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2000 エホバの証人の年鑑
鑑00 6–30ページ

過ぐる1年の際立った事柄

エホバの証人が年ごとに開く大会は,1年で最も際立った出来事の一つです。1999年半ばに始まった一連の地域大会は,「神の預言の言葉」という主題を中心としたものでした。プログラムは,毎日聖書を読むことの価値を際立たせ,ヤコブとエサウに関する記述を取り上げた劇を通してそのことを強調しました。ダニエル書の預言のあらましを述べる話や,ハバクク書について詳しく論じる話もありました。プログラムは古い体制の終わりが近いことをはっきり示しました。現在行なわれている証言活動についての話に加え,「すべてのものを新しくする」というエホバの心温まる約束に伴う胸の躍るような見込みに聴衆の思いを向けました。―啓 21:5。

大会の出席者たちは,47の言語で出版された,「ダニエルの預言に注意を払いなさい」と題する新しい本を受け取って喜びました。韓国では,韓国語版の「新世界訳聖書」を受け取ることができ,喜びが増し加わりました。そうです,抑えがたいほどの感動がありました。

驚くべきことに,ユーゴスラビアでは戦争が何か月も猛威を振るっていたのに,セルビア語の「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」を発表することができました。緊密な国際協力の結果,隣接する国々でもクロアチア語とマケドニア語のクリスチャン・ギリシャ語聖書が発表されました。これらの出版物を受け取って,人々は喜びの涙を流しました。

ユーゴスラビアには喜ぶべき特別な理由がありました。3月中,同国は戦争に備えていました。ベオグラードが空爆されれば,電話回線が当てにならなくなり,ベオグラードの翻訳者からドイツの印刷施設へ原稿を送ることが難しくなります。3月23日火曜日に空爆の開始が確実になったので,ベオグラードでこの大会の発表文書を準備していた兄弟たちは徹夜で作業をすることにしました。必要な電子ファイルは翌朝までに送られました。その数時間後に爆撃が始まりました。防空壕に入らざるを得なくなったとはいえ,翻訳チームは幸福でした。

その4か月後に,印刷された聖書がベオグラードの大会でたいへんな興奮のうちに発表された時,翻訳チームの喜びは頂点に達しました。すべての人が自分用の聖書を手に入れると,会場はあっと言う間に空っぽになりました。兄弟たちはその聖書を読むために宿舎に戻っていったのです。兄弟たちはこれに勝る贈り物はないことを確信していました。周囲の世では,民族や宗教の違いが殺人や激しい憎悪の原因となっているからです。

次の週末,インドネシアでは一連の八つの大会の最初のものが開催されました。東洋の主要な国の一つであるこの国も,宗教や政治に関係した内紛が暴力行為を引き起こし,そのための災いを被ってきました。ジャカルタの大会には,国内の各地から1万5,666人が出席しました。初めてのこととして,大会会場内でバプテスマが施されました。大きなテレビスクリーンを通して聴衆が見守る中,430人がバプテスマを受けたことは,大きな感動を呼びました。しかし,興奮が最高潮に達したのは,インドネシア語版の「新世界訳」全巻がすでに印刷され,できればまもなく配布できるようにしたい,との発表があったときでした。

神の命の道を追い求める

言うまでもなく,1999奉仕年度は1998年9月に始まりました。この奉仕年度の最初の月々も「神の命の道」国際大会は続いていました。米国やヨーロッパではすでに多くの大会が開催されていましたが,9月から1月にかけて,アフリカ,アジア,オーストラリア,中南米でさらに13の国際大会が開かれました。

1999奉仕年度の大会の最初のものが,1998年9月18日から20日までブラジルのサンパウロで開催されました。この大会は,さらにリオデジャネイロの巨大なマラカナン競技場を含む16か所でも,同時に開かれました。15か国から何千人もの代表者たちがやって来ました。54人の宣教者もそこに含まれており,そのうち23人はモザンビークで奉仕するためにブラジルを後にした人たちでした。日曜日に神の道は最善の生き方であることを宣言する決議が提出された時,これら17か所に集まった何と51万6,333人もの人々は,割れんばかりの声で「スィン!」(「はい」)と答え,その決議を採択しました。

同じ週末に,韓国のソウルにあるオリンピック・スタジアムは6万3,886人の代表者たちで埋め尽くされました。大会に先立つ数日間,空港では色とりどりの民族衣装を着た姉妹たちなど,何百人もの韓国のエホバの証人たちが外国からの代表者たち3,046人を出迎えました。最後の話が終わり,外国からの代表者たちがバスに向かった時,非常に大勢の大会出席者たちが,愛の廊下とも言えるものを作りました。韓国の証人たちはそこを通ってゆく代表者たちに,「楽園で会いましょう!」,「わたしたちは皆さんを愛しています!」と大声で語りかけました。多くの人の目には喜びの涙があふれました。

