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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔(研究用)2025
塔研25 06月号 26–31ページ
フランコ・ダゴスティーニ

ライフ・ストーリー

偉大な教師はこれまでずっと私たちを教えてくださった

フランコ・ダゴスティーニ

兵士たちによる検問,燃えるバリケード,サイクロン,内戦,国外への避難。私と妻は開拓奉仕や宣教者奉仕をしながら,こういう危険な目に何度も遭いました。でもこの生き方をやめようなどと思ったことは一度もありません。これまでの人生,エホバがいつも私たちを支えてくれて,いろいろなうれしい経験をしました。そしてエホバは偉大な教師として,大切なことをたくさん教えてくださいました。(ヨブ 36:22。イザ 30:20)

親の手本

1950年代後半,両親はイタリアからカナダのサスカチワン州にあるキンダースリーという町に引っ越しました。その少し後に聖書の真理を学び,家族で真理に従った生活をするようになりました。私は子供の頃,家族と一緒に何時間も伝道したので,今でも「8歳で補助開拓をしたんだ」と冗談めかして言うことがあります。

子供の頃のフランコが両親ときょうだいたちと一緒に写っている写真。

家族と一緒に。1966年ごろ。

両親は貧しかったですが,ベストを尽くしてエホバに仕えていました。とても良いお手本です。1963年には,持ち物を売ってお金を工面し,アメリカのカリフォルニア州パサデナで開かれた国際大会に出席しました。1972年,私たち家族は1000キロほど離れたカナダのブリティッシュ・コロンビア州のトレールという町に引っ越してイタリア語で奉仕することにしました。父は店の掃除や簡単な修理の仕事をしていました。もっといい給料をもらえる仕事の話もあったそうですが,エホバへの奉仕に打ち込むために断っていました。

親が,私を含め4人の子供たちに残してくれた手本に感謝しています。親の模範はその後エホバから受けたトレーニングのベースとなりました。両親から教わったことで心に深く刻まれているのは,王国を第一にするならエホバは必ず養ってくださるということです。(マタ 6:33)

全時間奉仕を始める

1980年,デビーと結婚しました。デビーはエホバへの奉仕を何よりも大切にする美しい姉妹でした。夫婦で全時間奉仕を始めることを目指しました。デビーは結婚から3カ月後に開拓奉仕を始めました。結婚後1年して私たちは伝道者がもっと必要とされている小さな会衆に移動し,この時に私も開拓奉仕を始めました。

フランコとデビーの結婚式の日の写真。

結婚式の日。1980年。

その後,私たちはがっかりするようなことがあったせいでネガティブな気持ちになってしまい,別の会衆に移りたいと思うようになりました。それで巡回監督に相談してみました。兄弟は優しく,でもはっきりとこう言ってくれました。「今の状況のマイナス面ばかり見ていませんか。プラス面を探してみてください。必ず見つかりますよ」。まさに私たちにぴったりのアドバイスでした。(詩 141:5)すぐにその通りにしてみました。すると,いろいろなプラス面に気付けました。会衆の若い人たちも,夫がクリスチャンではない姉妹たちも,エホバのためにもっと頑張りたいと思っていることが分かったのです。本当にハッとしました。みんなの良いところを探し,物事をエホバが正してくれる時を待つことの大切さも学びました。(ミカ 7:7)私たちはやる気を取り戻し,事態も良い方向に進んでいきました。

私たちが初めて出席した開拓者学校の教訓者は,外国で奉仕したことのある兄弟たちでした。兄弟たちはスライドを見せながら,楽しかったことや大変だったことを話してくれました。話を聞いているうちに私たちも宣教者になりたいという気持ちが強くなり,それを目標にすることにしました。

大雪の後,除雪された王国会館の駐車場。

ブリティッシュ・コロンビア州の王国会館の前で。1983年。

その目標に向けて,1984年にブリティッシュ・コロンビア州から4000㌔以上離れたフランス語圏のケベック州に引っ越しました。新しい文化に慣れ,言語も学ばなければいけませんでした。お金の苦労もありました。畑に残っているジャガイモを集めさせてもらって,空腹をしのいだこともあります。おかげで,デビーはいろいろなジャガイモ料理のレシピを編み出しました。大変なこともありましたが,くよくよせずに楽しく生活するようにしました。そして,いつもエホバが養ってくれているのを感じました。(詩 64:10)

ある日,びっくりするような電話がかかってきました。カナダのベテルで奉仕しないかと尋ねられました。実はすでにギレアデ学校に申し込んでいたので,少し複雑な気持ちになりました。でもベテル奉仕を始めることにしました。ベテルに着いて支部委員のケネス・リトル兄弟にお会いした時,こう尋ねました。「私たちのギレアデの申し込みはどうなるんでしょうか」。すると兄弟はこう言いました。「時が来れば分かりますよ」。

