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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 2006
塔06 6/15 4–7ページ

幸福への信頼できる道しるべ

「幸福の追求」はすべての人の権利である。アメリカ合衆国の「独立宣言」の起草者たちはそう考えました。しかし,目標を追求することと達成することとは別問題です。芸能界やスポーツ界で成功を追い求める若者は大勢いますが,望みどおりそれを手に入れた人がどれほどいるでしょうか。「うまくいかない公算が強い」とある有名歌手は述べました。この人自身,音楽の世界で成功するのがいかに大変か,身をもって経験していました。

幸福を見いだすことについてこの歌手と同じように感じておられるとしても,がっかりしないでください。幸福は,正しい方法で求めるなら見いだせます。なぜそう言えるでしょうか。前の記事で述べたように,エホバは「幸福な神」です。(テモテ第一 1:11)神は,幸福を求める努力が徒労に終わらないように,聖書を通して導きを与えてくださっています。多くの人が直面する,悲しみをもたらす問題に立ち向かえるよう助けてくださるのです。一例として,家族や親しい友人を亡くした人に神がお与えになる慰めについて考えてみましょう。

家族や友人の死

人の死に良い面などあるでしょうか。死は親と子を引き裂き,大切な友を奪い,結びつきの強い近所の人々にショックを与えます。幸福だった家族も,悲しみに打ちひしがれます。

死が悲劇であることは極めて明白です。ところが,そのような現実を否定し,死が祝福であると語る人もいます。例えば,2005年8月にハリケーン・カトリーナがメキシコ湾を襲った後,ある男性の葬式で一人の僧職者はこう語りました。「カトリーナが彼の命を奪ったのではありません。神様が天へお召しになったのです」。また別の時に,病院の一人の職員は母親を亡くした少女に,心配しなくていいのよ,神様がお母さんを天へ召されたのだから,と言いました。それは善意から出た言葉でしたが,少女は,「どうして神様はお母さんを連れて行ってしまったの」と泣きじゃくりました。

死者に対するそのような間違った見方は,多くの場合,遺族にとって何の慰めにもなりません。なぜでしょうか。死に関する真理と相いれないからです。そればかりか,神が残酷な方法で大切な家族や友人を奪い去ったかのような印象を与えます。神が慰めの源ではなく,死という悲劇を引き起こした張本人であるかのように思わせます。しかし,神の言葉は死に関する真理を教えています。

聖書は死を敵と呼び,人類を支配してきた王になぞらえています。(ローマ 5:17。コリント第一 15:26)死は人間がだれも抗し得ない非常に強力な敵であり,亡くなった家族や友人も死の犠牲となった数え切れない人々の一人なのです。聖書のこの真理からすれば,身近な人を亡くした時に深い悲しみや無力感を覚えるのはもっともなこと,ごく自然なことと言えます。それにしても,神は死という敵を用いて人々を天へ連れ去られるのでしょうか。聖書の答えを調べてみましょう。

伝道の書 9章5,10節にはこうあります。「死んだ者には何の意識もな(い)。シェオル,すなわちあなたの行こうとしている場所には,業も企ても知識も知恵もない」。シェオルとは何でしょうか。人が死に際して行く人類共通の墓のことです。死者は墓の中で全く無活動の状態にあり,動くことも,考えることもなく,感覚もありません。それは,あたかも深く眠っているような状態です。a このように聖書は,神がご自分のそばに置くためにわたしたちの家族や友人を天へ召されることはない,という点を明示しています。死んだ人は,墓の中で命のない状態にあるのです。

イエスはこの真理の確かさを,友人のラザロが亡くなった時に示しました。イエスは死を眠りになぞらえました。もしラザロが全能の神と共になるために天へ行ったのであれば,イエスがラザロを地に連れ戻し,いずれまた死ぬような状況に置くのは親切な行為とは言えません。霊感のもとに記された聖書の記述によれば,イエスが埋葬所において大声で,「ラザロよ,さあ,出て来なさい!」と言うと,『死んでいた人が出て来ました』。ラザロは生き返ったのです。イエスはラザロが地上から取り去られたのではないことを知っていました。死んだラザロは墓に横たえられていたのです。―ヨハネ 11:11-14,34,38-44。

聖書に記録されているこの出来事から,死は,神が人間を地から天へ移すために用いる手段ではないということが分かります。わたしたちは悲しみの原因が神にないことを知っており,神に引き寄せられます。また,死という敵がもたらす悲しみや痛手を神はよくご存じであると確信できます。死者の状態に関する聖書の真理は,人が死後に地獄の火や煉獄で苦しめられることはなく墓の中で命のない状態にある,という点も明らかにしています。ですから,亡くなった人について思い出すとき,神をうらんだり未知のものを恐れたりせずにすみます。エホバは聖書を通して別の慰めも与えてくださっています。

希望は幸福をもたらす

これまで考慮した聖書の言葉は希望を与えてくれます。真の幸福に希望は欠かせません。聖書で用いられている「希望」という語には,良いことに対する確信のこもった期待という意味合いがあります。希望が今でもどのように幸福をもたらすかを知るため,ラザロの復活に関する記述をもう一度見てみましょう。