ソウルの代表者たちの涙が乾かないうちに,ハリケーン・ジョージがプエルトリコを襲いました。次の国際大会はプエルトリコでその週の金曜日に始まることになっていました。本当に開催できるでしょうか。嵐に見舞われたため,全島で何週間か停電することが予想されました。水の供給は断たれ,サンフアン空港は閉鎖され,海外からの何百人もの代表者たちが泊まることになっていた地元の兄弟たちの家も被害に遭いました。災害のせいで,予定されていた四つの大会会場のうちわずか1か所,ヒラム・ビソーン・スタジアムしか使えなくなっていました。しかし,驚いたことに,どの問題も次々に解決されました。その大会の出席者は最高で1万5,065人に達しました。

その1か月余り後,10月30日から11月1日にかけて,オーストラリアの3か所(ブリスベーン,メルボルン,シドニー)で国際大会が開かれました。統治体のジョン・バー,ミルトン・ヘンシェル,ロイド・バリー,セオドア・ジャラズがこれらの大会に出席しました。バリー兄弟とジャラズ兄弟はオーストラリアで奉仕したことがあります。オーストラリアから派遣された熱心な宣教者たちも大勢出席しました。

1998年の終わりごろ,さらに幾つかの国際大会がアフリカで開かれました。12月,ケニアのナイロビのモイ国際スポーツセンターには2万4,502人が集まりましたが,16か国から来た兄弟たちはその中に数えられたことを歓びました。

その翌週は,南アフリカの4か所(ケープタウン,ダーバン,ヨハネスブルク,プレトリア)で国際大会が開催され,合計8万3,858人が出席し,1,626人がバプテスマを受けました。国際大会に続いて,18の地域大会が次々に開催されました。出席者の合計は5万3,901人で,さらに1,065人がバプテスマを受けました。このとき,ツォンガ語の「新世界訳」全巻が発表されました。これらの大会出席者すべての間に見られた愛と一致は,彼らがイエスの次の言葉どおりの人たちであることの明確な証明となりました。「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」。―ヨハ 13:35。

12月最後の同じ週末に,西アフリカのコートジボワールのアビジャンでも大会が開催されました。プログラムはフランス語,英語,トウィ語で提供されました。同国の伝道者は約6,000人で,国外から来た人も500人ほどでしたが,出席者数は何と1万6,009人に達しました。それほど多くの人が神の命の道について学びたいと思ったのです。

最後に,世界中で開かれた一連の32の国際大会の締めくくりとして,1万9,000人を上回るコスタリカの伝道者たちは,1999年の最初の三日間に3万4,431人が集まったのを見て喜びました。空港には地元の証人たちが4,000人ほど集まって,42の国際便で到着する代表者たちを出迎えました。証人たちは通路の脇にずらりと並び,到着した代表者たちを拍手と「ビエンベニードス・エルマノス!」(「ようこそ,兄弟たち!」)というあいさつで迎えました。空港の売店で働いていたある男性は兄弟たちの示した愛に心を動かされ,家庭聖書研究をしてほしいと申し出ました。

一連の国際大会は,代表者たちの間で示される愛を目にした,エホバの証人ではない多くの人々によい影響を及ぼしました。また,エホバの証人の間の国際的な絆を強めました。それは,エホバが「すべての国民と部族と民と国語の中から……大群衆」― エホバとみ子イエス・キリストに救いを求める人々 ― を実際に集めておられ,彼らを保護し,ご自分の義の宿る新しい世に導き入れようとしておられることの目に見える証拠なのです。―啓 7:9,10。

「行ないと真実とをもって」愛する

エホバの証人が示し合う愛は,王国会館での笑顔や握手にとどまりません。他の国から大会に出席した代表者たちをもてなす以上のことを意味しています。エホバの証人は聖書を研究する者として,ヨハネ第一 3章17,18節にこう記されていることを知っています。「だれであろうと,生活を支えるこの世の資力があるのに,自分の兄弟が窮乏しているのを見ながら,その兄弟に向かって優しい同情の扉を閉じるなら,その人にはどのようにして神の愛がとどまっているでしょうか。子供らよ,……行ないと真実とをもって愛そうではありませんか」。昨年は,暴風雨,干ばつ,内戦などのせいで,上記の聖句にあるように生活が窮乏したエホバの証人が少なくありませんでした。国際的な兄弟関係にある証人たちはどのような反応を示したでしょうか。

1998年9月,メキシコのチアパス州が洪水に見舞われました。その数週間後,ハリケーン・ジョージがセントキッツ島,ネビス島,プエルトリコ,ドミニカ共和国,ハイチを通過して猛威を振るい,その後に米国南部を襲いました。その1か月ほど後には,ハリケーン・ミッチが風速約80㍍でホンジュラスを襲い,ニカラグアの一部の地域を水浸しにし,エルサルバドルとグアテマラをずたずたにし,メキシコに入ってその勢力はようやく衰えました。50の王国会館と二つの大会ホールに加え,エホバの証人の家も1,800軒以上が全壊したり大きな被害を受けたりしました。作物はだめになりました。人々の所有物も台なしになりました。場所によっては,その地域のすべての会衆が避難しなければなりませんでした。

