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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 2014
塔14 10/15 18–22ページ
ミルドレド・オールソン

ライフ・ストーリー

王国奉仕の大切な思い出

ミルドレド・オールソンの語った経験

1947年,エルサルバドルのサンタ・アナのカトリックの司祭たちが,エホバの証人の活動を妨害しようとしました。兄弟たちが宣教者の家で毎週の「ものみの塔」研究を行なっていると,少年たちが,開けてあったドアから大きな石を投げ込みました。次に,司祭たちに率いられた行列がやって来ました。手に手にたいまつや像を持ち,「聖母マリア万歳!」,「エホバは死ぬべし!」と叫びながら,2時間にわたって建物に石を投げつけました。宣教者たちを恐れさせ,町から追い出そうとして,そうしたのです。わたしは67年前のその集会に出席していた宣教者の一人でしたから,その出来事についてはよく知っています。a

その2年前,わたしは宣教者のパートナーとなったエブリン・トレバートと共に,当時ニューヨーク州イサカの近くにあったものみの塔ギレアデ聖書学校の第4期クラスを卒業しました。わたしたちはサンタ・アナに任命されました。では,約29年に及ぶわたしの宣教者奉仕についてお話しする前に,なぜ宣教者になりたいと思ったのか,お話ししましょう。

わたしたち家族はどのように真理を学んだか

わたしは1923年,米国ワシントン州スポーカンで暮らすジョン・オールソンとエバ・オールソンの元に生まれました。両親はルーテル派の信者でしたが,火の燃える地獄は信じていませんでした。愛の神が人々を責め苦に遭わせることなど信じられなかったのです。(ヨハ一 4:8)パン工場で働いていた父は,ある晩,同僚から,聖書は地獄を責め苦の場所であるとは教えていないと聞きました。父と母はすぐにエホバの証人と聖書を学ぶようになり,死後の命について聖書が実際に教えている事柄を知りました。

わたしは当時9歳でしたが,両親が新たに見いだした聖書の真理について熱心に話し合っているのをそばで聞いていたことを,今でも覚えています。父と母は,まことの神のお名前がエホバであることを知り,また不可解な三位一体の教理から解放されると,ますます熱心になりました。『真理が人を自由にする』ことを知ったわたしは,素晴らしい聖書の教えをスポンジのように吸収していきました。(ヨハ 8:32)わたしは聖書の研究を退屈だと感じたことは一度もありません。神の言葉を調べることはいつも楽しみでした。わたしは内気な性格でしたが,両親に付いて伝道に出るようになりました。父と母は1934年にバプテスマを受け,わたしは1939年,16歳の時にバプテスマを受けました。

ミルドレド・オールソンとその両親

ミズーリ州セントルイスで開かれた1941年の大会で。両親と共に

1940年の夏に,両親は自宅を売り払い,わたしたちはアイダホ州カー・ダレーンに引っ越して開拓者になりました。自動車修理工場の2階のアパートに住みましたが,そこは集会所としても使われました。当時,王国会館のある会衆はほとんどなく,個人の家や借りた部屋で集まっていたのです。

1941年,わたしは両親とミズーリ州セントルイスで開かれた大会に出席しました。大会の最終日の「子供たちの日」には,5歳から18歳までの子どもや若者たちがステージ正面の座席に座りました。ジョセフ・F・ラザフォード兄弟は話の最高潮で,こう述べました。「子供たちの皆さん。……神と神によって立てられた王に従うことに同意した人は全員起立してください」。わたしたちが立ち上がると,兄弟は大きな声で,「見てください。1万5,000人以上の王国の新しい証人たちです」と言いました。わたしはこの時,開拓奉仕を生涯の仕事にしようという気持ちを固めました。

家族に与えられた割り当て

セントルイス大会の数か月後,わたしたち家族はカリフォルニア州南部のオックスナードという都市に移動しました。そこに会衆を設立するためです。わたしたちは小さなトレーラーハウスに住みました。ベッドが1つしかなかったので,わたしの“ベッド”は,毎晩テーブルの上に作られました。自分のベッドルームがあったころとは大きな違いです。

わたしたちがカリフォルニアに着く少し前のことですが,1941年12月7日に日本がハワイの真珠湾を攻撃し,その翌日,米国が第二次世界大戦に参戦しました。灯火管制が敷かれ,夜間はすべての照明を消さなければなりませんでした。真っ暗闇になれば,カリフォルニア沿岸を監視していた日本の潜水艦からの砲撃を防ぐことができたからです。