1週間後,その時が来ました。夫婦でギレアデの招待を受けたんです。ベテルかギレアデか選ばなければいけませんでした。リトル兄弟にこう言われました。「どちらの道を選んでも,もう1つの道を選べばよかったと思う時が来るものです。でも片方の道が優れているというわけではありません。どちらの道を進んでも,エホバが一緒にいて支えてくださいます」。私たちはギレアデ学校に出席することにしました。そしてその後も,リトル兄弟が言った通りだと何度も実感しました。2つの道のどちらを選ぶかで悩んでいる兄弟姉妹にリトル兄弟の言葉をよく教えてあげています。

宣教者の生活

(左)ユリシーズ・グラス

(右)ジャック・レッドフォード

ギレアデ第83期は1987年4月,ニューヨーク市ブルックリンで始まりました。生徒は全部で24人で,メインの教訓者はユリシーズ・グラス兄弟とジャック・レッドフォード兄弟でした。5カ月間があっという間に過ぎ,1987年9月6日に卒業式を迎えました。私たちは,ジョン・グード,マリー・グードと一緒にハイチに行くことになりました。

ハイチの海岸で奉仕中のフランコとデビー。

ハイチで。1988年。

ハイチでは1962年に宣教者たちが国外追放され,それ以来ギレアデ卒業生は派遣されていませんでした。私たちは卒業式から3週間後,ハイチの山奥にある伝道者35人の小さな会衆で宣教者奉仕を始めました。若くて経験が浅かった上に,自分たちだけで宣教者ホームで生活しないといけませんでした。その辺りの人たちは貧しい暮らしをしていて,読み書きができない人がほとんどでした。私たちが内戦,クーデター,燃えるバリケード,サイクロンなど危険な目に遭ったのはその頃のことです。

明るくて心の強いハイチの兄弟姉妹からたくさんのことを学びました。みんな大変な生活をしていましたが,エホバと宣教を愛していました。読み書きができない1人の年配の姉妹は,150の聖句をそらで言うことができました。地元の人の生活を見ているうちに,神の王国だけが人類の問題を解決できるという気持ちが強くなり,伝道したいという意欲が高まりました。最初の頃に私たちが教えたレッスン生たちが,正規開拓者,特別開拓者,長老になるのを見て本当にうれしかったです。

ハイチにいる時,若いモルモン教の宣教師トレバーに会い,何度か聖書について話し合うことができました。何年もたってトレバーから手紙が届き,驚きました。こう書いてありました。「次の巡回大会でバプテスマを受けます。できればハイチに戻って,以前モルモン教の宣教師として働いていた場所で特別開拓奉仕をしたいと思っています」。トレバーはその夢がかない,奥さんと一緒にハイチで長年特別開拓奉仕を続けました。

ヨーロッパへ,そしてアフリカへ

机で仕事をしているフランコ。

スロベニアで。1994年。

その頃,ヨーロッパでは自由に伝道できるようになった幾つかの地域がありました。私たちは1992年にスロベニアのリュブリャナで奉仕することになりました。そこは両親がイタリアに移り住む前に住んでいた場所の近くです。1992年当時,そこはユーゴスラビアと呼ばれていて,まだ紛争が続いていました。それまでその地域の伝道活動を管轄していたのはオーストリアのウィーン支部とクロアチアのザグレブの事務所,セルビアのベオグラードの事務所でした。でも今度は共和国ごとにベテルが置かれることになりました。

私たちはまたもや新しい言語と文化を学ばなければいけませんでした。スロベニアの人たちは「イェジク イェ テジェク」とよく言います。つまり「私たちの言語は難しい」ということです。確かに難しかったです。兄弟姉妹は何かの指示に変更や調整が加えられた時も,すぐに従いました。その姿勢に感銘を受けましたし,兄弟姉妹をエホバが喜んでいることがはっきり分かりました。私たちはエホバがいつも愛情深く物事を正し,一番良い時にそうしてくださるということを再び感じました。スロベニアで過ごした数年間で,それまでに学んでいたことの価値を改めて実感しましたし,新しいこともたくさん学びました。

その後も変化は続きました。2000年に西アフリカのコートジボワールで奉仕することになりましたが,2002年11月には内戦のため,シエラレオネに避難しなければいけませんでした。シエラレオネでは11年続いた内戦が終わったばかりでした。急なことで,コートジボワールを離れるのはつらかったです。それでも,これまでに学んできたことを思い出してエホバに喜んで仕え続けることができました。

シエラレオネには良い知らせを聞きたいと思っている人がたくさんいました。また内戦の中でも長年立派に頑張ってきた兄弟姉妹もいました。貧しい暮らしをしていましたが,持っている物を何でも分け合いたいという気持ちがありました。ある姉妹がデビーのところに服を持ってきて,受け取ってほしいと言いました。デビーがためらっていると,姉妹はこう言いました。「戦争中,ほかの国の兄弟姉妹に助けてもらったので,今度は私たちが助ける番です」。こういう優しい仲間にぜひ見習いたいと思いました。