食物,水,衣料品,薬などが大いに必要とされていました。嵐を免れた地域に住む証人たちは直ちにこたえ応じました。ある地域の証人たちは,被害状況について聞くやいなや,クリスチャンの兄弟たちを助けるため,食料や衣類やお金を持って,支部事務所にやって来ました。被災地に救援物資を運ぶのに車やトラックを利用できないところでは,カヌーや自転車や背負子を使いました。地元の長老たちは,兄弟たちの家の屋根を修復する仕事を一生懸命手伝いました。エホバの証人である医師たちも医師としての奉仕に携わりました。

エホバの証人の統治体は,近隣の国々が金銭的な援助をし,緊急に必要な食料,衣類,建設資材などを提供するにあたり,その調整を図りました。輸送は飛行機や船やトラックをチャーターして行なわれました。被災地の兄弟姉妹は世界中の兄弟が示してくれた愛に対して,心からの感謝を幾度となく述べました。

地区建設委員会は,王国会館建設の援助を本来の目的としていますが,今回は家の後片付けや修理を手伝うために動員されました。米国からそれぞれ約30人の自発奉仕者たちで成る7グループが自費でセントキッツ島とネビス島に赴き,1週間滞在して現地の仲間の証人たちの家を修理しました。ほかにも,600人の自発奉仕者たちがプエルトリコに飛び,そこでの修理や再建の仕事を手伝いました。ガラテア 6章10節にある聖書の指針と一致して,彼らはおもに霊的な兄弟姉妹を助けることに力を注ぎましたが,学校の屋根や,助けてくれる子どものいない近所の年配の人たちの家も修理しました。ドミニカ共和国では,地元の証人たちがある病院の周辺をきれいに片付けました。

プエルトリコでは,ある姉妹と未信者の夫が暮らしている家を建て直すのを手伝うために,兄弟たちがヤブコーアという山間の町まで出かけてゆきました。その姉妹は,クリスチャンの兄弟たちが必ず助けに来てくれると言っていたので,近所の人たちからばかにされていました。ですから,兄弟たちが到着したときは,飛び上がらんばかりに喜びました。何時間もたたないうちに,通りの向こう側には200人ほどの見物人が集まりました。そして,兄弟たちが働くのを一日中見ていました。玄関の扉を取り付け終えると,兄弟たちはその姉妹に花束と建て直した家のかぎを贈りました。家に灯がともると,近所の人たちから拍手喝采が起こりました。通りにいた大勢の人はそれまではエホバの証人を避けていましたが,その日にそうした事柄を見たため,今では王国の音信に進んで耳を傾けるようになりました。

一方,ヨーロッパのウクライナ西部では11月に大洪水が発生し,南米のコロンビアでは1月に地震がありました。いずれも災害となりましたが,エホバの民によって同様の愛ある助けが差し伸べられました。

1999年中,アンゴラの内戦が再び激化したため,170万人を超える人たちが難民になりました。兄弟たちは,他の大勢の人たちと同じように難民となった仲間の証人たちが生活必需品を確保できるよう,懸命に働いてきました。イタリア,ポルトガル,南アフリカなどの支部から34㌧もの食料や衣類が送られ,家や故郷の町々を後にしなければならなかった人たちに配られました。こうした物資の一部は,何か月も爆撃が続いている交戦地帯に持ち込むことさえできました。

新しい奉仕年度が始まった時,コンゴ(キンシャサ)支部から統治体に連絡があり,同支部は内戦の結果として,20万人余りの人々を援助するために救援物資を必要としていることが分かりました。直ちに,英国,ベルギー,フランス,スイス,南アフリカの各支部が食料を発送したり,アフリカの他の国でさらに物資を購入するための資金を調達したりする取り決めが設けられました。ヨーロッパのエホバの証人たちから75㌧を上回る人道主義的な援助物資が集まり,空輸されました。

しかし,コンゴの戦闘は終わったわけではありませんでした。新たな危機が発生しました。1999年2月7日,ニューヨークにある世界本部のベテル家族に対し,コンゴ民主共和国での状況に関する次のような発表がありました。「内戦が原因で,同国東部の3万人の伝道者たちは救援物資に頼って生活しています。戦争のため,キンシャサの支部事務所はこれらの兄弟たちと連絡を取ることができません。しかし,統治体はベルギーが救援物資を空輸することを承認しました。第1便は今週中に送られ,2月20日に第2次救援計画が始まります。第2次救援計画では医療チームも派遣されます」。ヨーロッパの兄弟たちは,東コンゴのエホバの証人たちから成る,正式に任命された11人の救援委員たちと協力して働きました。