その後,1942年9月に,わたしは両親と共にオハイオ州クリーブランドで開かれた「新しい世神権大会」に出席しました。その大会で,ネイサン・H・ノア兄弟の「平和 ― それは永続するか」という講演を聞きました。兄弟は,啓示 17章の『かつていたが,今はいない,しかし底知れぬ深みからまさに上ろうとしている野獣』について話しました。(啓 17:8,11)ノア兄弟は,「野獣」とは国際連盟であり,戦争中に活動を停止した,と説明しました。そして,これから世界平和機構が再び現われ,以前より平和になる,と述べました。それはまさに1945年に起きました。第二次世界大戦が終結すると,「野獣」は国際連合として再び姿を現わしたのです。その時以来,エホバの証人は宣べ伝える業を世界規模に拡大し,増加に次ぐ増加を経験しています。

ミルドレド・オールソンのギレアデの卒業証書

ギレアデの卒業証書

啓示 17章の預言から前途に控えていた事柄を理解できるようになり,ギレアデ学校が次の年に開校するという発表を聞くと,宣教者になりたいと強く願うようになりました。1943年,わたしはオレゴン州ポートランドに開拓者として割り当てられました。当時は,蓄音機を使って奉仕していました。玄関先で聖書の講話をかけ,家の人に聞いてもらい,その後に神の王国に関して書かれた聖書文書を提供しました。その年は,宣教者奉仕のことが頭を離れませんでした。

1944年に親友のエブリン・トレバートとわたしの元にギレアデの招待状が届き,胸が高鳴りました。5か月の間,聖書の研究の仕方を教えられ,本当に楽しかったです。教訓者たちの謙遜な態度には心を打たれました。例えば,わたしたち生徒が食事をする間,給仕してくださることもありました。1945年1月22日にギレアデを卒業しました。

宣教者奉仕

1946年6月に,エブリンとわたしは,リオ・マーンとエステル・マーンと共にエルサルバドルに着きました。畑は「収穫を待って白く色づいてい」ました。(ヨハ 4:35)記事の冒頭で触れた出来事は,聖職者たちがわたしたちの活動に対してどれほど腹を立てていたかを示しています。実は,その前の週に,サンタ・アナで初めての巡回大会が開かれました。公開講演が広く宣伝されて500人ほどが出席し,わたしたちは大喜びしました。ですから,恐れをなして町から逃げ出すことはありませんでした。それどころか,そこに留まって心の正直な人たちを援助したいという気持ちが強まりました。人々は聖職者から聖書を読まないようにと言われていましたし,個人用の聖書を買い求める余裕のある人もほとんどいませんでしたが,大勢の人が真理に飢え渇いていました。そうした人たちに,エホバや地上を楽園にするという神の約束について教えることができるよう,スペイン語の習得に励みました。そのことは,人々から感謝されました。

ミルドレド・オールソンとギレアデの4人の同期生

エルサルバドルに派遣されたギレアデの同期生5人。左から右へ: エブリン・トレバート,ミリー・ブラッシャー,エステル・マーン,わたし,リオ・マーン

わたしが最初のころに司会した研究生の一人に,ロサ・アスセンシオがいます。ロサは聖書を研究するようになると,同棲していた男性と別れました。すると,その男性も聖書を学ぶようになり,二人は結婚し,バプテスマを受けて,熱心なエホバの証人になりました。ロサは,サンタ・アナで最初の地元の開拓者になりました。b

ロサは小さな食料品店を営んでいましたが,奉仕に出る際には,エホバが必要物を備えてくださると信頼して,店を閉めていきました。数時間後に店を開けると,大勢の買い物客が詰めかけました。ロサは,マタイ 6章33節の言葉の真実さを身をもって経験し,死に至るまで忠実を保ちました。

ある時,わたしたち6人の宣教者に家を貸していた男性が,地元の司祭から脅されました。このままあの人たちに家を貸すなら,お前たち夫婦を教会から破門する,と言われたのです。著名な実業家だったこの男性は,以前から聖職者の行ないにうんざりしていました。それで脅しに屈するどころか,破門されても構わないと司祭に答えました。そしてわたしたちには,好きなだけいてもよいと言ってくれました。

人々から尊敬される市民がエホバの証人になる

サンサルバドルのエホバの証人の支部事務所

1955年に建設された支部事務所

首都のサンサルバドルで,ある宣教者が一人の女性と聖書を研究していました。その女性の夫は,バルタサル・ペルラというエンジニアでした。心根の優しいこの人は,宗教指導者たちの偽善を目にして,神への信仰を失っていました。エルサルバドルに支部事務所を建設することになった時,バルタサルはまだ真理のうちにいませんでしたが,建物の設計と工事を無償で行ないたいと申し出ました。

