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いやし聖書から論じる
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今日のやり方とは非常に異なっていたことにお気づきになるのではないかと思います。(マタイ 10:7,8)……さらに,ここには,弟子たちも行なえるとイエスが言われた事柄で,今日の治療者たちが行なえない事柄があることにお気づきになりますか。(今日の人々は死者をよみがえらせることはできません。)』(2)『私たちは他の人々を裁く立場にはありませんが,マタイ 24章24節に私たちが警戒すべき事柄が述べられているのは注目に値します』。
あるいは,こう言えます: 『私は,いやしについて聖書が述べている事柄は真実であることを確かに信じております。しかし,現在の事物の体制のもとで行なわれるいやしは,どんないやしでも,一時的な益しかもたらさないのではないでしょうか。私たちはみなやがて死んでゆきます。生きている人がみな健康を享受し,決して死ぬ必要のない時代が,果たして訪れるのでしょうか。(啓示 21:3,4)』
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運命聖書から論じる
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運命
定義: 回避できない,そして多くの場合,不利な結末。運命論とは,あらゆる出来事が神意によって,あるいは人間よりも大きなある力によって定められ,予定されているゆえに,必ずそのとおりに起きるという信仰です。聖書の言葉でも,聖書の教えでもありません。
人はみな,『死ぬ時』を予定されていますか
この信仰はギリシャ人やローマ人の間に広まっていました。異教のギリシャ神話によれば,運命の女神が3人いて,命の糸を紡ぎ出し,その長さを決め,切りました。
伝道の書 3章1,2節は『死ぬ時』について述べています。しかし,それが個々の人間に予定されていた,定められた瞬間ではないことを示し,伝道の書 7章17節はこう助言しています。「邪悪に過ぎる者であってはならない。また,愚かな者となるな。自分の時でもないのに,どうして死んでよいであろうか」。箴言 10章27節は,「邪悪な者たちの年は短くされる」と述べています。そして,詩編 55編23節はこう付け加えています。「血の罪を負う,欺まんに満ちた者たちは,自分の日数の半ばも生きることはありません」。では,伝道の書 3章1,2節は何を意味していますか。それは単に現在の不完全な事物の体制のもとにおける絶え間ない生死の反復につい
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