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トルコの法廷はエホバの証人の信教の自由を擁護する目ざめよ! 1981 | 9月8日
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トルコの法廷はエホバの証人の信教の自由を擁護する
トルコにおけるエホバの証人の歴史を特色付けてきたのはほぼ20年に及ぶ法廷闘争でした。しかし,1980年3月24日に,最高上訴裁判所が43名のエホバの証人に無罪を言い渡し,それも終わりを告げました。どのような罪状で訴えられていたのでしょうか。国家の“世俗的”つまり“非宗教的”秩序の転覆を謀るというものでした。
トルコは民主的な憲法を制定しており,すべての市民に信教の自由を認めています。政教の分離も行なわれています。憲法の第1条で“世俗主義”つまり“非宗教主義”の原則が明文化されており,宗教の支配や影響を一切排除した政治体制を堅持することがうたわれています。これは犯すべからざる“アタチュルクの原則”とみなされています。アタチュルクはトルコ共和国の創設者で,国教であったイスラム教を1928年に非国教化しました。しかし,エホバの証人がこの法律を犯しているとして訴えられたのはどうしてですか。
端的に言うなら,偽り伝えられたためです。エホバの証人が国事に一切関与せず,政治問題すべてに厳正中立の立場を取っていることは周知の事実です。それにもかかわらず,トルコで神の王国の樹立をもくろんでいるという偽りの告発を受けたのです。
そうした告発に基づき,警察が行動を起こしました。エホバの証人は逮捕され,家宅捜索を受け,個人の家庭で平和裏に開かれていた集会は中断させられ,文書が押収されました。検察官はエホバの証人を裁判所に訴えました。しかし,裁判ではいずれも無罪の判決が言い渡されました。1972年までに,エホバの証人はすでに16の裁判で勝訴していたのです。
しかし,偽りの告発がその後も続き,新たな罪状が加えられることさえありました。例えば,エホバの証人は“シオニスト”であるとの訴えがなされ,証人たちの宗教的立場が問題にされました。新聞は折りにふれて批判的な記事を載せました。逮捕や裁判のことは大きな見出しの下に大々的に報じられましたが,無罪の判決のことが報じられるのはごくまれで,掲載されたとしてもほんの数行で片付けられていました。
1973年に,イスラム教の政府機関である宗務省から,エホバの証人のことを扱った1冊の本が発行されました。著者は助教授を務めるH・タンユ博士でした。タンユ博士はその本の序文の中で,自分はエホバの証人に関し「事実に基づく科学的」研究を行なったと主張しました。その本はエホバの証人について正確な情報を人々に伝えたでしょうか。その本の著者がアンカラの戒厳令法廷でエホバの証人に関する専門家として意見を述べるよう求められた時,その答えが明らかになりました。どのようなことが起きましたか。
法廷で証言を求められたタンユ博士は,エホバの証人に対する自分の見解を実際には証拠によって裏付けることができませんでした。詳細な点を次々に反ばくされ,検察官は裁判官に次のように述べてタンユ博士の主張を取り下げてしまいました。「専門家というものは厳正中立を保ち,その意見は客観的なものでなければならないが……この報告が客観性の域を逸脱しているのは明白である。被告側の弁論がすべての詳細な点において指摘しているように,これは被告の良心の自由と信仰に対する言論による攻撃をなしている」。(軍事法廷,アンカラ。裁判所つづり3。検察官の意見,No. 1972/19,1973年2月21日付。)
転換期
自分たちの宗教的立場をはっきりと確立するため,エホバの証人は自ら進んで裁判所の力を借りることにしました。そして権利の確認を求める訴えを起こしました。その結果は,証人たちがそれまで経験してきた反対の源を明らかにするものとなりました。
エホバの証人の立場を確定するに当たり,裁判所は,宗務省,アルメニア教会,ギリシャ正教会,ユダヤ教当局,イスタンブール大学の法律専門家からそれぞれ意見を求めました。どのような意見が寄せられたでしょうか。
宗務省の見解は次のようなものでした。「エホバの証人とは宗教ではなく,ユダヤ教の影響の下に組織された宗教的な秩序である」。その見解はさらにこう述べていました。「政教一致の秩序を宣伝し,神権国家の実現をもくろみ,そうした目的達成のために集会を開いて文書を配布しているエホバの証人のグループは,我が国の法律に照らせば非合法の団体である。また,国家と国益とを損なう活動に従事している組織である」。
アルメニア教会の総主教は次のように書きました。「その崇拝形式は一神教としても倫理宗教哲学としても受け入れ難く,[その]布教者たちは不正直かつ極秘[に]個人の利益や影響力の拡張を図り,判然としない目的のために活動している」。
ギリシャ正教会の総主教からは,「総主教事務所はエホバの証人と呼ばれる宗教を知らない」という見解が寄せられました。
イスタンブールのユダヤ教シナゴーグの高位のラビからは次のような見解が寄せられました。「エホバの証人は世界の各地で一宗派として知られているが,ユダヤ教とは何の関係もかかわりもないため,これ以上の情報は差し上げられない」。
しかし,イスタンブール大学の法律専門家からはエホバの証人に関して異なった見解が寄せられました。これらの法律専門家は次のように述べて,エホバの証人が宗教組織であることを明確にしました。「エホバの証人は新キリスト教と呼べる教理の確立に励んでいる。福音書の教えのこうした新しい解釈に基づけば,彼らは独立した一つの宗教としてではなく,キリスト教の新しい宗派とみなすことができる」。