難民の中には近隣諸国に逃れた人もいます。何千人もの人々が隣国のザンビアに逃れました。そこでは救援機関が数々の援助を行なっていましたが,証人たちはさらに毛布,衣類,調理器具,農具などを補充しました。ある年配の兄弟は毛布を1枚受け取って,気を失いました。それまで1度も自分用に新しい毛布をもらったことがなかったのです。一人の巡回監督はザンビアに向かっていた時に,体の不自由な兄弟が木の下にいるのを見つけました。巡回監督はその兄弟を自分の自転車に乗せて押しました。険しい登り坂になると,その兄弟は自転車を降り,タイヤの切れ端を両ひざと両手にくくりつけ,坂の上まで両手足を使って進むよう努力しました。やがて,二人はザンビアのカプータに無事到着しました。ザンビア支部は会衆の集会で使用するためのスワヒリ語の文書を全員に供給しました。4月には,こうした難民が2,000人余り集まった集会で,支部事務所の兄弟たちが愛ある霊的な励ましを与えました。そして,難民たちは大人も子どもも,そのほとんどが賛美の歌の本を持っていなかったにもかかわらず,「エホバ,逃れさせてくださる方」,「エホバはわたしの避け所」,「エホバよ,わたしたちは感謝します」,「楽園<パラダイス>に関する神の約束」などの歌を,心を込めて歌いました。

熱心に良いたよりを宣べ伝える

しかし,さらに特筆すべきなのは,エホバの証人が神の王国の良いたよりを宣明することによって示している愛です。証人たちは,イエス・キリストから与えられた指示に従い,良いたよりをできるだけすべての人に伝えようと努力しています。(マル 13:10)証人たちは惜しみなく自分を与え,自分の資産を用いて,その業を行なっています。昨年,この活動に参加した人の最高数は591万2,492人で,この宣教に11億4,456万6,849時間を費やしました。多くの証人たちは正規開拓者や補助開拓者として奉仕するために自分の事情を調整しました。

それらの開拓者たちはさまざまな背景を持っています。幾千人もの若者たちが,世俗の教育を終えてから開拓奉仕を始めたり,在学中に開拓奉仕ができるよう授業のスケジュールを調整したりしました。主婦や,家族を養うために働いている男性もいます。セントルシア島でクリスチャンの長老として仕えるある家族の頭は,『目を純一に保つ』よう注意しているため,開拓奉仕を行なうことができます。(マタ 6:19-22)兄弟は最近,高収入で将来性のある仕事の話を持ちかけられましたが,それを断わりました。世俗の仕事に費やす時間が増え,クリスチャンの集会を支持できず,6か月間家族から離れ,開拓奉仕を断念することになるからです。兄弟は,家族を養うための努力をエホバが引き続き祝福してくださることを確信しつつ,王国を第一に求めることを選びました。

アンティグアに住む95歳のあるエホバの証人は年に一,二度,補助開拓奉仕を楽しんできました。そうしなかった年を思い出すことはできません。姉妹は,そのような努力を払い続ける理由をこう説明しています。「エホバは私に特別な力とエネルギーを与えてくださっています。補助開拓はエホバへの愛を表わす機会だと思います」。

デンマークに住む60代半ばのある姉妹は,補助開拓を行なうことにしました。なぜでしょうか。姉妹はこう説明しています。「聖書通読をしていて意欲がわいてきたように思います。……例えば,テレビから悪い影響を受けることがあるように,エホバの言葉を毎日読むなら,良い影響を受けることができると私は確信しています。それで強い動機を得ることができたのです」。

あらゆる場所の人々が,身体的な必要を十分に顧みることが難しくなっていると感じているため,統治体は1999年1月に,正規開拓者の要求時間に関する調整(毎月90時間から70時間に変更)と,補助開拓者の要求時間に関する調整(毎月60時間から50時間に変更)を加えました。この調整は大きな祝福となりました。すでに開拓奉仕を行なっていた大勢の人々がその奉仕にとどまることができ,さらに幾千人もの人々が開拓者の名簿に載せられたのです。多くの人にとってこの調整は,「主が親切な方である」ことを示す新たな証拠となりました。―ペテ一 2:3。

調整が加えられた後の数か月間に,オーストラリア支部では,開拓奉仕の名簿に載せられる人の数が400%以上増加しました。コロンビアでは300%近い増加がありました。ウクライナでは,開拓者の数は毎月増加し,報告によると昨年に比べて42%増えました。ミクロネシアでは,それぞれの会衆に,平均して一人以上の開拓者が加わった計算になります。リベリアでは,ほとんどの兄弟たちが日々わずかな物々交換に頼ってその日暮らしの生活を送っていますが,要求時間の調整の後,8か月連続で正規開拓者の最高数を記録しました。

補助開拓者の隊伍も膨れ上がりました。オーストリアでは,1999年の最初の3か月間に,昨年に比べて56%の増加が見られました。同じ期間中に,マレーシアでは補助開拓者が103%増加したと報告されています。デンマークでは,その年の最初の6か月間に91%の増加がありました。韓国では,活動を増やしやすい1月に,57%の人たちが何らかの形で開拓奉仕に携わりました。

一方,「開拓者は他の人たちを援助する」というプログラムは,引き続き成果を上げています。アラスカのアンカレジにあるフィリピン人の会衆に交わっている姉妹は,「私は真理のうちに11年間いますが,野外奉仕は単なる形式的なものになっていました。何の目的もなく行なっていたからです」と述べています。しかし,地元の開拓者と一定の期間共に働いた結果,野外奉仕は以前より意味深いものとなりました。この姉妹は業の緊急性を認識しました。人々に対する関心も強まり,幾つかの家庭聖書研究を始めることができました。南アフリカでは,一人の開拓者の姉妹が別の伝道者を援助し,家の人がインターホンで答えるのを待つだけでなく,通りがかりの人にも話すことにより,深い満足感が得られるようにしました。二人はまた,宣教におけるさまざまな目標についても一緒に座って考えました。6か月のプログラムが終了するころには,この伝道者は正規開拓者になっていました。この姉妹は自分を援助してくれた姉妹と共に,これまで以上に宣教の喜びを味わっています。

