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霊的なパラダイスの,神を恐れる王世の苦難からの人間の救いは近い!
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とは見えなかったのです。それで,こうした不均整な対称を明示するため,イザヤ書 10章の次のような最後の二節が同11章の冒頭に先行しているのです。
7 「見よ,真の主,万軍のエホバは,恐るべき衝撃をもって大枝を切り払う。丈高く成長したものは切り倒され,高い者たちは低くなる。そして,彼は鉄の道具で森の茂みを打ち倒し,レバノンは強力な者によって倒れる」― イザヤ 10:33,34,新。
8 (イ)イザヤ書 10章33,34節ではだれがレバノンの巨木にたとえられていますか。(ロ)「レバノンは強力な者によって倒れる」ということはどのように真実となりましたか。
8 イザヤの時代にはエルサレムおよびエッサイの子ダビデの王統の歴代の王にとって俗界からの最大の脅威をもたらしたのは,世界強国アッシリアでした。それで明らかにイザヤの預言は,アッシリアの王とその強力な軍勢をレバノン山脈の巨木になぞらえています。イザヤの生涯中,アッシリアのセナケリブ王とその恐るべき軍隊がユダの地を荒らしていた時,王都エルサレムさえ,貴重なものとしてセナケリブの手の届く所にあるように見えました。こうした危機に際して全能のいと高き神は行動を起こされました。「強力な者」,つまりひとりの天の使いによりエホバは一夜にしてセナケリブの18万5,000人の軍隊を死の眠りにつかせました。あたかもレバノン山の常緑樹の森林が倒れるかのような衝撃をもってアッシリアの「大枝」は切り倒され,卑しめられたアッシリアの王セナケリブは余儀なく故郷に逃げ帰り,やがて非業の死を遂げることになりました。―イザヤ 37:33-38。
9 ダビデの歴代の王の家系はだれによって切り倒されましたか。その結果,やがてどんな疑問が答えを要するものとなりましたか。
9 ですから,アッシリア人ではなく,後代の西暦前607年におけるバビロニア人によるユダの地の征服によって,ダビデ王の歴代の王位継承者の家系は,切り倒された木の切り株のようになりました。その象徴的な木の切り株の上に何世紀かが流れ去るにつれ,種々の疑問が焦眉の問題となりました。果たしてその木の切り株から何かが出てくるのでしょうか。その王統の木は,神により霊感を受けた預言が示すように,果たして再び成長するのでしょうか。王の笏はこれでついにユダの部族から永遠に離れ去ったのでしょうか。(創世 49:10)神はダビデと王国のための契約を結ばれましたが,その王国は永遠に限りなく続くのではなく,単に長続きするものに過ぎなかったのでしょうか。(サムエル後 7:8-16)イザヤの預言の11章は決して誤ることのない答えを与えました。
その上にエホバの霊のとどまる王
10,11 預言者イザヤはある「小枝」について何と述べましたか。それは小さいからと言ってどうして軽んずべきものなどではありませんでしたか。
10 神の取り決めの中では,小さなものの日を軽んじてはなりません。真のメシアのつつましい始まりを何ら大きな可能性のない事柄とみなすべきではありませんでした。アッシリア世界強国の「丈高く成長した」支配者たちが地に切り倒されたのと全く同様,全能の神は丈の低い小さな者を非常に高い者にして,多くの実を結ばせることもできました。レバノンの山の巨大なヒマラヤスギと比べられている小枝もしくはごく小さな若枝とは何ですか。それは実に取るに足りないものですが,イザヤ書 11章1,2節(新)はこう述べています。
11 「そして,エッサイの切り株から必ず小枝が出,その根から若枝が実を結ぶ。そして彼の上にエホバの霊が必ずとどまる。知恵と理解の霊,計り事と強大さの霊,知識とエホバに対する恐れの霊である」。
12 (イ)「小枝」や「若枝」はだれを表わしていますか。(ロ)イザヤの時代にはエッサイに根ざしたその王統の木はどんな状態にありましたか。しかし,それは西暦前607年にどうなりましたか。