どのような結果になりましたか。1974年11月20日に,イスタンブールの第20地方裁判所はエホバの証人を「キリスト教の宗派」として認めました。つまり,エホバの証人はトルコの他のすべての宗教に与えられているのと同じ権利を有する宗教団体として認められたのです。そして1976年10月20日には,最高裁判所が地方裁判所の判決を支持して,これを確認しました。
裁判所のこうした様々な評決すべてを考慮し,政府当局者の多くは,エホバの証人が法律を遵守する市民であり,国家に危険をもたらすものではないことを理解するようになりました。その結果,エホバの証人は聖書文書を一層効果的に配布するための法人団体,聖書教育課程協会を組織することができました。この法人は内務省の認可を受けました。
それ以来,エホバの証人は信教の自由という憲法に保障されている権利を享受してきました。宗教文書を印刷し,崇拝のためにそれぞれの土地で集まり合い,さらに全国大会も開けるようになりました。一番大きな大会は1978年に開かれました。イスタンブールのスポーツ・展示パレスで開かれたその大会には1,200人以上が出席しました。そうです,公正な裁きが宗教的偏見と偽りの告発に勝利を収めたのです。
新たな裁判
しかし,国内の政情不安から,政府は何度か戒厳令を敷かなければなりませんでした。エホバの証人に対する反対が再び頭をもたげ,以前と同じ告発がなされて裁判が行なわれるようになりました。1978年12月1日に,イズミルの第2刑事裁判所は,“世俗的”秩序の転覆を謀ったとして訴えられていた43名のエホバの証人に無罪を言い渡しました。聖書教育課程協会も同様の容疑で訴えられていましたが,別の裁判で無罪になりました。
ところが,地方検事はそれを不服として両方の件を控訴し,最高裁判所で審理がなされることになりました。しかし,最高裁判所は,1979年5月7日と6月8日に,下級審の判決を支持して,いずれも無罪を言い渡しました。今度は検事総長が控訴し,再び最高上訴裁判所で審理が行なわれることになりました。どんな判決が下りましたか。1980年3月24日,同法廷は拘束力のある最終評決を下しました。無罪という判決が下ったのです。
判決の中で同法廷は次のように言明しました。「被告人たちの信じるような事柄がいつの日か起こり,神の支配がこの世界に打ち立てられるなら,それを信じているという理由で被告人たちを処罰したところで,そうした出来事を阻止することにはならない。一方,被告人たちの期待が単なる幻想にすぎず,空虚な信念であるとすれば,被告人たちの信念はこの国の世俗主義の秩序に対して何ら害を及ぼすことはない」。これは,聖書の使徒 5章34-39節に記録されている第1世紀のある法廷の賢明な一構成員が語った見解と非常によく似ています。
1980年9月12日に軍事政権が樹立され,すべての政治活動と聖書教育課程協会を含めた法人団体の活動は停止させられていますが,エホバの証人は崇拝のために引き続き集まり合っています。エホバの証人は,自分たちの法人組織に対する制限が速やかに撤回されるよう希望しています。
予期せぬ評決
エホバの証人が政府の転覆を企てているというけん疑は完全に晴らされ,エホバの証人は宗教団体として認められてきましたが,アンカラの一法廷は全く予期せぬ判決を下しました。
裁判が係争中であるとの理由で長年にわたってパスポートの発給を認められていなかったあるエホバの証人が再度パスポートを申請したところ,その申請が却下されたのです。この人は,そうした制限が撤回されることを求め,市の旅券局を相手取って訴えを起こしました。ところが,1980年11月11日,第12行政訴訟裁判所は,その人が「トルコでは活動を禁じられているエホバの証人の集会に出席し,彼らのために働いた」という理由でその訴えを却下したのです。
幾例もの無罪判決があり,エホバの証人がトルコで公然と崇拝を行なっているという事実があるのに,同法廷がこのような結論を下したことには理解し難いものがあります。前述の諸事実を単に見過ごしていたのでしょうか。それとも,根拠に欠けるだれかの意見に影響されたのでしょうか。自由を愛する人々の思いにこうした点を含む様々な疑問が沸き上がっています。
この件は上訴されており,上級裁判所がこうした法律上の誤りを正すことが望まれています。そして,エホバの証人のために再び公正な裁きがなされ,他の多くの国々におけると同様,エホバの証人が法律を遵守する市民として憲法で保障されている諸権利を享受できるようになってほしいものです。
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反対を克服して勝利を収める目ざめよ! 1981 | 9月8日
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反対を克服して勝利を収める
● 聖書学者ウィリアム・ティンダルは,16世紀の初頭に,聖書の大半をヘブライ語とギリシャ語からその当時使われていた英語に翻訳しました。しかし,ティンダルの翻訳作業には僧職者の大きな反対がありました。そこで,ティンダル訳のクリスチャン・ギリシャ語聖書(最初の印刷された英訳聖書)の写しを,樽や箱,衣料品の梱や小麦粉の袋などに忍ばせてヨーロッパ大陸から英国へ運び込まなければなりませんでした。僧職者たちは,ロンドンのセントポール大聖堂前の交差点にこの聖書の写しを幾千部も積み上げて,「全能の神を大いに喜ばせる燔祭」であるとして焼いてしまいました。
● しかし,反対者たちも印刷機にはとてもかないませんでした。聖書は,生き残る闘いに勝利を収めたのです。
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