印刷された,聖書の真理

モーセの時代以降,エホバは書き記されたものを通して霊的な教えを与えてこられました。それらは常に口頭の教えによって強化されてきましたが,印刷物は良いたよりを広めるうえで重要な役割を果たしてきました。これまでに,聖書および聖書の解説書は大量に出版されてきました。昨年だけでも,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌が10億2,670万6,628冊印刷されました。さらにエホバの証人は,書籍を4,157万9,805冊,ブロシュアーと小冊子を7,122万1,759冊,さらにはパンフレットを数多く生産しました。それらの出版活動は332の言語で行なわれています。

この出版活動によって多くの地域の人々が益を受けています。サンゴ礁で成るツバルの人口はわずか9,403人です。しかし,その国の言語でも「ものみの塔」誌が発行されており,今では45人がエホバを崇拝しています。中央アフリカ共和国は工業の盛んな世界から遠く離れているにもかかわらず,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌は,アラビア語,英語,フランス語,リンガラ語,サンゴ語,アザンデ語で広く配布されています。その国には2,305人の証人たちがおり,昨年の記念式には,その5倍を優に超える人々が出席しました。内戦によって引き裂かれ,多くの人々が貧困に苦しむアンゴラでは,昨年,エホバの証人の二つの巡回区と,それらの巡回区から霊的な援助を受けている大勢の人々のために,アンブンドゥ語の「ものみの塔」誌が毎月1回発行されるようになりました。ウクライナでは昨年2,600万冊余りの雑誌が配布されました。ある男性は,真の神を20年間探し続けた後,1冊の「目ざめよ!」誌を読んで,真理を見いだしたと確信しました。ウクライナの10万7,045人の伝道者たちは,昨年さらに1万2,320人がバプテスマを受けるのを見て喜びました。

コロンビアでは,「亡くなった家族の者にはどんな希望がありますか」というパンフレットが,困窮していたある女性の手に渡りました。この女性はそれまで宗教に関心がありませんでしたが,息子を地震で亡くしたため,その主題に興味をそそられました。それがきっかけで家庭聖書研究が始まりました。リトアニアでは,ある証人が一人の女性に「神は本当にわたしたちのことを気遣っておられますか」のブロシュアーを手渡しました。神だけが与えることのできる助けを切に必要としていたその女性は,家庭聖書研究にこたえ応じ,献身とバプテスマまで急速に進歩しました。そうです,出版物は多くの人々に感謝されており,良いたよりを知らせるための貴重な道具となっているのです。

エホバに教えられる

エホバは多くの異なった方法を用いて常にご自分の僕たちを教え,かつ現在行なわれている業のために僕たちをふさわしく整え,将来の活動に備えさせておられます。(イザ 54:13)それに加えて,230余りの国や地域に住む人々に,エホバのすばらしい教育プログラムから益を得るようにとの個人的な招待が差し伸べられています。「永遠の命のために正しく整えられた」幾百万もの人々がそれにこたえ応じ,昨年,毎月平均して443万3,884件の無料の家庭聖書研究が行なわれました。(使徒 13:48)聖書が本当に理解できるように説明されるのを見て,それらの人々はどれほど大きな祝福を受けたことでしょう。

エホバがご自分の組織を通して与える教えには,さまざまな種類の特別な訓練も含まれます。今年も,正規開拓者として最初の1年を終えた大勢の人たちは,開拓奉仕学校から益を得ました。また,昨奉仕年度中,40の支部が宣教訓練学校を開きました。南北アメリカ,アジア,ヨーロッパ,アフリカ,海洋の島々など合計89の国や地域から資格ある兄弟たちが出席し,2,174人がこの特別な教育を受けました。43の国の支部委員たちは,2か月間におよぶ特別な訓練のプログラムのために,ニューヨーク州パタソンにある,ものみの塔教育センターに集められました。ギレアデ学校に出席した生徒たちは,5か月間におよぶ包括的な聖書研究を楽しみ,神の言葉を宣べ伝え,かつ教える者として,31の異なる国や地域での割り当てを受けました。

さらに,ものみの塔教育センターでは,旅行する監督のための新しい学校が始まりました。最初のクラスの成員は48名で,8週間にわたる授業が5月に始まりました。出席したのは米国やカナダの巡回監督や地域監督でした。訓練は,教室での授業,および奉仕部門での活動の二つに分けられました。旅行する監督の仕事のあらゆる分野に注意が向けられたので,兄弟たちが奉仕する会衆や巡回区の幾万もの兄弟姉妹たちに大きな益がもたらされることでしょう。旅行する監督と一緒に来た妻たちはパタソン滞在中,ベテルの仕事の割り当てを果たしたり,周辺の会衆と野外奉仕を行なったりしました。姉妹たちは毎週,学校の講義にも参加して,兄弟たち共々,大きな益を受けることができました。

