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    ものみの塔 1987 | 6月1日
    • 真のクリスチャンは高齢の人々を敬う

      「老齢に達した人々は経済面における生産的な生活を終えている。我々の文化は,生産的な生活を基盤として個々の人を評価し,恭順の意や敬意を表わし,地位と報酬を与える」と,研究者のスザンヌ・シュタインメッツは述べています。お年寄りに対する現代社会の見方が,このように暗く消極的な見方なのですから,お年寄りがなおざりにされ,虐待されているということを何かで読む機会が多いとしても,少しも不思議ではありません。

      しかし,聖書はお年寄りに対してどのような見方をしているのでしょうか。神の言葉は現実的な見方を示し,年を取るのは楽ではないことを認めています。詩編作者は,「老齢の時にわたしを見放さないでください。わたしの力がまさに衰えてゆくときに,わたしを捨てないでください」と祈りました。(詩編 71:9)老齢に達したこの詩編作者は,以前にもましてエホバの支えの必要を感じました。また,聖書の見方は積極的であり,わたしたちも老齢に達した人々の必要に注意を払うべきであることを示しています。

      なるほど,ソロモンは老齢を「何の喜びもない」「災いの日々」と呼びました。(伝道の書 12:1-3)しかし聖書の中で,「長い日々と命の年」は神からの祝福とも関連づけられています。(箴言 3:1,2)エホバがアブラハムに,「あなた自身は……良い齢に達して葬られるであろう」と約束されたことなどはその例です。(創世記 15:15)神が忠実なアブラハムに「何の喜びも[得られ]ない」陰うつな「災いの日々」を宣告されたのでないことは確かです。アブラハムは晩年に,エホバへの奉仕に費やした満ち足りた人生を回顧しながら,平安と安らぎを味わいました。アブラハムは「真の土台を持つ都市」である神の王国を待ち望むこともできました。(ヘブライ 11:10)それで,「年老いて満ち足り」て死ぬことができました。―創世記 25:8。

      では,なぜソロモンは老齢を「災いの日々」と呼んだのでしょうか。ソロモンは老年期に容赦なく進む健康の衰えに言及しました。しかし,『若い成年の日に自分の偉大な創造者を覚え』なかった人は,老衰期が特に災いであることに気づきます。(伝道の書 12:1)そのようなお年寄りは,人生を無駄に過ごしてしまったので,人生の晩年には『何の喜びもありません』。神を無視した生活をしてきたために身体上の問題を抱え込んでおり,それだけ余計に老齢の不快さを感じるかもしれません。(箴言 5:3-11と比較してください。)そのため,前途を見るとき,墓以外の何の見込みもありません。神への奉仕に自分の命をささげてきた人でも,体力がなくなって「災いの日々」を経験します。しかし,その人はアブラハムのように,正しく人生を送ってきたことや,残っている力を神の奉仕に用いることに喜びと満足を見いだせるのです。「白髪は,義の道に見いだされるとき,美の冠である」と,聖書は述べています。―箴言 16:31。

      実際,老齢にはある種の利点もあります。ソロモンは,「若さも人生の盛りもむなしい」と述べています。若い人たちは生気にあふれた健康を楽しむかもしれませんが,経験や判断力に欠けていることがよくあります。一方,老齢になると人生経験が身に付いています。とかく無鉄砲に災いに向かって突進する衝動的な若者とは違い,お年寄りは「災いを払いのけ」ます。(伝道の書 11:10。テモテ第二 2:22)そのようなわけでソロモンは,「老いた者の光輝はその白髪である」と言うことができました。―箴言 20:29。