イエスがその奇跡を行なった理由は少なくとも二つあります。一つは,マルタやマリアや友人たちの悲しみを除き去るためでした。彼らは再び,愛する家族また友であるラザロと共に過ごすことができました。しかし,イエスはもっと重要な二つ目の理由を指摘して,「信じるなら神の栄光を見るでしょうと,わたしは言いませんでしたか」とマルタに述べました。(ヨハネ 11:40)J・B・フィリップスの「現代英語による新約聖書」は,「神の栄光」という部分を「神のなし得る驚嘆すべき事柄」と訳出しています。イエスはラザロを生き返らせることにより,エホバ神が行なうことができ,将来,実際に行なわれる事柄の予告編とも言えるものを与えました。では,「神のなし得る驚嘆すべき事柄」についてさらに調べてみましょう。

イエスはヨハネ 5章28節でこう語っています。「このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです」。シェオルにいる死者が,わたしたちの家族や友人を含め,みな生き返ることが分かります。この壮大な見込みについて使徒 24章15節はさらに,「義者と不義者との復活がある」と述べています。ですから将来,「不義者」にも,つまりエホバを知らずエホバに仕えていなかった多くの人にも,神の恵みを得る機会が与えられるでしょう。

この復活はどこで起きるのでしょうか。詩編 37編29節には,「義なる者たちは地を所有し,そこに永久に住むであろう」とあります。それが何を意味するか考えてみてください。死によって引き裂かれた家族や友人がこの地上で再会します。かつて共に過ごした大切な人々と再び会えることを考えると,心は喜びで満たされるでしょう。

エホバはあなたが幸福になることを願っておられる

これまで考えてきたとおり,たとえ問題があっても幸福でいられるよう,エホバは二つの方法で助けてくださいます。第一に,聖書を通して,困難な状況に立ち向かうための知識と導きを与えてくださいます。聖書の助言は,死の悲しみに耐えるうえで助けになりますし,経済的な問題や健康上の問題に取り組むうえでも役立ちます。社会の不公正や不安定な政治情勢のもとでもくじけない強さを得られます。生活の中で聖書の導きに従うなら,他の個人的な問題にも対処できます。

第二に,聖書を学ぶなら,人間社会が提供するどんなものにも勝る希望を抱けます。友人や家族が復活するという約束も,聖書が差し伸べる希望に含まれます。啓示 21章3,4節はさらに詳しくこう述べています。「神みずから[人]と共におられるであろう。また神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」。まもなく,生活の中で悲しみの原因となっている事柄がすべて永久になくなるのです。聖書の約束が実現し,その成就を経験できます。より良い時代が前途にあることを知っているだけでも,安心感が得られます。死後,永久に苦しみに遭うことはないと知っているなら,幸福感を全く失わずにすみます。

一つの例を考えましょう。マリアという女性は,数年前に夫ががんの痛みに苦しみながら亡くなるのをみとりました。まだ悲しみがいえないうちに,経済的に苦しくなり,家を手離して3人の娘と共に出て行かなければなりませんでした。そして2年後,マリアもがんであることが分かりました。大きな手術を二度受け,今でも毎日,強い痛みに耐えなければなりません。こうした問題があってもマリアは非常に前向きな考え方をし,他の人たちを励ましています。どのように幸福感を保っているのでしょうか。

マリアはこう語っています。「問題を抱えているとき,自分のことを考えすぎないようにします。『どうしてわたしが?』とか,『どうしてこんなふうに苦しまなければならないの』,『どうしてわたしが病気にならなければいけなかったの』などと,くよくよ考えないようにします。消極的な考え方をしていると気力を奪われてしまいます。むしろ,エホバに仕えることや他の人を助けることに力を向けるようにします。そうすると幸福でいられます」。

マリアの生活において希望はどのような役割を果たしているでしょうか。マリアは,人類が直面している病気や他のさまざまな問題を将来エホバが取り除いてくださることに,心を向けてきました。治療を受けに病院へ行く時は,気落ちしがちな他のがん患者にその希望を伝えています。マリアにとって希望はどれほど大切なものでしょうか。こう言います。「聖書のヘブライ 6章19節の言葉をよく思い起こします。パウロはそこで希望を魂の錨と呼んでいます。希望という錨がなければ,嵐に翻弄される小船のように流されてしまいます。しかし,その錨につながれていれば,嵐のような問題に遭っても圧倒されずにすみます」。『偽ることのできない神が約束された,永遠の命の希望』があるからこそ,マリアは幸福感を保つことができています。その希望があれば,あなたも幸福感を保てます。―テトス 1:2。

聖書を学ぶなら,たとえ問題があっても真の幸福を見いだせます。とはいえ,聖書を学ぶことが実際にどれほど役立つのだろうか,と思われるかもしれません。真に幸福になるには,色々な疑問の答えを知る必要があります。エホバの証人はその答えを聖書から喜んでご説明いたします。エホバ神の差し伸べておられる希望が実現する時を待つなら,次の言葉をご自身で経験なさるでしょう。「彼らは楽しみと喜びとを得,悲しみと嘆きとは逃げ去る」。―イザヤ 35:10,口語訳,日本聖書協会。

[脚注]

a ブリタニカ百科事典(2003年版[英語])はシェオルについて,「苦しむことも喜ぶことも,罰を受けることも報いを与えられることもない場所」と述べています。

[5ページの図版]

悲しみをいやすのは聖書の真理

[7ページの図版]

復活に関する聖書の希望は幸福をもたらす

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