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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 2013
塔13 4/15 17–21ページ

ライフ・ストーリー

50年にわたる北極地方での全時間奉仕

アイリ・マッティラとアニッキ・マッティラ の語った経験

「あなたが開拓奉仕をするのはそんなに難しくないわ。ご両親も真理のうちにいるし,援助してもらえるでしょ」。わたしたちは全時間奉仕を行なっていた友人にそう言いました。すると次のような答えが返ってきました。「ちょっと待ってよ,わたしたちのお父さんは同じでしょ」。友人の言葉には大切な教訓が含まれていました。天の父は,ご自分の僕たちを顧み,強めてくださるのです。自分たちの経験からしても,それは確かです。

わたしたちはフィンランドの北ポフヤンマー県の農家に生まれました。10人きょうだいです。子ども時代のことは,第二次世界大戦を抜きにしては語れません。家は前線から何百キロも離れていましたが,戦争の恐ろしさを実感しました。近隣の都市オウルとカラヨキが爆撃され,夜空が真っ赤に染まるのを見ました。また両親からは,戦闘機が来るのが分かったらすぐ隠れるように,と言われていました。それで,一番上の兄タウノから,不公正のない地上の楽園について聞いた時,感動しました。

兄は14歳の時に,聖書研究者の出版物から聖書の真理を知りました。第二次大戦が始まると,聖書によって訓練された良心ゆえに兵役を拒否し,投獄されました。刑務所では残忍な扱いを受けましたが,それはエホバにお仕えするという決意を強めただけのようです。釈放されると,宣教奉仕にいよいよ熱心になりました。兄のりっぱな手本に励まされたわたしたちは,近くの村で行なわれていた集会に出席するようになりました。大会にも行きました。でも,そのためのお金を貯めなければなりません。近所の人の服を縫ったり,玉ねぎを作ったり,ベリー摘みをしたりして頑張ったものです。農家にはたくさんの仕事があるため,大会にはたいてい一緒に行けず,交替で行きました。

左から: マティ(父),タウノ,サイミ,マリア・エミリア(母),バイノ(赤ちゃん),アイリ,アニッキ。1935年

エホバとそのお目的に関する真理を学んでエホバへの愛が深まり,神に献身することを決意しました。1947年に共に献身の象徴として水のバプテスマを受けました。(アニッキが15歳,アイリが17歳。)同じ年に姉サイミもバプテスマを受けました。結婚していた姉リンネアとも聖書を研究し,その姉と家族もエホバの証人になりました。わたしたち二人はバプテスマ後,開拓奉仕を目標にし,時折,休暇開拓(補助開拓)奉仕を行ないました。

全時間奉仕を行なう

左から: イーバ・カッリオ,サイミ・マッティラ-シュルヤラ,アイリ,アニッキ,サーラ・ノポネン。1949年

1955年,実家からさらに北のケミという都市に引っ越しました。二人とも全時間の仕事に就いていましたが,開拓者になりたいと思っていました。とは言うものの,自活できないのではないかという不安もあり,少しお金を貯めるのが先決だと思っていました。冒頭の開拓者の姉妹とのやり取りがあったのは,そんな時のことです。姉妹の言葉から,エホバに全時間仕えることは,自分たちの資力や家族からの援助だけにかかっているわけではないことを学びました。一番大切なのは,天の父に依り頼むことなのです。

1952年の地域大会へ行く途中。左から: アニッキ,アイリ,イーバ・カッリオ

当時,2か月間生活するだけの貯金がありました。それで,1957年5月,恐る恐るラップランドのペッロという場所での開拓奉仕を申し込みました。ペッロは北極圏内にあります。2か月が過ぎ,貯金がそっくり残っていたので,もう2か月間申し込みました。その2か月後にも貯金は全額残っており,エホバが世話してくださると確信しました。開拓奉仕を行なって50年たった今も,あのお金は残っています。振り返ってみると,エホバがわたしたちの手を握り,「恐れてはならない。わたし自らあなたを助ける」と言っておられたかのように感じます。―イザ 41:13。

開拓奉仕を行なって50年たった今も,あのお金は残っています

野外奉仕中のカイス・レイッコとアイリ

1958年,巡回監督から,特別開拓者としてラップランドのソダンキュラという町に移動して奉仕するよう勧められました。当時,その地域のエホバの証人は,姉妹一人しかいませんでした。姉妹は興味深い方法で真理を知りました。息子さんが修学旅行でフィンランドの首都ヘルシンキに行き,グループで街を歩いていた時のことです。列の最後尾にいたその子に,ある年配の姉妹が「ものみの塔」誌を手渡し,お母さんに渡してくださいと言ったそうです。その子は母親に雑誌を渡し,母親はすぐに真理の響きを感じ取ったのです。

わたしたちは製材所の2階にある部屋を借り,集会をそこで開きました。最初,出席者は,地元の姉妹と娘さんとわたしたちの4人だけでした。研究資料を読み合いました。後に,エホバの証人と聖書を学んだある男性が製材所で働き始め,家族と共に集会に交わるようになりました。やがて,その人と奥さんがバプテスマを受け,集会はその兄弟が司会するようになりました。製材所で働いていた人の幾人かが集会に出席するようになり,聖書の真理を受け入れました。群れは成長し,数年後に会衆になりました。