      ですから,聖書はお年寄りに誉れを配しています。このことはお年寄りに対するクリスチャンの接し方にどのような影響を及ぼすでしょうか。

      お年寄りの前では「立ち上がる」

      神は,老齢の人に敬意を示すべきことをイスラエルの国策とされました。モーセの律法は,「あなたは白髪の前では立ち上がるべきである。また,老人の身を思いや(ら)ねばならない」という規定を設けていました。(レビ記 19:32)後年,ユダヤ人はこの律法を全く文字どおりに取ったようです。サムエル・バーダー博士は,自著「東洋の習慣」の中で次のように述べています。「ユダヤ人の作家によれば,老人が自分から4キュビトのところに来たら立ち上がり,通り過ぎたらまた座るという規則があった。その規則には,老人に対する純然たる敬意から立ち上がったことがはっきり分かるようにする目的があった」。そのような敬意は著名な人にだけ示されたわけではありません。タルムードには,「物覚えの悪くなった老人をも尊敬せよ」と記されています。このような敬意は,無学で読み書きのできない老人にも示されるべきである,と論じたラビもいました。そのラビは,「その人が年老いるまで生きることができたのは,その人に何らかの価値があったからに違いない」と考えました。―ユダヤ百科事典。

      今日のクリスチャンはもはやモーセの律法に拘束されてはいません。(ローマ 7:6)しかし,これはお年寄りに対して特別な配慮を示す義務がなくなったという意味ではありません。このことは使徒パウロがクリスチャンの監督テモテに与えた指示から明らかです。パウロは,「年長の男子を厳しく批判してはなりません。むしろ,父親に対するように懇願し,……年長の婦人には母親に対するように」接しなさい,と述べています。(テモテ第一 5:1,2)パウロは,テモテには「命じる」権威があることをその若いテモテに告げました。(テモテ第一 1:4)とはいえ,テモテより年長の人が,とりわけ監督として奉仕している人が,判断を誤ったり,正しくない発言をしたりした場合,その人を劣った人でもあるかのように「厳しく批判」すべきではありませんでした。むしろ,敬意を込めて「父親に対するように懇願」すべきでした。テモテは会衆内の年長の婦人に対しても同様の敬意を示すべきでした。やはりテモテは,事実上,「白髪の前では立ち上がる」べきだったのです。

      このようにキリスト教はお年寄りを敬う宗教です。ところが,皮肉なことに,高齢者に対する虐待の多くは,キリスト教を奉ずると称える国々で生じているのです。しかし,聖書の規準に今もなお堅く従う崇拝者たちがいます。例えば,エホバの証人は自分たちの中に大勢のお年寄りがおられることを喜んでいます。お年寄りを重荷や負担とは考えていません。そのような高齢の方々は健康を損ないやすく,昔のようには活動できないかもしれませんが,多くの人はクリスチャンとしての忠実な奉仕に関する長い記録を持っているので,比較的若い証人たちはその長い記録から彼らの信仰に倣うよう励まされます。―ヘブライ 13:7と比較してください。

      かといって,お年寄りは会衆内で受け身の立場に立つよう期待されているのではありません。そのような人たちは,「習慣に節度を守り,まじめで,健全な思いを持ち,信仰……の点で健全で」あり,自分の知恵と経験を他の人に惜しみなく与え,『恭しく振る舞う』点で立派な模範を示すよう勧められています。(テトス 2:2,3)ヨエルは,聖書の音信をふれ告げる業にあずかる者たちの中に「老人たち」がいることを預言しました。(ヨエル 2:28)読者もきっと,大勢のお年寄りの証人が今でも喜んで戸別伝道を活発に行なうところを直接ご覧になったことがあるでしょう。

      彼らを「なおいっそう」敬う

      エホバの証人は多くの方法で高齢の方々に特別の配慮を払うよう努めます。例えば,毎年の宗教的大会の際には,そのような方々のために座席を確保しておく取り決めがよく設けられます。個人的にも配慮が示されます。日本のあるエホバの証人は,87歳の婦人が会衆の集会に車で行けるよう自家用車の自分の席を譲ります。その人自身はどのようにして集会へ行くのでしょうか。自転車で行くのです。ブラジルには92歳になる全時間の福音宣明者がいます。証人たちは「その兄弟を敬意をもって扱い,兄弟と……話します。その兄弟は会衆の有用な成員です」と,観察者たちは報告しています。