12 「小枝」と「若枝」とは全く同一のものを表わしており,両者ともある人物を表わしています。このことはその預言が「彼の上にエホバの霊が必ずとどまる」と述べていることからも明らかです。同一の源から出る「小枝」や「若枝」はエホバ神の霊で油そそがれる王つまりメシアを表わしています。預言者イザヤの時代にはダビデ王の父エッサイに根ざす王統の木はなお,切り株と根だけを地に残して切り倒されてはいませんでした。その王統の木はダビデ王家の歴代の王で構成されており,それは西暦前607年まで立っていました。次いで,バビロニア人がその王をバビロンに追放し,王都エルサレムを滅ぼすに至って,その木はバビロニア人により切り倒されました。その時,ダビデ王朝のあの最後の王,ゼデキヤに対する神からの次のような命令が,やむを得ず遂行されました。「かぶりものを取り除き,王冠を取り去れ。これは同じではなくなる。低いものを[一連の異邦人世界強国を次々に]高く上げ,高い者[ダビデの家系のメシアによる王国]を低くせよ。破滅,破滅,破滅,わたしはそれを生じさせる。これはまた,正当な権利を持つ者が来るまでは確かにだれのものにもならない。わたしは必ずそれを彼に与える」― エゼキエル 21:25-27,新。
13 西暦前537年にゼルバベルは,「小枝」や「若枝」に関する預言を成就しましたか。
13 西暦前537年に,バビロンの征服者,ペルシャ人クロス大王は流刑の身のユダヤ人をユダの地に復帰させましたが,ダビデ王家のゼルバベルは王冠を受けて,再建されたエルサレムの王座で即位した訳ではありません。クロス大王は彼を単にペルシャ領ユダヤ州の知事にしたに過ぎません。(ルカ 3:27-32。マタイ 1:6-13)従って,ゼルバベルは王のかぶりものや王冠と共に王国を受ける正当な権利を持つ者ではありませんでした。彼はエッサイの切り株や根から生え出る「小枝」や「若枝」に関する預言を成就しませんでした。
14 (イ)「小枝」や「若枝」はいつ出て,実を結ぶようになりましたか。それはどうしてですか。(ロ)その後まもなくナタナエルは,イエスが油そそがれて任命された職責について何と言いましたか。
14 その「小枝」や「若枝」はいつ,またどんな人物となって出て,実を結ぶようになりましたか。それはゼルバベルの後,五百年余を経たローマ皇帝チベリウス・カエサルの治世の西暦29年のことでした。その年の初秋,ダビデ王家の一人の子孫,すなわちベツレヘムのマリアの子イエスがバプテストのヨハネによりヨルダン川でバプテスマを受けました。その時,このイエスは神の霊的な子となりました。その時,神の霊が彼の上に下り,神の声が天からこう言うのが聞こえたからです。「これはわたしの子,わたしの愛する者であり,この者をわたしは是認した」。(マタイ 3:13-17)こうしてイエスは神の霊によって生み出されて神の霊的な子となったにとどまらず,神の霊によって油そそがれてダビデ王の家系の指名された王となりました。それから二か月ばかりの後,イエス・メシアの弟子となる見込みのあったナタナエルはこの事を認識して,イエスにこう言いました。「ラビ,あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」― ヨハネ 1:29-49。
15 (イ)イエスの地上での生活の終わりごろ,ペテロはイエスがだれであることを見分けたと言いましたか。(ロ)西暦29年に現われた「小枝」もしくは「若枝」が,十分に成長した木となったのはいつでしたか。その時,何が起きましたか。
15 イエスは地上で人間として生活した三十三年半の最後の年に,イエスがだれであることを見分けたかについて十二人の使徒に尋ねました。シモン・ペテロはすぐさま答えました。「あなたはメシア,生ける神の子です」。(マタイ 16:13-16; マルコ 8:27-30; ルカ 9:18-21,バイイングトン)それでペテロはイエスを「神のメシア」と呼びました。ギリシャ語を話した人たちは彼のことを「神のキリスト」と呼びました。新たに油そそがれたメシアつまりキリストであるこのイエスこそ,象徴的な『エッサイの切り株からの小枝』で,「切り株」を通してエッサイの根から出た象徴的な「若枝」でした。その「切り株」は依然何世紀ものさらに長い期間,西暦1914年の初秋に至るまで幹がないままでしたが,その時,あの「小枝」あるいは「若枝」は本当に,十分成長して実を結ぶ木,統治する王,統治するメシアとなりました。その時,異邦人の時が終わって,物事の逆転する時が到来したからです。西暦前607年に「高く上げ」られだした一連の異邦人世界強国は再び低くならねばならず,他方,ダビデ王の家系の『低くされた』メシアの王国はもう一度「高い者」とならねばなりません。―ルカ 21:24,欽定訳,文。
