脚注
「主」。ギ語,ホ キュリオス。この節に関する注解の中で,F・J・A・ホートは,「聖ペテロの第一の書簡」(ロンドン,1898年),104ページの中でこう書いている。「詩編 [34:8]の中で,ὁ κύριοςは,多くの場合に見られるとおり,エホバを表わしているが,七十人訳は,何ら明白な原則に基づかずに,κύριοςの前の冠詞を入れたり省いたりしている。他方,次の節は,聖ペテロが,ὁ κύριοςを,新約において普遍的ではないまでも,最も一般的な,キリストの意味で用いていることを示している。しかし,彼はエホバとキリストが同じであることを意味していたのだと結論するのは性急であろう。その両者をはっきり同一視するような見方は新約の中になされていない。聖ペテロはここで正式の引用をしているのではなく,単に旧約の言い回しを借用し,それを自分の方法で当てはめているのである。彼の用い方は,詩編の用い方と異なってはいても,それと矛盾するものではない。み子のχρηστότης[クレーストテース,『親切さ』]を通してみ父のχρηστότηςがクリスチャンに明らかにされているからである:『わたしを見た者は父を見たのである』」。付録6ヘ参照。