「それは……証しの機会となるのです」

イエスはご自分の追随者が,「王や総督たちの前に引き出される」と予告しました。この20世紀にそうしたことが世界中で頻繁に起きてきたということは,わたしたちが終わりの日に住んでいるというより確かな証拠となります。しかし,そのようなことはなぜ起きるのでしょうか。エホバの証人が法律に違反するからではありません。そうではなく,証人たちは『イエス・キリストの名のゆえに』,すなわちキリストが天の王であることを認め,イエスのように「世のものではない」ことを示すのでそのような扱いを受けるのです。イエスはまた,それが「証しの機会となる」とも予告しました。(ルカ 21:12,13。マタ 24:9。ヨハ 17:16)昨奉仕年度中,そのことは確かに真実となりました。妨害されずに崇拝を行なう自分たちの権利を擁護するため真剣な努力を払った結果,多くの国々で政府当局者に良い証言がなされたのです。

1998年,ヨーロッパ人権裁判所はブルガリアのエホバの証人に関係した訴訟事件を審理しました。いったい何があったのでしょうか。ブルガリア政府は,エホバの証人および他の20ほどの宗教グループから法的認可を取り上げたのです。ブルガリアの最高裁判所への上訴は,とりわけエホバの証人がキリスト教世界の三位一体や他の非聖書的な教理を信じないという理由で退けられました。その後,逮捕事件が起き,崇拝のための集会が解散させられ,宗教文書が押収されました。ヨーロッパ人権裁判所はブルガリアに対し,エホバの証人と友好的な方法で事を解決するようにと勧告しました。その結果,1998年10月,ブルガリアはエホバの証人に再び法的認可を与えました。こうして,ギレアデ第106期生の4人の宣教者をブルガリアに遣わすことが可能になりました。それらの宣教者はブルガリアの人々に王国の良いたよりを宣べ伝える面で地元の伝道者を援助しています。

フランスのエホバの証人にかかわる法的な問題も,結果として広範な証しとなりました。証人たちは公に中傷されてきました。反カルト団体は証人たちについて批判的な報道をあおってきました。1996年の議会報告書によればエホバの証人は『危険なカルト』として類別されており,1999年1月には政府が証人たちの受け取ったすべての寄付に対して60%の税金を課しました。そのような扱いは,これまで他のどの宗教も受けたことがありません。これに対し,エホバの証人は1999年1月29日から3日間にわたってキャンペーンを繰り広げ,「フランスの皆さん,事実を知ってください」と題するパンフレットを1,200万部配布しました。

キャンペーンの初日,この活動の趣旨を説明する記者会見が行なわれました。昼ごろまでに,テレビ局やラジオ局は情報を生中継で送っていました。60を超える全国紙や地方紙や雑誌は,「エホバはフランスを証人喚問」とか,「エホバの証人たちによる『真実』作戦」などの見出しを掲げて,この活動について報じました。

初日には,何万人もの伝道者が駅の構外,工場,オフィス,商店,市場,その他の場所でパンフレットを配布しました。パンフレットを断わった人はほとんどいませんでした。

ある兄弟は刑務所の近くで宣べ伝えていたところ,そこに看守が近づいてきました。パンフレットを提供すると,その看守は,「これじゃ足りないよ。あの中にはたくさんの人がいるからね」と言いました。別の例では,老人ホームに帰るバスの中で,パンフレットを受け取れなかったことを残念がっていた年配の人たちがいました。そこでバスの運転手は,パンフレットを欲しい人は手を挙げてくださいと言い,エホバの証人を見かけた場所に立ち寄って,必要な数のパンフレットをもらいました。

一方,グルノーブル市の市場では,パンフレットを受け取ったある女性がそれをくれた証人に罵声を浴びせました。兄弟は平静を保ちました。しかし,騒ぐ声を聞きつけた市場の人や買い物客は,「エホバ,万歳!」と突然叫び声を上げたのです。これを聞いて,反対者は去って行きました。

全体的な成果はどうだったでしょうか。フランス全土の会衆はこの活動によって活気づきました。不活発になっていた何百人もの人々がこの特別なキャンペーンに参加せずにはいられないと感じました。フランス各地の伝道者たちは,自分たちの信仰をこのような仕方で弁明する機会を持てたことに対して,深い満足を言い表わしました。支部が一般の人々から受けた電話や手紙は何千を数えました。不寛容な態度を示した人もいますが,多くの人々は賛意を表わしました。その週末の間,多数の人々から訪問依頼が寄せられ,多くの家庭聖書研究が始まりました。

さて,政府によって課せられた税金はどうなっているのでしょうか。この処置に対する人々の反響は大きく,政府高官たちはエホバの証人に関する法律上の膨大な証拠書類を突きつけられました。なんとすばらしい証言でしょう。税金のことは現在上訴中ですが,必要とあらばヨーロッパ人権裁判所で最終的に争われるでしょう。

