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  • ガラテア 2:16
    新世界訳聖書
    • 16 人が正しいと認められるのは律法に従った行いによるのではなく,イエス・キリスト+への信仰+による,ということを知っています。それで,私たちはキリスト・イエスに信仰を持ちました。律法に従った行いによってではなく,キリストへの信仰によって正しいと認めていただくためです。誰も,律法に従った行いによって正しいと認められることはありません+。

  • ガラテア 2:16
    新世界訳聖書 ― 参照資料付き
    • 16 人が義と宣せられる*+のは律法の業によるのではなく,ただキリスト・イエスに対する信仰を通して+であることを知っているので,このわたしたちでさえキリスト・イエスに信仰を置き,こうして,律法の業によってではなく,キリストに対する信仰によって義と宣していただけるようにしたのです+。律法の業によっては,肉なる者はだれも義と宣せられないからです+。

  • ガラテア
    ものみの塔出版物索引 1986-2025
    • 2:16 塔89 11/15 5

  • ガラテア
    ものみの塔出版物索引 1951-1985
    • 2:16 塔78 9/1 26; 目62 11/8 7

  • ガラテア
    エホバの証人のためのリサーチガイド 2019年版
    • 2:16

      「ものみの塔」

      1989/11/15,5ページ

  • ガラテア 注釈 2章
    新世界訳聖書 (スタディー版)
    • 2:16

      正しいと認められる: ギリシャ語聖書で,動詞ディカイオオーと,関連する名詞ディカイオーマやディカイオーシスは,伝統的に「義とする(こと)」と訳されていて,基本的には,ある人が嫌疑を一掃されて罪がないと見なされ,それゆえに,正しいと宣言されてそのように扱われる,という考えを含んでいる。(ロマ 3:24の注釈を参照。)ガラテアの諸会衆には,モーセの律法に従った行いによって自分なりの正しさを証明しようとしていたユダヤ主義者の影響を受けていた人たちがいた。(ガラ 5:4。ガラ 1:6の注釈を参照。)しかしパウロは,神から正しいと見なされるのはイエス・キリストへの信仰によることを強調した。イエスが犠牲にした完全な命は,神がキリストに信仰を抱く人を正しいと認める基盤となった。(ロマ 3:19-24; 10:3,4。ガラ 3:10-12,24)

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