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  • 鑑14 170–175ページ
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  • 百年前の年 ― 1914
  • 2014 エホバの証人の年鑑
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2014 エホバの証人の年鑑
鑑14 170–175ページ
170ページの図版

百年前の年 ― 1914

「我々は,1914年という年に,真理のための奉仕の可能性が,これまでのどの刈り入れの年よりも大きいことを示す証拠を見るものと信じている」。これは,「ものみの塔」1914年1月1日号に載せられた言葉です。長年待ち望んでいた年がついに訪れ,聖書研究者たちはとりわけ熱心に宣教を行ないました。その結果,何百万もの人たちが聖書の約束について聞きました。一方,世界は全く違う方向に力を傾けていました。

暴力が増していた世界

1914年の初め,米国の労働ストライキ史の中でも極めて残虐な事件が生じ,男女子どもの命が奪われました。事件の前,ストライキを起こしていた炭鉱労働者とその家族が,社宅から追い出され,テント村での生活を余儀なくされました。4月20日,コロラド州ラドローの近くのテント村が銃撃され,テントが焼き払われます。その一帯の激高した労働者たちは報復のために立ち上がり,会社の警備員を多数殺害します。事態収拾のため軍が派遣されました。

ヨーロッパでは状況はさらに深刻でした。6月28日,ボスニア出身のセルビア人で19歳のガブリロ・プリンツィプがオーストリアのフランツ・フェルディナント大公を射殺します。それが火種となり第一次世界大戦が勃発しました。当時は大戦と呼ばれたその戦争は,年の終わりまでにヨーロッパ中に広がりました。

大会で伝道活動が強調される

世界が混迷を深める中,聖書研究者たちは励まし合って伝道活動を勤勉に行ないました。4月10日から,南アフリカで初めて大会が開かれました。出席者の最高数は34人でした。ウィリアム・W・ジョンストンはこう述べています。「私たちはまさに,とても“小さな群れ”でした。大会[出席者]のおよそ半分に浸礼を施しました。姉妹8人と兄弟8人が,主のお命じになった仕方で,聖別の象徴としてバプテスマを受けました」。大会の最終日,集った人たちは南アフリカで伝道活動をどのように推し進めるとよいかを話し合いました。この“小さな群れ”の働きは実を結び,現在,南アフリカには9万人を超える忠実な奉仕者がいます。

1914年6月28日,フェルディナント大公が撃たれたまさにその日に,聖書研究者たちは米国アイオワ州クリントンで大会を開いていました。6月30日,大会でA・H・マクミランはこう述べました。「報いを受けることを望んでいる私たちは,神のご意志を活発に行ない続けます。世に対する収穫の音信を携えて,可能な限りいかなる時も奉仕に出かけるのです」。

何百万もの人を引き寄せた「写真劇」

「創造の写真劇」は,ガラス製カラースライドと映画に,録音された聖書講話と音楽を組み合わせたもので,1914年1月11日にニューヨーク市で初公開されました。初回の上映は5,000人が視聴し,満員で入れなかった人も大勢いました。

「創造の写真劇」の準備には2年を要し,「1月の初上映には辛うじて間に合った」と「ものみの塔」誌は述べています。1914年の前半に,兄弟たちは「写真劇」に幾つかの改良を加えました。例えば,導入部として,チャールズ・テイズ・ラッセルによる語りと映像が追加されました。制作者を明示するためです。

「写真劇」は最高80都市で同時に上映されました。1914年7月には,英国でも公開されるようになり,グラスゴーやロンドンの会場に大勢の人が詰めかけました。9月には,デンマーク,フィンランド,ドイツ,スウェーデン,スイスで,10月には,オーストラリア,ニュージーランドでも上映されました。最初の年だけで,合計900万以上の人が見たのです。

