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  • 塔研24 06月号 14–18ページ
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔(研究用)2024
塔研24 06月号 14–18ページ
ベルギー支部のオフィスにいるマルセル・ジレ。

ライフ・ストーリー

エホバは私の祈りを聞いてくださった

マルセル・ジレ

10歳の時,夜空に瞬く星を見上げていると,ひざまずいて祈りたい気持ちになりました。エホバについて学んだばかりでしたが,祈って一番不安なことを打ち明けました。その時から,「祈りを聞く方」エホバ神と共に歩む人生が始まりました。(詩 65:2)神について知ったばかりだったのにどうして祈ったのか,お話ししたいと思います。

人生を変える出会い

1929年12月22日,私はベルギーのアルデンヌ地方にあるノビルという小さな村で生まれました。バストーニュに近い9つの農場がある村です。子供の頃,農場で両親の手伝いをしたのは楽しい思い出です。毎日弟のレイモンと牛の乳搾りをし,収穫作業を手伝いました。私たちの小さな村では,みんなが助け合って暮らしていたので,強い集団意識がありました。

家族と一緒に農場で働いている。

両親のエミールとアリースは熱心なカトリック教徒で,毎週日曜日にはミサに行っていました。1939年ごろ,イギリスから来た開拓者が私たちの村を訪れて,父に「慰め」誌(現在の「目ざめよ!」誌)の定期購読を勧めました。父はすぐにこれは真理だと気付き,聖書を読み始めました。父がミサに行くのをやめると,それまで仲良くしていた近所の人たちから強く反対されるようになりました。教会に残るよう圧力をかけられ,激しい議論になったことが何度もありました。

父がひどく反対されるのを見るのはとてもつらいことでした。それで冒頭でお話ししたように,助けてくださいとエホバに真剣に祈りました。その後,反対が少しずつ収まっていくのを見て,とてもうれしくなりました。エホバは本当に「祈りを聞く方」なんだと感じました。

戦時中の出来事

1940年5月10日,ナチス・ドイツがベルギーに侵攻し,多くの市民が国外に逃げました。私たち家族は南フランスに避難しました。ドイツ軍とフランス軍が戦っている危険な場所を通っていかなければなりませんでした。

農場に戻ってみると,ほとんどの物が略奪されてしまっていました。残って出迎えてくれたのは犬のボビーだけでした。そういうことを経験して,戦争やつらいことが起きるのはどうしてだろうと考えるようになりました。

10代の頃のマルセル。

エホバとの絆が深まった10代の頃。

その頃,忠実な開拓者の長老だったエミール・シュランツ兄弟がよく訪ねてきてくれるようになりました。a 私たち家族にとって,そのことは大きな励みになりました。兄弟は,苦しいことがあるのはどうしてかといった人生に関する疑問に聖書から答えてくれました。エホバとの絆が深まり,エホバが愛の神であることを確信できるようになりました。

戦争は続いていましたが,私たち家族は兄弟たちともっと頻繁に会ったり連絡を取ったりできるようになりました。1943年8月,ジョゼ・ニコラ・ミネ兄弟が農場に来て講演をしてくれました。「バプテスマを受けたい人はいますか」と兄弟が聞くと,父が手を挙げ,私もそうしました。私たちは農場の近くの小さな川でバプテスマを受けました。

1944年12月,ドイツ軍は西部戦線で最後の大規模攻撃を開始しました。それはバルジの戦いとして知られています。私たちは戦闘が行われていた場所の近くに住んでいたので,1カ月ほど地下室に隠れていました。ある日,家畜に餌をあげるために外に出た時,砲弾が飛んできて,家畜小屋の屋根が吹き飛ばされました。近くにいたアメリカ兵が「伏せろ!」と叫びました。それで,その人のそばに走っていって伏せると,自分のヘルメットを私の頭にかぶせて守ってくれました。