バルタサルは支部の建設工事が行なわれていた際,たくさんのエホバの証人と働き,真の宗教を見つけたことを確信しました。そして,1955年7月22日にバプテスマを受けました。その後まもなく,妻のパウリナもバプテスマを受けます。二人の子どもたちは,今も忠実にエホバに仕えています。息子のバルタサル2世は,ブルックリン・ベテルで49年,拡大を続ける世界的な宣べ伝える業を支えてきました。現在は,米国支部委員会の成員として奉仕しています。c

サンサルバドルで大会を開くようになると,ペルラ兄弟は大きな屋内競技場が使えるよう取り計らってくれました。当初は座席の一部の区画だけを使用していましたが,エホバの祝福によって出席者は年々増え続け,屋内競技場には収まりきらなくなりました。そのような大会で,以前にわたしと聖書研究をしていた人たちによく会いました。元研究生の研究生がバプテスマを受けたのを知って,本当にうれしくなりました。言ってみればわたしの孫のようなものです。

大会で宣教者たちに話しているF・W・フランズ

大会で宣教者たちに話しているF・W・フランズ兄弟

ある大会でのことです。一人の兄弟が近寄って来て,お詫びをしたい,と言いました。わたしは意味が分からず,その兄弟のことも思い出せませんでした。兄弟は,「わたしは,サンタ・アナで姉妹に石を投げつけた子どもの一人です」と言いました。石を投げつけたその少年が,今はわたしと共にエホバにお仕えしているのです。喜びが込み上げてきました。その兄弟と話して,全時間奉仕は本当に満足のゆく生き方だという思いが深まりました。

エルサルバドルでの巡回大会で。ミルドレド・オールソンと他の出席者たち

エルサルバドルで初めて出席した巡回大会

満足のゆく選択

わたしは宣教者としてエルサルバドルに来てから,最初はサンタ・アナ,次にソンソナテ,そしてサンタ・テクラ,さらにはサンサルバドルと,様々な場所で29年近く奉仕を続けました。しかし1975年,祈りのうちに何度も考え,この割り当てを離れてスポーカンに戻ることにしました。忠実な両親が高齢になり,わたしの援助を必要としていたのです。

1979年に父が亡くなった後も,わたしは母の面倒を見ました。次第に体力がなくなり,一人では何もできなかったからです。母はその後8年生きて,94歳で亡くなりました。わたしも身体的・感情的に疲れ果て,大変な時期でした。帯状疱疹という激痛を伴う病気にもかかりました。しかし,祈りと,エホバの愛情深いみ腕の支えにより,その試練を耐え忍ぶことができました。エホバは,「人の白髪に至るまで……わたしが運び,わたしが負って,逃れさせる」という言葉どおりにしてくださったのです。―イザ 46:4。

1990年にはワシントン州オマックに移動し,そこのスペイン語の畑で奉仕して,再び達成感を得ることができました。バプテスマを受けた研究生も数人います。2007年11月ごろには,オマックの家の管理ができなくなり,同じ州の近くの町シュランにアパートを借りて移り住みました。それ以来,本当にうれしいことですが,シュランのスペイン語会衆がわたしを優しく世話してくださっています。会衆の高齢者はわたし一人なので,皆さん,わたしを血のつながった祖母のように愛してくれます。

わたしは,結婚して家族を持つという道を選びませんでした。「気を散らすことなく」宣教に専念できるようにするためです。でもわたしには,大勢の霊的な子どもたちがいます。(コリ一 7:34,35)この体制では,したいことすべてを行なうのは不可能だと思います。ですから,一番大切なこと,つまり心をこめてエホバに仕えることを生活の中心にしてきました。新しい世になれば,したいことを何でもできる十分な時間があります。わたしの好きな聖句は詩編 145編16節です。そこでは,「すべての生きているものの願いを満た(す)」,とエホバは保証しておられます。

伝道しているミルドレド・オールソン

開拓奉仕は,心の若さを保つ助けになる

91歳になりますが,かなり元気なので,開拓奉仕を続けています。開拓奉仕は,心の若さを保つ助けになりますし,生きる目的を与えてくれます。わたしがエルサルバドルへ行った当初,その国の宣べ伝える業は始まったばかりでした。しかし,今は3万9,000人以上の奉仕者がいます。サタンは反対を続けていますが,この業を阻むことはできません。この国の増加を思うとき,わたしの信仰は本当に強められます。エホバが聖霊によってご自分の民を支えてくださることに,疑問の余地はないのです。

a 「1982 エホバの証人の年鑑」45-46ページを参照。

b 『1982 年鑑』41-43ページを参照。

c 『1982 年鑑』66-67,74ページ。

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