したものでした。「この世で我々のために一生懸命働け,そうすれば天国で大いに報われるのだ」と言っているように思えたのです。しかし,神の時代は終わっていました。人々はそれを知らされる必要があったのです。落書きは人々にそれを知らせる一つの方法でした。

その結果,学業は二の次になりました。私はその間にモンペリエの別の大学に入学し,地理学と生態学を研究するようになっていましたが,学内では学園紛争の嵐が吹き荒れていました。生態学を研究すればするほど,この美しい星が汚染されているのを目にするのがいやになりました。

毎年の夏休みにはヒッチハイクに出かけ,ヨーロッパじゅうを何千キロも回りました。旅行中,大勢のドライバーと語り合う一方,悪と腐敗で人間社会が冒されていることを自分の目で見ました。パラダイスを探しているときに,美しいクレタ島ですばらしい浜辺をいくつか偶然に見つけたことがあります。しかし,浜辺は油にまみれていました。私はとても悲しくなりました。地上のどこかに,まだパラダイスのかけらでも残っているのでしょうか。

いなかへ帰る

フランスの環境保護運動家たちは,社会の苦悩を解決するにはいなかへ帰れと唱えていました。私は自分の手を使って働きたいと思いました。それで,フランス南部,セベンヌ山地のふもとにある小さな村の古い石造りの家を購入しました。ドアには,“パラダイス・ナウ”というアメリカのヒッピーのスローガンを書きました。旅の途中だったドイツ人の女の子がやって来て,私と一緒に住むようになりました。体制側の代表である村長の前で結婚することなど論外でした。教会ですか。とんでもありませんでした。

私たちはたいていはだしで歩き回り,私は長髪とぼさぼさのあごひげを生やしていました。果物や野菜の栽培がとても気に入りました。夏になると空は青く,せみが鳴いていました。低木にまじって咲く花は甘い香りをふりまき,私たちが育てたぶどうやいちじくなどの地中海の果物には水気がたっぷりとあり,パラダイスに自分の住みかを見つけたかのように思えました。

神への信仰に目覚める

大学時代には細胞生物学,発生学,解剖学を学び,あらゆるものが複雑かつ調和をもって組み合わされていることに心から感動していました。創造物について毎日じっくり考えたり,創造物をじかに観察したりできるようになってからは,その美や潜在力に驚嘆しました。創造物という本は,毎日1ページずつ私に語りかけてくれました。丘陵地を長時間散歩していたある日のこと,人生について熟考した後,私は創造者がいるに違いないと結論しました。神を信じようと心に決めたのです。それまでは,心の中に空虚感やどうしようもない孤独感を感じていました。神を信じ始めたその日,私は自分にこう言い聞かせました。「パスカル,お前はもう一人ぼっちになることはないんだ」。それはちょっと味わえない感動でした。

その後まもなく,私たち二人にアマンディーンという娘が生まれました。私は,アマンディーンを目に入れても痛くないほどかわいがりました。神を信じるようになっていた私は,知っている数少ない道徳律を尊重するようになりました。盗みやうそをつくことはやめました。するとまもなく,周りの人との多くのいざこざを避けられることに気づきました。それでも私たちは問題を抱えていましたし,私のパラダイスは望んだとおりのものではありませんでした。ぶどうを栽培してワインを醸造していた地元の人たちは殺虫剤や除草剤を使い,それによって私の作物も汚染されていました。悪の原因に関する疑問にもまだ答えが見つかっていませんでした。さらに,家庭生活に関するたくさんの本を読んではいたのですが,同棲相手との激しい言い争いは相変わらずでした。友だちは多くなく,みな信頼できませんでした。中には彼女に浮気をさせようとした友だちさえいました。もっとましなパラダイスがあるはずでした。

祈りに対する答え

私は自分なりに,人生の導きを求めて何度も何度も神に祈りました。ある日曜の朝のこと,イレーヌ・ロペスという愛想のよい女性が幼い息子を連れて我が家の玄関にやって来ました。彼女はエホバの証人でした。私は話に耳を傾け,再び訪問するという申し出に応じました。すると,二人の男性が会いに来ました。会話の中から,二つの事柄,つまりパラダイスと神の王国が記憶に残りました。私はその二つをしっかりと心に留め,月日がたつにつれ,もし清い良心を持ち,本当の幸福を見いだしたいと思うなら,いつの日か神との関係をきちんとしなければならないということを理解するようになりました。

二人の生活を神の言葉と調和したものにするため,当初,同棲相手は私と結婚する気でいました。しかし彼女は,神とそのおきてを侮る人々との悪いつきあいを始めました。ある春の夜,帰宅した私はぎょっとしました。家が空になっていたのです。同棲相手は3歳の娘を連れて姿を消していました。二人の帰りを何日も待ち続けましたが無駄でした。神を責めるのではなく,むしろ助けてくださるよう神に祈りました。