16 (イ)イエスは油そそがれた時以来,エホバの霊によってどんな特質を分け与えられましたか。(ロ)それ以前に,神の霊によって同様の特質がだれかに分け与えられましたか。
16 イエスが水のバプテスマを受けた後,油そそがれた時以来,エホバの霊はまさしく彼の上にとどまりました。それは確かに「知恵と理解の霊,計り事と強大さの霊,知識とエホバに対する恐れの霊」でした。(イザヤ 11:2,新)エホバの霊によってイエス・キリストに分け与えられたそれらの特質は,預言者モーセの時代に聖なる会見の天幕の建設者に分け与えられた特質と類似しています。出エジプト記 31章1節から3節でこの事に注目できます。『エホバ,モーセに告げて言ひたまひけるは 我ユダの支派のホルの子なるウリの子ベザレルを名指して召し 神の霊をこれにみたして知恵と了知と知識ともろもろの類の工に長し(む)』。(また,出エジプト 35:31。1907年11月15日号「シオンのものみの塔」誌,349,350ページをご覧ください。)さて,もし崇拝の神聖な幕屋の建設者ベザレルが知恵や了知や知識や工の点で神の霊を必要としていたのなら,イエス・メシアがさらに責任のある王の職責の点でそれと同様の特質を必要とするのはすこぶる確かなことです。
17 ダビデおよびイエスの上には,それぞれ油そそがれてから神の霊が働きましたが,このことにはどんな類似点が見られますか。
17 わたしたちは,預言者サムエルがベツレヘムの羊飼いの少年ダビデに油をそそいでイスラエルの指名された王とした後,サムエル前書 16章13節(新)が伝えているように,「エホバの霊がその日以降ダビデの上に働き始めた」ことを思い起こします。同様に,イエスがヨルダン川で神の活動力をもって油そそがれた後,神の霊は特に彼の上に働くようになりました。
18 イエスの行なった事柄には,神の霊によって特別の知恵や理解や知識がイエスに分け与えられていたことを示す証拠がありました。その実例を挙げなさい。
18 「さて,イエスは聖霊に満ちて,ヨルダンから去って行かれた。そして,霊によって荒野をあちらこちらと導かれて四十日におよび,その間悪魔の誘惑を受けた。そのうえ,それらの日のあいだ何も食べなかった」。ところがイエスは神の霊によって分け与えられた知恵や理解や知識をもって,悪魔が誘惑しようとして述べた提案に首尾よく抵抗しました。「それからイエスは霊の力に動かされてガリラヤに帰られた。すると,彼の評判は周囲の全地方にあまねく広まった。また,彼は人びとの会堂で教えはじめ,すべての人から敬われた」。(ルカ 4:1-15)ナザレの会堂では以前の仲間たちはイエスの話に驚き,「この人は,これほどの知恵とこうした強力な業をどこで得たのだろうか。これはあの大工の息子ではないか」といぶかりました。(マタイ 13:53-55。マルコ 6:1-3)イエスの特別の能力は今や彼のものでした。それは前に彼らに告げた通り,神が聖霊をもってイエスに油をそそぎ,彼をメシアにしたからです。―ルカ 4:16-22。
19 (イ)使徒ペテロやパウロは,み子の上に臨んだ神の霊の働きをさらにどのように強調しましたか。(ロ)それで,神の霊の働きの結果,かつて印象的なところのない「小枝」であった方は何になられましたか。
19 イエス・キリストの死と復活と昇天の何年か後,使徒ペテロはみ子の上に臨んだ神の霊の働きを強調してこう述べました。『神は聖霊と力をもって彼に油をそそぎました。彼は善を行ないながら,また悪魔に虐げられている者すべてをいやしながら,国じゅうをまわりました。神がともにおられたからです』。(使徒 10:38)使徒パウロは天の栄光を受けたイエス・キリストについて書き,こう述べました。「あなたがたがキリスト・イエス,すなわち,わたしたちにとって神からの知恵……となられたかたと結ばれているのは,[神]に帰すべきことなのです」。(コリント第一 1:29,30)誇り高い今日の頭脳時代のいわゆる知者の哲学は,栄光を受けたイエス・キリストの知力とは比べものになりません。「彼のうちには,知恵と知識とのすべての宝が注意深く秘められている」からです。(コロサイ 2:3,8)それで,彼の上に臨んだ全知の神の霊のゆえに,印象的なところのない『エッサイの切り株からの小枝』として地上で存在し始めたその方は,イスラエルの内外を問わず地上のこれまでのあらゆる支配者に勝るメシアなる王となられたのです。