エホバとの絆が強まる

結婚式の日。

戦争が終わった後,私たちがいた所から90㌔ほど北にあるリエージュの会衆と定期的に連絡を取れるようになりました。やがて,バストーニュに聖書研究の小さなグループができました。私は税務に関する仕事に就き,法律について学ぶことができました。その後,公証役場で働きました。1951年にはバストーニュで小規模な巡回大会が開かれ,100人ほどが出席しました。そこでエリー・ロイターというとても熱心な開拓者の姉妹と出会いました。エリーは50㌔も離れた所から自転車でやって来ていました。私たちはすぐに引かれ合い,後に婚約しました。エリーは米国で開かれるギレアデ学校の招待を受け取っていました。でも,その招待を辞退したいと思っていることについて,世界本部に手紙を書きました。当時エホバの証人の活動を監督していたノア兄弟は,もしかするといつか夫婦でギレアデ学校に参加できるかもしれない,という温かい内容の返事を送ってくれました。私たちは1953年2月に結婚しました。

エリーと息子のセルジュ。

同じ年に,エリーと私はニューヨークのヤンキー・スタジアムで開かれた「新しい世の社会大会」に出席しました。そこで会った兄弟が良い仕事を紹介してくれて,米国に移住しないかと誘ってくれました。私たちはエホバによく祈り,その話を断ることにしました。そして,ベルギーのバストーニュに戻って,伝道者が10人ほどの小さなグループで奉仕することにしました。翌年,セルジュというかわいい男の子が生まれました。でも,残念ながら7カ月後に病気で亡くなってしまいました。私たちは祈って悲しい気持ちをエホバに伝え,復活の希望によって力づけられました。

全時間奉仕

1961年10月,私は開拓奉仕と両立できるパートタイムの仕事を見つけました。でも同じ日に,ベルギーの支部の僕から電話がかかってきて,巡回の僕(現在の巡回監督)として奉仕できないかと尋ねられました。「その割り当てを受ける前に,まず開拓者として奉仕させていただけませんか」と聞いたところ,そうしてもよいことになりました。8カ月間開拓奉仕をしてから,1962年9月に巡回奉仕を始めました。

巡回奉仕を始めて2年たった頃,ブリュッセルにあるベテルで奉仕するよう招待され,1964年10月にそこでの奉仕を始めました。この新しい割り当てをきっかけに,たくさんの素晴らしい経験ができました。1965年にノア兄弟がベテルを訪問してくれました。私はそれからすぐに支部の僕に任命され,びっくりしました。その後,エリーと私はギレアデ学校の第41期のクラスに招待されました。ノア兄弟が13年前に言った通りになったんです。卒業後,ベルギーのベテルに戻りました。

法的権利を守るために闘う

これまでずっと,法律に関する経験や知識を生かして,ヨーロッパや他の場所で崇拝の自由を擁護するために奉仕してきました。(フィリ 1:7)エホバの証人の活動が制限されたり禁止されたりしていた55を超える国の当局者と関わる機会がありました。私は自分の持つ法律の経験に注意を引くのではなく,自分のことを神に仕える者と紹介するようにしました。聖書には,「王[または裁判官]の心はエホバの手にある水の流れのようだ。神はそれをどこへでも意のままに導く」とあります。(格 21:1)それで,いつもエホバに祈って頼るようにしました。

欧州議会の議員と話した時のことはとても印象に残っています。何度も面会をお願いし,やっと応じてくれました。議員は「5分だけですよ。それ以上は無理です」と言いました。私が下を向いて祈り始めると,その人は私が何をしているのかを気にして尋ねてきました。それで頭を上げてこう言いました。「私は神に感謝していたんです。あなたは神の奉仕者だからです」。どういう意味なのか尋ねられたので,ローマ 13章4節を開いて見せました。その人はプロテスタントの信者だったので,この聖句を見て興味が湧いたようです。その後,30分もいい話し合いをすることができました。そして私たちの活動に敬意を示してくれました。

長年エホバの証人は,ヨーロッパでたくさんの法的な闘いをしてきました。その中には,クリスチャンの中立,親権,税金に関するものがあります。そのような機会に,エホバが物事を導いてくださり,良い結果になるのを直接見ることができたのは,本当に貴重な経験でした。エホバの証人はヨーロッパ人権裁判所で140件以上の勝訴を得てきました。