「写真劇」の各セットは何百ものガラス製スライド,たくさんの映画フィルム,多くのレコードから成っていました。各セットの作成費用は高額で,上映には経験を積んだ兄弟姉妹のチームが必要でした。そのため,完全版の「写真劇」はおもに大都市で用いられ,地方向けに「写真劇」の短縮版が3種類作成されました。1つ目は「ユリーカ劇 Y」で,録音された聖書講話と音楽,ガラス製カラースライドを含んだものです。2つ目は「ユリーカ劇 X」,3つ目は最も短くてスライドも映画もなく音声のみの「ユリーカ家族劇」です。米国で,1914年の終わりまでに,公開後4か月足らずで7万人以上がいずれかの「ユリーカ劇」を視聴しました。

コルポーターと奉仕者が伝道活動を行なう

「写真劇」の活動は新しくて興奮を誘うものでしたが,聖書研究者たちは伝道活動の他の方法を最優先すべきであることを認めました。すべての聖書文書頒布者<コルポーター>(現在の開拓者)に宛てた手紙で,チャールズ・テイズ・ラッセルはこう述べています。「今の収穫の時に,この立場で行なう奉仕以上に大きな実を結ぶものはないことを私たちは知っています。そのため,コルポーターの皆さんは写真劇の活動に加わらないほうがよいでしょう。……同じく主に忠節である他の兄弟姉妹が劇の活動で奉仕できます」。

173ページの図版

1914年1月,コルポーターの数は850人でした。その年,それら熱心な福音宣明者たちは「聖書研究」の本を70万冊以上配布しました。「ものみの塔」誌はコルポーターに「温かな関心」を示し,「励ましの言葉をかける」よう読者に勧めました。「彼らの奉仕はいつも順風満帆というわけではない」からです。

他の聖書研究者たちは幾つもの言語のパンフレットを配布しました。1914年の間に,「聖書研究者月刊」などのパンフレットを4,700万部以上も配布したのです。

聖書研究者の活動は人々の目に留まりました。伝道は公に行なわれ,集会は無料でした。キリスト教世界のある聖職者はこう嘆きました。「やがて寄付を集めることが犯罪とみなされる時が来るだろう。そうしたら我々はどうなるのか。パスター・ラッセルのせいで我々の評判は落ちている」。

異邦人の時が終わる

聖書研究者はルカ 21章24節(「ジェームズ王欽定訳」[英語])に出てくる「異邦人の時」が1914年10月1日ごろに終わると信じていました。10月が近づくにつれ,期待が高まりました。中には,カウントダウン・カードを使って残りの日を数えた人たちもいました。その日に,垂れ幕の向こう側に,つまり天に召されると多くの人が考えていたのです。

1914年10月2日,ラッセル兄弟はベテルの食堂に入り,ベテル家族にこう発表しました。「異邦人の時は終わりました。その王たちの日は過ぎ去ったのです」。その時,「千年期黎明の賛美歌」の本の171番を思い浮かべた人もいたでしょう。1879年以来,聖書研究者は「異邦人の時は終わらんとす」と歌っていました。しかし,異邦人の時つまり「諸国民の定められた時」はすでに終わったため,その言葉は適切ではなくなりました。(ルカ 21:24)やがて,歌の本にその重要な変更が加えられました。

175ページの図版

最後まで忠実を保つ決意のもと,「汝,死に至るまで忠実なれ」と記されたカウントダウン・カードを使う人たちがいた

1914年の終わりまでに,メシア王国は天に堅く立てられていました。聖書研究者の中には自分たちの活動は完了したと考える人もいました。まもなく,試みとふるい分けの時期が来るとは思ってもいませんでした。1915年の年句は,「ジェームズ王欽定訳」のマタイ 20章22節に基づく,「汝は我が杯を飲み得るか」です。その「杯」には,イエスが死に至るまでに直面した試練が含まれていました。聖書研究者は,内部からも外部からも試みを受けようとしていました。その試練にどう反応するかによって,エホバへの忠節が明らかになろうとしていたのです。

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