米国ニュージャージー州のオラデル地区では,良いたよりの伝道がこれまで何年もの間妨害されてきました。同地区は,エホバの証人がまず許可証を取得し,それと分かるバッジを着用しなければ,公の宣教を行なうことができないという立場を取りました。それらの要求の違憲性を区長や区議会に得心させようと繰り返し努力が払われましたが,成功しませんでした。ついに,地元の法律に異議を申し立てるため,ニュージャージー州管轄区の米国連邦地方裁判所に訴訟が起こされました。公の宣教に携わるエホバの証人の権利を擁護すべくそのような行動が起こされたのは,米国で50年ぶりのことでした。裁判所に提出した訴状の中で,わたしたちの活動の性質とその聖書的な根拠が説明されたのはふさわしいことでした。それによって良い証言が行なわれたからです。

連邦地方裁判所の裁判官は,1999年3月8日,エホバの証人の法律部門の代表者とオラデル地区の代表者とに会い,地区側に法律を変えるようにと命じました。3月16日,区議会と区長はその会合で,宗教組織は許可証やバッジに関する要求から免除されるという決議案を承認しました。こうして良いたよりは再び,違憲の法律に束縛されることなくオラデルで宣べ伝えられています。

裁判で,または議会の開会中や聴聞会などでエホバのみ名とそのみ名の民について語られるときはいつでも,王国の音信をあまり聞くことのない「高い地位にある」人々に証言がなされています。(テモ一 2:1)しかし,証言する機会がもっと直接的で広範囲に及ぶ場合もあります。そのことはロシアで生じました。

1998年9月から1999年3月にかけて,ロシアのモスクワの狭苦しい法廷では,エホバの証人のモスクワでの宗教活動を禁止するため断固たる努力が払われました。しかし法廷はエホバの証人を沈黙させるどころか,強力な証しが行なわれるためのユニークな舞台となりました。

モスクワ検察局と,後にそれに加わったモスクワ司法部は,ロシア正教会と結びつきのある反セクト組織と協力して,エホバの証人のモスクワ会衆を事実無根の罪で訴え,一掃しようとしました。民事事件を扱う裁判所は通常,宗教上の教えや信条を法廷で取り調べるのを妥当なこととはみなしません。しかし,今回の訴えにはエホバの証人の信条や活動が関係していたので,それらが裁判の争点となりました。

検察官は法廷で,エホバの証人の文書は宗教上の敵意をあおっていると論じました。どのようにでしょうか。自分たちが真の宗教を持っていると教えることによってです。それに対し,エホバの証人の一人でもある被告側の弁護士は,裁判官と検察官に聖書を渡し,エフェソス 4章5節の,「主は一つ,信仰は一つ,バプテスマは一つです」という言葉を読みました。ロシア人のその兄弟は聖句から弁明を続け,『世から離れている』必要性を述べた,ヤコブ 1章27節,ヨハネ 17章16節,啓示 18章1節から4節などの聖句を引照して,検察官の訴えに含まれていた他の非難にも反駁しました。それに対し検察官は,大いなるバビロンについて述べた最後の聖句は,他の人の宗教に当てはめて用いられるなら,その宗教を侮辱することになると反論しました。しかし,哲学教授で大学講師でもある人が後に述べているように,「専門家たちはエホバの証人をその教えのゆえに非難するが,自分たちが実際には聖書を非難していることに気づいていない」のです。

裁判では,検察側の訴えに含まれていたエホバの証人の出版物が裁判官の前で読まれる機会がありました。今回は引用部分の前後も読まれたので,エホバの証人の信条が正しく伝わり,悪行に対する当然の非難とされる根拠はどこにもないことが明らかになりました。検察官の主張に反駁する少なくとも五つの科学的研究がロシアの一流専門家によって提出されました。また,信教の自由を尊重することを求めた国際裁判所の判決や条約にも注意が向けられました。

もしイエスが検察官の法的措置の根拠となった1997年のロシアの法律の下にいたとしたら,どのような待遇を受けていたでしょうか。エホバの証人の一人でもある被告側のカナダ人弁護士がこの点を裁判の中で扱いました。彼は裁判官に的確にもこう述べました。『イエスが当時の宗教指導者たちを非難なさったことは事実です。イエスはそれらの人々に対し,「あなた方は,あなた方の父,悪魔からの者である」というヨハネ 8章44,45節の言葉を語られました。また,マタイ 15章2節から9節に示されているように,神の言葉と相いれない伝統を非難なさいました。マタイ 10章34節から37節で述べられている言葉によって,イエスは家族を打ち壊そうとしておられたのでしょうか。いいえ,そうではありません。イエスは単に,人の反応の仕方によって生じる必然の結果について述べておられたのです。また,ルカ 18章15,16節には,イエスが幼い子どもたちをご自分のもとに呼び寄せたことが述べられています。イエスはそのとき十代や未成年の子どもを誘惑していたのでしょうか。また,宗教上の反対者たちがイエスの伝道を止めさせようとしたのはなぜでしたか。ヨハネ 11章47,48節によれば,それは多くの人々がイエスに従っており,ユダヤ人の僧職者は自分たちの成員を失っていると感じたからです。今日でも似たような状況が見られるのではないでしょうか』。ですからイエスがモスクワで宣べ伝えていたとしたら,今回の裁判でエホバの証人に加えられた非難はイエスにも加えられたに違いありません。しかし,間違っていたのはだれでしたか。それは明らかに訴えを起こしていた人々でした。イエスは『罪を犯さなかった』からです。―ペテ一 2:22。