苦労した事柄

区域が広大だったので,大変でした。夏場は,徒歩,自転車,ボートで奉仕しました。特に重宝したのは自転車です。大会へ行く時や何百キロも離れた実家に帰省する時にも自転車でした。冬場は,朝早くバスに乗ってある村まで行き,歩いて家から家を訪問し,その村を回り終えると,徒歩で次の村に向かいました。雪は深く,道路も除雪されているとは限りません。馬橇が残した道筋に沿って歩いたものです。でも,雪でそれが見えなくなることもありました。また,春先の雪はとても柔らかくて湿っているため,歩くのに苦労しました。

冬の寒い日

気温は氷点下になり,雪も多いため温かな服装を心がけました。毛糸のストッキングの上からソックスを二,三枚重ねて履き,それからショートブーツを履きます。ブーツの中には雪がたくさん入ってしまうので,家を訪問する時に玄関前の階段でブーツを脱ぎ,中の雪を振り落としたものです。また,雪で長いオーバーの裾が濡れてしまい,気温が下がるとそれがかちかちに凍って,まるで金属の板のようになりました。ある主婦から,「あなたたちの信仰は本物だわ。こんな天気の日にわざわざ出かけてくるのだから」と言われたことがあります。わたしたちは11㌔もの道のりを歩いて,その家を訪問したのです。

地元の家に泊めてもらうこともよくありました。暗くなり始めると,そうした家を探したものです。家は質素でしたが,人々は親しみやすく親切で,寝る場所だけでなく食事も出してくださいました。普通,トナカイやヘラジカや熊の毛皮がベッド代わりになりました。でも時折,少し贅沢を味わうこともありました。例えば,ある邸宅で,2階の客間に通されると,そこには素敵なベッドがあり,真っ白なレースシーツが敷いてあったのです。わたしたちはしばしば家の人と夜遅くまで聖書について話し合いました。ある場所では,家の夫婦が部屋の片側で,わたしたちがもう片方の側で休みました。聖書の話し合いは延々夜明けまで続きました。ご主人と奥さんが代わる代わるたくさんの質問をしてきたためです。

報いの多い宣教奉仕

ラップランドは不毛の地ですが,本当に美しい地で,四季折々の美しさがあります。とはいえ,わたしたちにとってもっと美しいのは,エホバに関心を示した人たちです。そのような誠実な人たちの中には,木材の伐採の仕事でラップランドにやって来た人たちもいます。証言のために,小柄なわたしたちが飯場に入ると,数十人の男性に会うことがあります。筋骨たくましい人たちが喜んで聖書の音信を聞き,出版物を受け取るのです。

わくわくするような経験もたくさんしました。ある日,バス発着所の時計が5分進んでいたため,バスに置いて行かれてしまいました。それで別の村へ行くバスに乗ることにしました。その村では一度も奉仕したことはありませんでしたが,最初の家である若い女性に会い,こう言われました。「わぁー,来てくださったんですね。お待ちしていました」。わたしたちはその女性のお姉さんと聖書を研究していたのですが,女性はその日に訪問してもらいたいとお姉さんに頼んでいたようです。でも,わたしたちにはそれが伝わっていなかったのです。妹さん,そして隣の家に住む親族の人たちと幾つもの研究が始まりました。しばらくして,わたしたちは研究を一つにまとめ,12人ほどの人を教えました。その後,この家族の多くがエホバの証人になりました。

1965年に,クーサモの現在の会衆に割り当てが変更になりました。クーサモは北極圏のすぐ近くに位置しています。当時,会衆の奉仕者はわずかで,区域も少し固いように感じました。人々は非常に信心深く,わたしたちを偏見の目で見ていました。それでも,聖書に敬意を抱く人は少なくありませんでした。これは会話のための共通の土台となりました。少しずつ人々と知り合うよう努力したところ,2年もすると,聖書研究を見つけやすくなりました。

今も活発に奉仕している

わたしたちと研究した幾人かの人たちと

今は野外で長い時間奉仕する体力はありませんが,それでも奉仕にはほぼ毎日出ています。アイリは甥に励まされて運転を習い,1987年に56歳で免許を取りました。それで広大な区域に住む人々に良いたよりを伝えやすくなりました。また,新しい王国会館が建設され,大変有り難いことに,それに付随する宿舎に住めるようになりました。

この国での拡大を見ることができ,大きな喜びを感じています。わたしたちがフィンランド北部で全時間奉仕を始めた時,わずかな奉仕者が広大な地域に散らばっていましたが,現在は幾つもの会衆があって一つの巡回区を形成しています。大会で,よく兄弟や姉妹から自己紹介され,わたしのことを覚えていますか,と聞かれることがあります。子どもだったころに,その家でわたしたちが研究を司会していたようです。幾年,あるいは幾十年も前にまいた種が,実を結んでいたのです。―コリ一 3:6。

雨の日でも野外奉仕を楽しんでいる

2008年,特別開拓者になって50年が過ぎました。この貴重な奉仕を行ない続けるよう,互いに励まし合えたことをエホバに感謝しています。わたしたちの生活は簡素ですが,何かに不足したことは一度もありません。(詩 23:1)最初,開拓奉仕を始めることをためらいましたが,そんな必要などなかったのです。イザヤ 41章10節でエホバはこう約束しています。「わたしはあなたを強くする。わたしはあなたを本当に助ける。わたしはわたしの義の右手であなたを本当にしっかりととらえておく」。うれしいことに,エホバはこれまでずっとその約束どおりわたしたちを強めてくださいました。

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