20,21 イエス・キリストの油そそがれた追随者たちもまた「若枝」と言われていますが,だれの「若枝」ですか。
20 神から見れば,「小枝」もしくは「若枝」が重要で価値があるかどうかについては,すべてそれがどの木のものかにかかっています。エホバ神にとっては,神のその僕がベツレヘムのエッサイの根からの「若枝」であったということが極めて重要だったのです。だれの「若枝」ですか。この問いに対する答えこそ,問題を決するものとなります。油そそがれたその僕の足跡に従う人たちの場合もそうです。
21 その僕と彼の弟子たちは神の宇宙的な組織つまり神の比喩的な「女」もしくは「妻」の成員なので,神はその成員,それらの弟子たちに関して彼女にこう言っておられます。「そして,あなたの民は,彼らは皆,義にかなった者となり,定めなき時までも彼らは地を所有しよう。彼らはわたしが美しくされるための,わたしの植えた若枝[ネツァル],わたしの手の業。小さい者が[若枝のように]千となり,小さな者が強大な国民となろう。その時には,わたしが,エホバがそれを速めるであろう」。(イザヤ 60:21,22,新)このような理由で,その僕も,またその忠実な弟子たちも,古代バビロンの最後の王朝のような「忌みきらわれた若枝」とはなりません。―イザヤ 14:19,新。
22 メシアなる王はあたかも自分より位の高い方に申し開きする必要などないかのように行動する無責任な支配者とはならないことを,どうして確信できますか。
22 このメシアなる王は人類家族を治める無責任な支配者のように振る舞うことはありません。彼はサタン悪魔とその悪霊たちが縛られて底知れぬ所に入れられた後,人類家族を千年間統治するよう任命されています。(啓示 20:1-6)この王の上にとどまっている霊は,あたかも彼が自分より位の高い方に申し開きする必要などないような仕方で支配することには逆らって働きます。彼の上に臨んでいる霊は単に知恵や理解や計り事や強大さの霊であるだけでなく,知識や「エホバに対する恐れ」の霊でもあります。彼はエホバを恐れますから,メシアとしての支配権の行使の仕方はそのような恐れによって制御されます。
23 彼ご自身はこの「エホバに対する恐れ」をどう見ておられますか。
23 そのような「エホバに対する恐れ」はこの王にとって,王としての拘束されない自由な行動を妨げる厄介なものではありません。彼はこのような恐れを持つことを楽しみとしていますし,またご自分の民の心にそのような「エホバに対する恐れ」があるのを見ることは喜びなのです。イザヤの預言はさらにこう述べています。「そして,彼の楽しみはエホバに対する恐れのうちにあるであろう」。(イザヤ 11:3,新)バイイングトンの翻訳はこう訳しています。「そして,彼はエホバに対する恐れによって薫るであろう」。エルサレム聖書は,「ヤハウェに対する恐れは彼の息である」と訳しています。ロザハムの翻訳はこう訳しています。「ゆえに彼はヤハウェに対する尊崇のうちに芳香を見いだす[息を吸う]であろう」― 欄外。
虐げられた人たちを解放する審判者
24,25 イザヤがさらに描写しているように,メシアなる王はどんな審判者となりますか。
24 エホバ神に対する恐れを抱いて判決を下す審判者には,正当な取り扱いが行なわれるよう取り計らってもらう点で頼ることができます。全地の義を行なう傾向のある人びとはそのような審判者を待ち望み,求めてきました。それこそエホバのメシアなる王がなるところの審判者なのです。その王の,「エホバに対する恐れ」について語った後,預言者イザヤはこう続けて述べます。
25 「そして,彼はその目にする単なる外見によって裁かず,単にその耳で聞く事柄に従って戒めることもしない。また,義をもって彼は必ずへりくだった者たちを裁き,廉潔さをもって必ず地の温和な者たちのために戒めを与える。そして,彼はその口のむちで必ず地を打ち,そのくちびるの霊で邪悪な者を殺すであろう。そして,義が必ずその腰の帯となり,忠実さがその胴の帯となる」― イザヤ 11:3-5,新。
26 「彼はその目にする単なる外見によって裁かず,単にその耳で聞く事に従って戒めることもしない」ということは,どのように公正を保証しますか。