エホバの証人の教えに関する検察側の質問に答えて,ロシア人の弁護士の兄弟は,聖書のダニエル 2章44,45節とテモテ第二 3章1節から5節までを読みました。その日の午後,3世の証人が証言台に立ちました。彼のライフ・ストーリーはエホバの証人が何十年も前からロシアにいたことを証しするものでした。その証言もエホバの証人がシベリアで流刑にされていた間に耐え忍んだ苦しみ,そしてソビエト政権の禁令のもとで他の弾圧を耐え忍んだ年月のことを思い出させました。―「目ざめよ!」誌,1999年4月22日号,20-25ページをご覧ください。

被告側の3人目の弁護士もエホバの証人の代理を務めました。彼女はエホバの証人ではありませんが,公平な人で,人権問題の弁護に経験のある人です。聖書を開き,さまざまな節を裁判官に示すことさえしました。啓示 14章1節,16章16節,20章6節,そして詩編 37編9,10節に注意を向けてから,検察側の宗教“専門家”にエホバの証人のどこが間違っているかを示すよう要求しました。検察側はそうすることができませんでした。

うれしいことに,ロシアの法務省は1999年4月29日,エホバの証人を宗教組織として再登録しました。しかし,これによってモスクワでの裁判が取り下げられたわけでも,裁判所の裁定がエホバの証人に有利に働いたわけでもありません。むしろ事実審裁判所は,裁判官によって任命された“専門家”委員会がエホバの証人の文書の詳しい調査結果を出すのを待っています。どんな結論が出されようとも,「それは……証しの機会となる」ということをわたしたちは確信できます。―マタ 10:18。

法廷で政府当局者に証言がなされたことに加え,裁判に関するニュースは新聞やテレビを通してロシア全土に伝えられました。ロシアのエホバの証人も,報道機関や一般の人々が裁判に関する情報を毎日入手できるようにしました。また,検察側によって誤り伝えられていたものみの塔出版物からの引用が全文で提供され,証人たちの歴史的な背景がさらに詳しく伝えられました。少なくとも有名な国際通信社7社が裁判中のいろいろな時にその代表者を出席させました。また,他の国々の大使館や人権擁護団体は,訴訟に対して深い関心を示しました。3月11日,欧州議会は,信教の自由を保障し,ロシア政府も加わっている国際協定にふさわしく行動することをロシア政府の各層の役人に求める決議案を承認しました。さらにその翌月,ヨーロッパ審議会の総会の11人の成員が,モスクワでの訴訟事件の成り行きに対する懸念を表明した文書に署名しました。

そうしている間も,モスクワとロシア全土の兄弟たちは,自分たちが王国の音信に反対する人々の「憎しみの的」であることを十分に承知しています。サンクトペテルブルクのある会衆では,集会中に毒ガス弾が投げ込まれました。反対者が野外奉仕に携わっていた年配の姉妹を武器で襲ったこともありました。また,賃貸契約の取り消しで,モスクワの2,000人の証人たちが集会場所を奪われ,他の場所を探すことを余儀なくされています。そして8月,エホバの証人は,大会を中止させようとする人々の努力にもかかわらず,モスクワで大会を開きました。しかし土曜日の午後,爆弾の脅迫があったためスタジアムを空けなければなりませんでした。それでも,その大会で600人がバプテスマを受け,日曜日には1万5,100人以上の人々が残りのプログラムを聞くために戻ってきました。

世界中のエホバの証人が宣教を果たす際に経験する多くの異なった圧力を考えると,「良いたよりを擁護して法的に確立する」点での現在の必要について話し合うため,責任ある兄弟たちが1999年4月に会合を持ったことはふさわしいことでした。―フィリ 1:7。

エホバの証人は,聖書が述べるように,「エホバの僕たち」を攻めるために形造られるどんな武器も功を奏さないということを固く信じています。(イザ 54:17)そして,エレミヤ 1章19節には次のような約束があります。「彼らは必ずあなたと戦うことになるが,あなたに打ち勝つことはない。『わたしがあなたと共にいて,あなたを救い出すからである』と,エホバはお告げになる」。

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英語版の「ダニエルの預言に注意を払いなさい」の本を発表するダニエル・シドリック

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韓国語版の「新世界訳」を発表する朴鍾一<パク ジョンイル>

[12,13ページの写真]

ケニアのナイロビ ― 32の国際大会の一つ

[14ページの写真]

左上:アフリカに送るためにベルギーで積み込まれる救援物資。下:教えを受け,エホバへの心からの賛美を歌うコンゴの難民

[20,21ページの写真]

世界本部から発送される文書の準備

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