その後まもなく,私は聖書を手に取り,いちじくの木の下に腰を下ろして読み始めました。実際のところ,私は聖書の言葉をむさぼるように読みました。それまで精神分析学者や心理学者のありとあらゆる種類の本を読んでいましたが,これほどの知恵に出会ったことは一度もありませんでした。その本は神の霊感を受けたものに違いありませんでした。イエスの教えと,人間の本質に関するイエスの理解には非常に驚きました。詩編を読んで慰められ,箴言の実際的な知恵に感嘆しました。そしてすぐに次のことに気づきました。すなわち,創造物を研究することは人を神に引き寄せる優れた方法ですが,それは「神の道の外縁」を明らかにすることしかできないのです。―ヨブ 26:14。

証人たちは,「とこしえの命に導く真理」と,「あなたの家族生活を幸福なものにする」という本を置いていってくれていました。a その2冊を読んで,目が開かれました。「真理」の本を読んで,なぜ人類が,世界的な汚染,戦争,暴力の増加,核による絶滅の脅威などに直面しているのかを理解できました。そして,庭から見た夕焼けが翌日の晴天を告げていたように,これらの出来事は神の王国が近いことを証明していたのです。「家族生活」の本はと言えば,同棲相手にその本を見せてやり,聖書のアドバイスを実践すれば幸福になれると教えてやれれば良かったと思いました。しかし,それはもうかなわぬことでした。

霊的に成長する

もっと知りたいと思った私は,ロベールというエホバの証人に訪問してくれるよう頼みました。私がバプテスマを受けたいと言ったのでロベールはたいへん驚き,そして聖書研究が始まりました。すぐに私は学んでいることを他の人に話したり,王国会館で手に入れた出版物を配布したりするようになりました。

生計を立てるため,私は石工の課程を取りました。神の言葉が人にもたらす益を意識していた私は,あらゆる機会をとらえて仲間の学生や先生たちに非公式に伝道しました。ある夕方のこと,私は廊下でセルジュに会いました。セルジュが雑誌を何冊か持っていたので,「読書が好きなんだね」と話しかけました。「まあね。でもこういうのは退屈だよ」。それで,「本当に読む価値のあるものを読みたいと思わない?」と尋ねました。神の王国についてすばらしい話し合いができ,そのあと彼は聖書文書を何冊か受け取りました。次の週,セルジュは私と一緒に王国会館に行き,聖書研究が始まりました。

ある日のこと,私はロベールに,家から家に伝道してよいかと尋ねました。ロベールはクローゼットからスーツを1着出してきてくれました。次の日曜日,私はロベールと一緒に宣教奉仕への第一歩を踏み出しました。そしてついに,1981年3月7日,私はエホバ神に献身したことをバプテスマによって公に表わしました。

苦難の時の助け

そのころには,国外にいるアマンディーンとその母親の居場所を突き止めていました。ところが何ということでしょう,相手先の国の法律によれば全く合法的とはいえ,母親は私が娘に会うことを許さなかったのです。私は打ちのめされました。アマンディーンの母親は結婚していました。そして,彼女の夫が私の同意を全く得ないまま私の娘を養女にしたという公式の通知を受け取ったとき,私は再び絶望のふちに追いやられました。我が子に対する権利は何も残されていませんでした。法的手段に訴えたものの,面接交渉権は認められませんでした。まるで何十キロもある重いものを背負っているかのような,そんなつらさを味わいました。

しかし,エホバの言葉が幾つかの面で私を支えてくれました。とても苦悩していたある日には,箴言 24章10節の「あなたは苦難の日に自分が失望していることを明らかにしたか。あなたの力は乏しくなる」という言葉を私は繰り返しとなえました。この節は,参ってしまうことがないよう助けてくれました。またある時には,娘に会おうとしてうまくいかなかったあと,私は宣教に出かけ,伝道かばんの取っ手を力いっぱい握りしめました。そうした難しい時を通して,詩編 126編6節の,「一袋の種を携え,しかも泣きながら出て行かなければならない者は,穀物の束を携え,必ず歓呼の声を上げながら入って来るであろう」という言葉の真実さを経験できました。私は大切な教訓を学びました。それは,たいへんな試練に遭っている時,ひとたび解決のために自分にできることを全部行なったなら,試練についてくよくよ考えずに,決意を持ってエホバへの奉仕を続けてゆかなければならないということです。これが,喜びを保つ唯一の方法です。

さらに勝ったものをとらえようとする

私の変わりようを見た両親は,大学での勉強を続けられるよう援助してあげると言ってくれました。両親には感謝しましたが,その時,私には別の目標がありました。真理は,人間の哲学や神秘主義や占星術から私を自由にしてくれました。私には,戦争で殺し合ったりなど決してしない真の友人がいました。そして,地上にはなぜこれほど多くの苦しみがあるのかという疑問に対する答えをついに知ることができました。感謝の気持ちに動かされ,力の限りをつくして神にお仕えしたいと思いました。イエスは宣教に自分を全く献げました。私もその模範に倣いたいと思ったのです。