26 ここで描写されているような世界的な審判者,高められたイエス・キリストを持つ時,地がどうなるかを考えてもみてください! 彼をだませるものではありません。彼は物事の内面を,あらゆる見せかけの裏面を見通すことができます。弁護士のもっともらしい議論による場合のように,欺まん的な話で惑わされることはありません。彼にとって単なる言葉は重きをなしません。重要なのは心の状態です。しかも,それを読み取れるのです。彼は審理を受ける者が有罪か無罪かを定めるのに不完全な男女の小陪審や大陪審を当てにすることはありません。偽善的なアナニアとサッピラの欺まん的な外見や言葉を見抜いて,神の聖霊に対してうそをつこうとしたゆえに死ななければならない旨二人に告げたクリスチャンの使徒ペテロの場合に働いたあの同じ霊を持つのです。―使徒 5:1-11。マタイ 22:15-22と比べてください。
27 彼が裁く時,「へりくだった者たち」や「地の温和な者たち」はどのように益を受けますか。
27 このメシアなる審判者は「へりくだった者たち」や「地の温和な者たち」のために神から授かった方です。彼は現在の事物の体制下の無防備な人たちを虐げる者を恐れずに戒めます。虐げる者たちの弁明しようとする議論を論ばくし,彼らに対してその誤っている不公正な点を証明します。そして,物事を正し,そのあるべき道に合わせます。これは虐げる者たちにとって不公平なところのない,義にかなった事,なすべき廉潔な事柄です。その統治下では組織的犯罪を支配するギャング団は栄えません。彼は組織犯罪を粉砕します。
28 メシアなる審判者が邪悪な者たちに向ける「その口のむち」や「そのくちびるの霊」とは何ですか。
28 メシアなる審判者の下す判決は,効力を生じます。それは施行し得ないもの,高等裁判所に上訴して無効にし,廃棄できるものではありません。(ヨハネ 5:22-24)悪行者に刑を宣告するその口から出る事は,処罰のむちのようになり,それは必ず,また即刻執行されることになります。有罪の者たちはそれを痛感します。また,そのくちびるの間から出るのは,それに対して邪悪な者たちが身を守る手だてを持ち合わせていない,死をもたらす活動力のようなものです。そのくちびるが死刑を宣告すると,そのくちびるの間から出て来るあの霊の働きのために彼らは死にます。悪はもはや許されなくなります。メシアなる王である審判者は悪と結託してはいません。
29 義と忠実さはどのようにして彼にとって帯のようになりますか。その活動にどんな影響を及ぼしますか。
29 エホバの霊がとどまっている,その審判者を強める倫理的特質は,その腰あるいは胴のための帯のようです。それは義の帯や忠実さの帯です。彼は不義の傾向という点で弱点を持っていません。彼を支配し,その動機付けとなっているのは,神の完全な規準にのっとった義です。彼はエホバ神から委ねられた責任に対して忠実で,最高審判者エホバに対する忠実の道以外のものは知りません。完全な人間としてこの地上にいた時,彼は極めて不当な仕方で死んだにもかかわらず,それでも神に対する忠実さを実証なさいました。こうして,長年エホバの崇拝者たちに逆らうものとなってきたうそを,大いなる偽りの非難者サタンの顔面に投げ返しました。悪魔サタンは,エホバの最高の役員であるそのみ子がもし神やみ使いや人間の主要な敵対者によって極限まで試されたなら,神に対して忠実ではなくなるだろうと主張していたのです。―ヨブ 1:1から2:5。
30 異邦人の時が終わった時,メシアなる審判者はまず最初だれに対して行動を起こしましたか。どんな結果が生じましたか。
30 ゆえに,地上のもっと弱い邪悪な者たち,つまり“小者ども”を追う代わりに,メシアなる審判者はまず最初に,組織化された邪悪な事柄すべての強力な首位支配者,サタン悪魔を追いました。それこそ,西暦1914年に異邦人の時が終わるや否やメシアによる王国が天で誕生した直後,天で起きた事柄でした。どこで行動を起こすべきかをまさしくご存じだった就任したメシアなる王は,悪魔サタンとその使いである悪霊たちと戦いをまじえました。その戦いはそれら邪悪な者たちを神聖な天から放逐することによって終わりました。今や勝利を収めた王は,彼らをこの地球の近辺にとどめています。彼らがそこに拘束されている『短い時』が終わるや否や,メシアなる王は彼らを鎖で縛って,この地の近くから底知れぬ所に幽閉します。―啓示 12:7-13; 20:1-3。
31 その王は霊的なパラダイスの外にいる者たちに対して,さらにどんな行動を取りますか。