      とはいえ,高齢の方々を敬う点で改善の余地がないわけではありません。パウロはテサロニケのクリスチャンあての手紙に,「しかしながら,兄弟愛に関しては,……あなた方は,マケドニア全土のすべての兄弟たちに対してそのとおりに行なっているのです。しかし,兄弟たち,あなた方に勧めます。そのことをなおいっそう行なってゆきなさい」と書きました。(テサロニケ第一 4:9,10)高齢の方々の扱いに関しては,今日でも同様の諭しの必要な時があります。例えば,ある85歳のクリスチャンは,1冊の聖書関係の新しい出版物をもらえなかったとき,大変がっかりしました。何が問題だったのでしょうか。その兄弟は耳がほとんど聞こえないため,その本を注文すべきことを全員に思い起こさせる発表があったのを知らなかったのです。その上,会衆のだれも,その兄弟の分を注文することにまで気が回りませんでした。もちろん,事態はすぐに改善されましたが,この話は,高齢の方々の必要を特別に意識している必要があることを例証しています。

      今日の神の民がこれを「なおいっそう」行なう方法は幾らでもあります。クリスチャンの集会に出席すれば,「愛とりっぱな業」に関して高齢の方々を「鼓舞」する機会が開かれます。(ヘブライ 10:24,25)また,エホバの証人の王国会館では既に若い人と高齢の方々が自由に交わっていますが,その線に沿ってさらに一層努めることができるのではないでしょうか。例えば,親の立場にある人たちの中には,自分の子供たちが会衆の年長の成員に敬意を込めて近づいて話をするよう励ましている人もいます。

      非公式の場でも,お年寄りに敬意を示してゆくことができます。イエスがルカ 14章12節から14節で教えておられる原則と調和して,社交的な集まりに高齢の方々を招くようにさらに努めることができます。そのような人たちは,たとえ自分が出席できないとしても,自分が忘れられていないということに感謝するに違いありません。また,クリスチャンは「人をもてなすことに努めなさい」とも勧められています。(ローマ 12:13)趣向を凝らした,手の込んだことをする必要はないのです。ドイツ出身のある証人は,「高齢の方々をお茶に誘い,その人の昔の経験を聞かせてもらいます」と提案しています。

      使徒パウロは,「互いを敬う点で率先しなさい」と述べました。(ローマ 12:10)エホバの証人の間では,会衆内に任命された長老たちが特に,お年寄りのクリスチャンを敬う点で率先します。多くの場合,長老たちは高齢の方々に,福音宣明者として新しい人たちを訓練することや,クリスチャンの集会場所の維持管理を助けることなど,行なうにふさわしい仕事を割り当てることができます。会衆の長老として仕えている比較的若い男子は,謙遜に年長の監督たちに近づいて助言を求め,洞察力を働かせて彼らの円熟した見解を知るようにして彼らに敬意を示します。(箴言 20:5)そのような長老たちの集まりに際しては,聖書中の若いエリフの模範に従って,自分よりも経験を積んだ年長の男子に従い,最初に意見を述べる機会を十分に与えます。―ヨブ 32:4。

      当然のことながら,お年寄りは若い人ほど速く行動することも,考えることもできない場合があるので,わたしたちはお年寄りに対していらだちを感じやすくなるものです。ロバート・N・バトラー博士は,老齢が原因で生じ得る問題の幾つかを的確に説明し,「人は体力,すなわち持久力がなくなり,そのこと自体に大変びっくりさせられる。聴力や視力など大切な感覚機能を失うこともある」と述べています。比較的若い人はそのことを認識して,思いやりや同情心を示すべきではないでしょうか。―ペテロ第一 3:8。

      そうです,今日のクリスチャンには,自分たちの中にいる高齢の人たちに真の愛と関心と敬意を示す義務があります。そしてエホバの証人の間では,このことが模範的な仕方で行なわれています。しかし,お年寄りのクリスチャン,あるいはクリスチャンの親が病気になったり貧しくなったりしたときはどうでしょうか。彼らを世話するのはだれの責任でしょうか。続く二つの記事では,聖書がそれらの質問にどのように答えているかを研究します。

  • お年寄りの益を図ることに目を留める
    ものみの塔 1987 | 6月1日
    • お年寄りの益を図ることに目を留める

      「自分の益を図って自分の事だけに目を留めず,人の益を図って他の人の事にも目を留めなさい」― フィリピ 2:4。

      1,2 (イ)1世紀の統治体は,お年寄りが必要としている事柄に対する関心をどのように実証しましたか。(ロ)宣べ伝える業がなおざりにされなかったことを示すどんな証拠がありますか。