キューバでより自由に活動できるようになる

1990年代,私は世界本部のフィリップ・ブラムリー兄弟とイタリアのバルテル・ファルネティ兄弟と一緒に働き,活動が制限されていたキューバの兄弟たちがもっと自由にエホバを崇拝できるよう助けました。私はベルギーにあるキューバ大使館に手紙を書き,その後,担当者と面会しました。私たちの活動が制限されるきっかけになった誤解を解こうとしましたが,初めの何度かの会合ではほとんど進展が見られませんでした。

1990年代にキューバに行った時にフィリップ・ブラムリーとバルテル・ファルネティと撮った写真。

エホバに導きを求めて祈った後,キューバに5000冊の聖書を送る許可を申請し,それは承認されました。聖書はキューバに届き,兄弟たちに配布されました。私たちの努力をエホバが後押ししてくださっていることがよく分かりました。それで,さらに2万7500冊の聖書を送る許可を求めたところ,それも承認されました。キューバの兄弟姉妹が自分用の聖書を持てるように助けることができて,本当にうれしかったです。

兄弟姉妹の活動に関する法的な自由をさらに得るため,キューバへ何度も行きました。その中で,多くの政府当局者と良い関係を築くことができました。

ルワンダの兄弟たちをサポートする

1994年,ルワンダで起きたツチ人の大虐殺で100万人以上が命を落としました。残念なことに,犠牲になった兄弟姉妹もいました。人道支援を行うため,すぐに兄弟たちのグループが組織されました。

私たちが首都のキガリに到着して支部事務所や文書集積所に行くと,そこは銃弾で穴だらけになっていました。多くの兄弟姉妹がなたで殺されたという悲惨な出来事についても聞きました。でも,兄弟たちが互いに愛を示し合った様子も聞くことができました。例えば,私たちが会ったツチ人の兄弟は,フツ人のエホバの証人の家族にかくまってもらい,28日間穴の中で過ごしました。私たちは,キガリで開かれた集まりで,900人を超える兄弟姉妹に聖書から慰めとなる話をしました。

1. ぼろぼろになったハードカバーの本。2. マルセルと2人の兄弟。周りには救援物資が積まれている。

左: 翻訳事務所が銃撃を受けた時に破損した本。

右: 救援物資に関連した仕事をしている。

次に,国境を越えてザイール(現在のコンゴ民主共和国)に入り,ゴマ市の近くにある難民キャンプに避難している大勢のルワンダのエホバの証人を探しました。見つけることができなかったので,「ルワンダの兄弟たちに会わせてください」とエホバに祈りました。すると,こちらに向かって歩いてくる男性がいたので,その人に誰かエホバの証人を知らないか尋ねました。その人は「私がそうです」と答え,「救援委員会の所にお連れします」と言ってくれました。私たちは救援委員会の兄弟たちとの会合で励まし合った後,避難している1600人ほどの兄弟姉妹に会い,聖書を使って慰め,力づけました。さらに,統治体から預かった手紙を読みました。「皆さんのことをいつも祈っています。私たちはエホバが皆さんを見捨てないことを確信しています」。統治体のこの言葉を聞いて,兄弟姉妹は深く感動しました。そしてエホバはその通りにしてくださいました。今ではルワンダに3万人を超える兄弟姉妹がいて,楽しく奉仕しています。

ずっとエホバに仕える

2011年のことですが,結婚してからもう少しで58年という時に妻のエリーが亡くなりました。祈って悲しい気持ちをエホバに伝えると,エホバは慰めてくださいました。周りの人に王国の良い知らせを伝えることからも元気をもらっています。

90代になりましたが,毎週宣教に参加することができています。そして,ベルギー支部の法律部門の仕事をサポートし,自分が経験したことを仲間に伝え,ベテル家族の若い兄弟姉妹を元気づけることができて,うれしく思っています。

84年前,初めてエホバに祈りました。それがエホバとの友情を深める素晴らしい人生の始まりでした。これまでずっとエホバが私の祈りを聞いてくださったことに感謝しています。(詩 66:19)b

a エミール・シュランツのライフ・ストーリーは「ものみの塔」1976年7月15日号442-446ページに載せられています。

b マルセル・ジレ兄弟は,この記事の準備中だった2023年2月4日に亡くなりました。

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