やがてコートジボワールに戻ることができましたが,政情不安のためにまたしても暴動が起き,逃げなければいけませんでした。2004年11月にヘリコプターで避難しました。持ち出せたのは1人10キロの荷物だけでした。途中,フランス軍の基地の床で一晩を過ごし,翌日スイスに向かいました。スイス支部に到着したのは真夜中でしたが,支部委員と宣教訓練学校の教訓者,そして奥さんたちが出迎えてくれました。みんながハグしてくれて温かい食事とスイス名物のチョコレートでもてなしてくれました。本当にほっとしました。

フランコがコートジボワールの王国会館で話をしている。

コートジボワールで,避難してきた兄弟姉妹に話をしている。2005年。

私たちは一時的にガーナで奉仕し,その後,内戦が沈静化していたコートジボワールに戻りました。避難したり戻ったりの連続で落ち着かない生活が続きましたが,兄弟姉妹たちの温かな愛情が大きな力になりました。エホバに仕える人たちが愛し合うのはごく自然なことですが,それを当然と思ってはいけないと感じました。波乱に満ちたこの時期も,私たちにとってはエホバからの貴重なトレーニングとなりました。

中東へ

フランコとデビーが中東の遺跡で撮った写真。

中東で。2007年。

2006年に世界本部から手紙を受け取り,中東に行くようにと指示されました。またしても新天地で言語や文化を学ぶことになります。宗教色が強く政治的な緊張が続いている場所でいろいろなことを学びました。会衆で話されている言語はさまざまでしたが,エホバから来る指示に従ってみんなが一つになっているのを見るのはとてもうれしいことでした。兄弟姉妹が家族や学校の友達,職場の同僚,近所の人たちから反対されても動じずにエホバに仕え続けているのを見て,本当に素晴らしいと思いました。

2012年にはイスラエルのテルアビブで開かれた特別大会に出席しました。エホバに仕える人たちがこれほどたくさんその地域に集まったのは,西暦33年のペンテコステ以来のことです。まさに歴史的な大会でした。

その頃,私たちの活動が制限されている国を訪問する機会がありました。エホバの証人の出版物を届け,伝道に参加し,規模は小さいものの大会にも出席しました。町のあちこちに検問所があり,武装した民兵たちが立っていました。でもどこかに行く時は,何人かの兄弟姉妹が一緒にいてくれたので安心でした。

再びアフリカへ

フランコがノートパソコンに入力している。

コンゴ民主共和国で話の準備をしている。2014年。

2013年,私たちはまた大きな変化を経験しました。コンゴ民主共和国のキンシャサにある支部で奉仕することになりました。コンゴは自然豊かな広大な国ですが,貧困に苦しみ,紛争が繰り返されてきました。最初,私たちは「アフリカのことなら分かっている,大丈夫だ」と考えていました。でも実は知らないことがたくさんありました。インフラが整備されていない地域を通った時に,それを特に痛感しました。とはいえ,良いこともたくさんありました。例えば,立派な兄弟姉妹と出会えたことです。みんな貧しい中でも辛抱強く,喜んでエホバに仕えていました。伝道を心から愛し,集会や大会に頑張って出席していました。エホバのおかげで,この国の人たちが次々に聖書を学び,成長していく様子をじかに見ました。コンゴでの日々は忘れられない思い出になっています。家族のような友達が大勢できたのもうれしいことです。

伝道しているフランコ。兄弟姉妹と一緒に歩いてある村に向かっている。

南アフリカでの伝道。2023年。

2017年の終わりごろ,また新しい奉仕をすることになりました。今度は南アフリカです。こんなに大きな支部で働くのは初めてでしたし,やったことのない仕事を任されました。この時も学ぶべきことはたくさんありましたが,これまでの奉仕で学んだことが役に立ちました。私たちは,長年エホバに心を込めて仕えてきた兄弟姉妹に囲まれて過ごしています。人種や文化もさまざまなベテル家族が一致協力して働いているのは本当に素晴らしいことです。新しい人格を身に着け,聖書の教えの通りにしようと頑張っています。エホバがそういう努力を喜んで後押ししてくれているからこそ,和やかな雰囲気があるんだと思います。

デビーと私は何年もいろいろな奉仕を楽しんできました。新たな文化に順応し,言語を学びました。苦労もありましたが,責任ある兄弟たちや仲間を通して,どんな時も変わらないエホバの愛を感じてきました。(詩 144:2)これまでの全時間奉仕を通して,エホバは私たちがますます使いやすいクリスチャンになれるようトレーニングしてくれました。

私には宝物のような大切な存在がたくさんいます。エホバについて教えてくれた両親,いつもそばで支えてくれている妻のデビー,良いお手本になってくれている世界中の友人たちなどです。これからも,偉大な教師エホバから学び続けたいと思っています。

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