      西暦33年のペンテコステの少しあとに,クリスチャン会衆内で「ヘブライ語を話すユダヤ人に対してギリシャ語を話すユダヤ人がつぶやくということが起こった。そのやもめたちが[困窮している人たちに対する食物の]日ごとの分配の面で見過ごされていたからである」と,聖書には記されています。それら大勢のやもめたちはお年寄りで,自活できなかったに違いありません。それはともかく,使徒たち自らがこの問題に介入し,「あなた方の中から,霊と知恵に満ちた確かな男子七人を自分たちで捜し出しなさい。わたしたちがその人たちを任命してこの必要な仕事に当たらせるためです」と述べました。―使徒 6:1-3。

      2 このように初期クリスチャンは,困窮している人々に対する世話を「必要な仕事」とみなしました。数十年後に弟子ヤコブはこのように書きました。「わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち,孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つことです」。(ヤコブ 1:27)では,それは,極めて重要な宣べ伝える業がなおざりにされたという意味でしょうか。そうではありません。「使徒たちの活動」の記録は,やもめたちに対する救援活動がふさわしく組織された後に,「神の言葉は盛んになり,弟子の数はエルサレムにおいて大いに殖えつづけた」と述べているからです。―使徒 6:7。

      3 フィリピ 2章4節にはどのような励ましの言葉がありますか。その励ましが今日特に適切なのはなぜですか。

      3 今日わたしたちは「対処しにくい危機の時代」に直面しています。(テモテ第二 3:1)家族生活と世俗の仕事を営むために求められる事柄を顧みると,お年寄りの必要とする事柄に気を配るだけのエネルギーや意欲はほとんど残らないかもしれません。ですから,フィリピ 2章4節が,「自分の益を図って自分の事だけに目を留めず,人の益を図って他の人の事にも目を留めなさい」と勧めているのは適切なことです。平衡の取れた,実際的な仕方でそうするには,どうすればよいのでしょうか。

      やもめを敬う

      4 (イ)1世紀の会衆がやもめたちを『敬った』のはなぜですか。どのようにそうしましたか。(ロ)そのような備えはいつでも必要でしたか。

      4 パウロはテモテ第一 5章で,初期クリスチャンがどのように会衆内のお年寄りのやもめを世話したかを示しています。パウロはテモテに,「本当にやもめであるやもめを敬いなさい」と勧めました。(3節)定期的に経済的な援助を与えて特に敬意を示すにふさわしい人として選び出されたのは,お年寄りのやもめでした。それらのやもめは生活を支えるための目に見える手段をことごとく断たれ,『神に希望を置き,夜昼ひたすら祈願と祈りを続ける』ほかに方法がありませんでした。(5節)生活を支えるものを求めるその祈りはどのように聞き届けられましたか。会衆を通して聞き届けられたのです。ふさわしいやもめには,組織的な仕方で,適度の生活物資が備えられました。もちろん,やもめに資力があったり,自分を支えることのできる親族がいたりするなら,そのような備えは不要でした。―4,16節。

      5 (イ)あるやもめたちはどのようにして,『肉感を満たすことにふけった』のかもしれませんか。(ロ)会衆にはそのような人たちを援助する義務がありましたか。

      5 「しかし,肉感を満たすことにふける[やもめ]は,生きてはいても[霊的には]死んでいるのです」と,パウロは注意を促しました。(6節)ある人々が,王国行間逐語訳の字義的な訳によれば,どのように「享楽的に行動して」いたかについて,パウロは説明を加えていません。ある人々は自分の「性的な衝動」と闘っていたのかもしれません。(11節)しかし,「リデルとスコットの希英辞典」によれば,『享楽的に行動する』とは,『柔弱な生活をする,あるいは過度の安楽や道楽を求めて生活すること』とも関連していたようです。ですから,ある人々は,会衆が自分を富ませてくれ,節度を欠いたぜいたくで放縦な生活を送るための資金を供給してくれることを望んでいたのかもしれません。事実がどうであったにせよ,パウロは,そうした者たちには会衆からの援助を受ける資格がないと指摘しています。