1983年に,私は石工の仕事をやめて全時間の奉仕者になりました。祈りが聞き届けられ,公園でのパートタイムの仕事が見つかり,生活費を賄うことができました。うれしかったのは,私が石工の学校で証言した若者,セルジュと一緒に開拓奉仕学校に出席できたことです。正規開拓者になって3年たつと,エホバへの奉仕においてさらに多くのことをしたいという気持ちが込み上げてきました。それで1986年に,パリからあまり遠くない,絵のように美しいプロバンという町で特別開拓者として働く任命を受けました。夕方帰宅して,ひざまずき,あなたのことを人々に語るために費やしたすばらしい一日を感謝します,とエホバに祈ることがよくありました。実際,私にとって人生における二つの最大の喜びとは,神に語りかけることと神について語ることです。

もう一つの大きな喜びは,フランス南部のセバザーンという小さな村に住んでいた68歳になる母がバプテスマを受けたことでした。母が聖書を読み始めたとき,私は母が「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を定期的に受け取れるよう取り決めました。母は考え深い人だったので,読んだものの持つ真理の響きにすぐ気づきました。

ベテル ― 驚くべき霊的なパラダイス

ものみの塔協会が特別開拓者の人数削減を決定したとき,私は宣教訓練学校とベテル ― フランスのエホバの証人の支部事務所 ― への申し込みを出しました。どうお仕えすれば最善かという決定をエホバにお任せしたいと思ったのです。数か月後の1989年12月,私はフランス北西部にあるルビエのベテルに招待されました。これは結果的に好都合でした。ベテルの場所からなら,両親の具合が非常に悪いときに私の兄夫婦が両親の面倒を見るのを手伝えたからです。何千キロもかなたで宣教者奉仕をしていたなら,それは不可能だったでしょう。

母は,ベテルの私の所に何度か来てくれました。私と離れて暮らすことはつらいことだったのに,母はよくこう言いました。「パスカル,ずっとベテルにいなさいね。そうやってエホバにお仕えしてくれることが,わたしにはうれしいの」。悲しいことですが,両親は二人ともすでに亡くなりました。文字通りのパラダイスに一変した地上で両親に会える日を本当に心待ちにしています。

もし“パラダイス・ナウ”と呼ばれるに値する家があるとしたら,それはベテル ―“神の家”― に違いないと思います。真のパラダイスは,何よりもまず霊的な場所だからであり,ベテルには霊的な雰囲気が満ちているからです。霊の実を培う機会があります。(ガラテア 5:22,23)日々の聖句の討議や「ものみの塔」誌の家族研究などによって霊的食物が豊かに与えられ,それはベテル奉仕を行なう上で私を強めてくれるものとなっています。さらに,霊的な思いを持つ兄弟姉妹がエホバに忠実に幾十年も仕えておられ,そのような方たちと交わることができるので,ベテルは霊的に成長するための比類のない場所となっています。娘と離れ離れになって17年になりますが,ベテルには熱心な若者が大勢おられ,私は彼らを自分の子供のように思い,彼らの霊的な成長を楽しみにしています。これまでの8年間に,私は七つの割り当てをいただきました。そうした変化はいつも容易だったわけではありませんが,こうした訓練には長期的な益があります。

私は以前に,100倍もの収穫をもたらす豆を栽培していました。同様に,悪いものをまけば100倍も悪いものを刈り取ること,それも一度の収穫では終わらないものだということを経験しました。経験によって学ぶことは非常に高くつきます。もう二度と経験によって学んだりせずに,むしろエホバの方法で成長してゆくことを選びたいと思います。クリスチャンの親に育てられた若者は本当に幸せです。疑問の余地のない点ですが,エホバへの奉仕で良いものをまき,100倍の平和と満足を刈り取ることのほうが勝っています。―ガラテア 6:7,8。

開拓者だったころ,私たちが無政府主義者のスローガンを壁に書いた,宗教書を扱うあの本屋の前を何度か通りました。中に入って,生ける神とその目的について店主に話したこともあります。確かに神は生きておられます! その上,唯一まことの神であるエホバは忠実な父親であられます。自分の子供を捨てるようなことは決してなさいません。(啓示 15:4)あらゆる国民から来るさらに大勢の人々が生ける神エホバにお仕えし,その方を賛美することによって今,霊的なパラダイスを見いだし,そして,来たるべき回復されたパラダイスをも見いだしますように。

[脚注]

a ものみの塔聖書冊子協会発行。

[26ページの写真]

創造物に見られる驚異に感動して,神を信じようと心に決めた。(右)今はベテル奉仕を行なっている

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