31 神を恐れるその王は組織化された邪悪な事柄すべての悪魔的な首謀者たちをこのようにして処置する以上,当然どうなりますか。物事を完結させるには,その王は,罪の点でかたくなになって悪魔の見える組織にしっかりとしがみついている人たちを地上で処刑しなければなりません。こうして,エホバの崇拝者たちの霊的なパラダイスの外にある不敬虔な人間の社会は,審判を行なうこの王の口の「むち」によって加えられる一撃を思い知らされます。その王の下す処罰の判決は彼らに対して執行されます。王に本来備わっている義は,帯のように彼を強めて,この事を行なわせます。そうする点で,義の神に対する忠実さは帯のように彼を支えるでしょう。
32 (イ)その行動は,今霊的なパラダイスの中にいる人たちにはどんな影響をもたらしますか。(ロ)今でさえ彼らは自分たちの霊的なパラダイスを美しくするために何をしますか。
32 天と地の組織化された邪悪な事柄すべてに対するこの勇敢な行動は,今霊的なパラダイスの中で神の恵みと保護を享受しているエホバの崇拝者にとって大いなる救済を意味します。彼らは自分たちの霊的なパラダイスを治めるこのような義の王を備えてくださったエホバに感謝しています。彼らはこのメシアなる王の上に神の霊がとどまっていることを示す証拠となる特質を自分自身のうちにもさらに培うよう努め,こうして自分たちの霊的なパラダイスを美しくするのです。
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霊的なパラダイスでは傷つけることも損なうこともない世の苦難からの人間の救いは近い!
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11章
霊的なパラダイスでは傷つけることも損なうこともない
1 霊的なパラダイスを治める王であられる方は,だれの倫理的特質を反映していますか。
人間の政府の倫理的特質は,支配される人民のひととなりを表わすと言われています。これはこの世の政治家が観察して得た所見です。とは言え,これは主権者なる主エホバが地上のご自分の崇拝者のために確立された霊的なパラダイスに今居住している人たちには当てはまりません。宇宙の主権者としてのエホバこそ,彼らの支配者つまり王を彼らの上に立てた方なのです。彼らが自分たちを治める王を,つまり彼らを模倣する王,従って彼らの唯物主義的で利己的な罪深い生き方を大目に見る王を選んで就任させたのではありません。むしろ,霊的なパラダイスの中にいる人たちはエホバ神の像を映す王を欲していますし,また自分たちの天与の王に倣いたい,そのようになりたいと願っています。倫理的にも宗教的にも彼らは自分たちの天与の王のひととなりのゆえに,自分もそうでありたいと願っています。そうです,自分たちのひととなりが,メシアなる王のそれを表わして王に誉れを帰したいと願っているのです。
2,3 イザヤ書 11章6節から8節は,メシアなる王の臣民のうちに起きた人格の変化をどんな言葉遣いで描写していますか。
2 メシアなる王の人格は霊的なパラダイスの中にいる臣民を築き上げる優れた仕方でその人格に影響を及ぼします。イザヤの預言はそのような方向を示しています。エホバ神によって起こされたメシアなる王の特質や行動を述べた直後,預言者イザヤはこう言葉を続けています。
3 「そして,狼はしばしの間雄の子羊と共に実際に宿り,ひょうが子やぎと共に横たわり,子牛やたてがみのある若い獅子やよく肥えた動物はみな一緒で,ほんの小さい少年が彼らを導く者となる。そして,雌牛や熊が草をはみ,その若いものたちは一緒に横たわる。また,獅子でさえ雄牛のようにわらを食べる。そして,乳飲み子は確かにコブラの穴の上で遊び,乳離れした子供は実際に自分の手を毒蛇の開いた孔の上に置く」― イザヤ 11:6-8,新。
4 (イ)その描写は,特に野獣に関してどんな点が特異なものですか。(ロ)そのような状態はかつて存在したことがありますか。
4 その驚くべき預言的な光景の中では,何かが動物に,それも特に原野の野獣に根本的な影響を及ぼしています。野生動物はもはや家畜をえじきにしたり,むさぼり食べたりはしません。肉食の性質を捨てて,危害を加えないおとなしい草食動物になっているのです。むろん,地上では,そうです,エデンの園では,エホバ神が完全な人間の男女をそこに置く以前,そのような状態でした。また,
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