      6,7,および脚注 (イ)「名簿」とは何でしたか。(ロ)60歳未満の人々に援助を受ける資格がなかったのはなぜですか。(ハ)パウロは若いやもめが不利な「裁き」を受けることがないよう,どのような援助を与えましたか。

      6 次にパウロは,「六十歳以上のやもめを[経済的な援助を受ける人々の]名簿に載せなさい」と述べました。パウロの時代,六十歳以上の女性は,自活できない,再婚しそうにない人々とみなされていたようです。a パウロはこのように述べました。「それに対し,若いやもめは[名簿に載せるのを]断わりなさい。その性的な衝動が自分とキリストとの間を隔てると,彼女たちは結婚することを望むようになり,自分の初めの信仰の表明を無視して裁きを受けるようになるからです」。―9,11,12節。

      7 「名簿」に載せられる機会が比較的若いやもめにも開かれたとすれば,早まって独身を保つ意向を宣言するような人が出たかもしれません。しかしそのような人たちは,時がたつうちに自分の「性的な衝動」を制し難くなり,再婚を望み,独身を保つという「自分の初めの信仰の表明を無視して裁きを受けるようにな(った)」かもしれません。(伝道の書 5:2-6と比較してください。)パウロはそのような問題を防ぐため,さらに,『わたしは,若いやもめが結婚し,子供を産むことを望みます』と言明しました。―14節。

      8 (イ)パウロが示した指針は,どのように会衆を守りましたか。(ロ)困窮している比較的若いやもめや,年を取った男子も世話を受けましたか。

      8 また同使徒は,名簿に載せる人々を,クリスチャンとしてりっぱな業の長い記録を持つ人々だけに限りました。(10節)ですから,会衆は,怠惰な人や貪欲な人のための“福祉国家”ではありませんでした。(テサロニケ第二 3:10,11)では,年を取った男子や比較的若いやもめの場合はどうですか。もし,そのような人々が困窮するなら,会衆は個人的なレベルで彼らを世話したに違いありません。―ヨハネ第一 3:17,18と比較してください。

      9 (イ)今日におけるお年寄りの世話に関する取り決めが,1世紀になされたものと異なっているのはなぜですか。(ロ)テモテ第一 5章に記されている,やもめに関するパウロの論議は,今日において何を認識するようわたしたちを助けますか。

      9 そのような取り決めは,1世紀の諸会衆が必要としていた事柄に十分かなったものだったと思われます。しかし,「解説者の聖書注解」が述べているように,「保険金による収入,社会保障制度,多岐にわたる職種が存在する今日の状況は,その当時とは大いに異なっている」のです。社会的ならびに経済的な状況が変化したため,今日の会衆がお年寄りの受益者の名簿を保管する必要はまずありません。それでもわたしたちは,テモテにあてたパウロの言葉から,(1)お年寄りに関する問題には,会衆全体,特に長老たちが関心を向けるべきであること,(2)適切な組織のもとにお年寄りを世話しなければならないこと,(3)そのような世話は本当に困窮している人たちだけに限られることを認識させられます。

      長老として,彼らの益に目を留める

      10 今日,長老たちは,高齢者に対する関心を示す面でどのように率先できますか。

      10 今日,監督たちは,高齢者に対する関心を示す面でどのように率先しますか。時々長老の集まりの議題として,お年寄りが必要としている事柄を取り上げることができます。特別な援助が必要なときは,そうした援助が与えられるよう取り決められます。たいていの場合,会衆内には,若者など快く援助を与えることのできる人が大勢いるので,長老たちが個人的に世話をする必要はないかもしれません。とはいえ,個人個人の世話を調整する一人の兄弟を割り当てるようにして,そのような活動をきちんと監督することができます。

      11 どうすれば長老は,お年寄りの必要とする事柄をよく知ることができますか。

      11 「あなたは自分の羊の群れの様子をはっきり知っておくべきである」とソロモンは諭しました。(箴言 27:23)ですから,監督たちは,『その必要に応じて分け合う』方法に関して最善の決定を下すため,お年寄りを個人的に訪問することができます。(ローマ 12:13)ある旅行する監督はその点についてこう述べました。「お年寄りの中には他人の世話になるのをひどく嫌う人がいるので,何を行なう必要があるかと尋ねるだけではよくありません。何を行なう必要があるかを見定めたなら,すぐに仕事に取り掛かるのが最善です」。日本のある監督たちは,80歳になる一人の姉妹が多くの世話を必要としているのを知りました。「それで,朝と夜の一日2回,だれかが家を訪ねるか電話をかけるかして,その姉妹と必ず連絡を取るようにしました」と,監督たちは報告しています。―マタイ 25:36と比較してください。

      12 (イ)長老たちは,どのように,お年寄りが会衆の集会から益を得られるよう取り計らうことができますか。(ロ)協会の製作したテープをどのように有効に活用できますか。

      12 それに加え,監督たちは,お年寄りが会衆の集会の益にあずかるようにも気を配ります。(ヘブライ 10:24,25)交通手段の必要な人がいますか。聴力に障害があるため,『聴いて,[集会で話される事柄の]意味を悟る』ことの全くできない人がいますか。(マタイ 15:10)そのような人たちのためにヘッドホーンを備え付けるのは実際的な方法かもしれません。同様に,幾つかの会衆では,病弱な人々が家で話を聞けるよう,集会の様子を電話回線で伝えています。病気が重くて集会に出席できない人々のために集会の様子をテープに録音する人々もいます。場合によってはそのような人たちのためにテープレコーダーを購入します。テープに関して言えば,ドイツの一長老は,「私がお訪ねした数人のお年寄りは,テレビの前にただ座り,霊的に築き上げるとはとても言えない番組を見ていました」と語りました。そのような番組を見るよりも,協会の製作した,王国の調べや聖書朗読のようなテープを聴くよう勧めてはどうでしょうか。

      13 活発な王国宣明者としてとどまれるよう,高齢の方々をどのように助けることができますか。

      13 会衆内の老齢の成員で,不定期あるいは不活発な伝道者になった人もいます。しかし,年齢は必ずしも「王国の良いたより」をふれ告げる業の障害とはなりません。(マタイ 24:14)中には,野外奉仕であなたと一緒に働くよう誘われただけで,それにこたえ応じる人がいるかもしれません。そのような人たちに野外奉仕の経験を話してあげれば,恐らく宣べ伝える業に対する彼らの愛を再び燃え上がらせることができるでしょう。階段を上るのが問題であれば,エレベーターのあるマンションや,階段のない住宅地で働けるよう取り決めるのです。また,伝道者の中には,お年寄りを伴って聖書研究に出掛けたり,お年寄りの家で研究をしたりすることのできる人もいます。

      14,および囲み記事 (イ)お年寄りの兄弟や姉妹が経済的にひどい窮境に陥っている場合,長老たちは何をすることができますか。(ロ)ある会衆はどのようにしてお年寄りの伝道者の必要を顧みましたか。

      14 『金は身の守り』です。(伝道の書 7:12)しかし,老齢の兄弟や姉妹で,経済的にひどい窮境にあり,快く援助を差し伸べる親族もいないという人は少なくありません。それでも会衆内の人々は,困窮している人のことを知らされると,たいてい喜んで助けを与えます。(ヤコブ 2:15-17)長老たちは,政府の援助や社会奉仕,保険に関する方針,年金などで活用できるどんなものがあるかを調べることができます。一方,ある国の場合にはそのような援助がなかなか得られないので,テモテ第一 5章に示されている様式に従い,会衆全体として救援を計画する以外に方法がないということもあるでしょう。(「わたしたちの奉仕の務めを果たすための組織」の122,123ページをご覧ください。)

      ナイジェリアの伝道者たちは,82歳になる正規開拓者とその妻にいつも物質的な贈り物をして助けていました。政府がこの夫婦の住む建物の取り壊しを計画したので,会衆は,ほかに住まいが決まるまで,王国会館に付随した部屋に移るよう二人を招待しました。

      ブラジルのある会衆では,お年寄りのご夫婦の世話をするために看護婦を雇いました。それと同時に一人の姉妹が割り当てられ,家の掃除,食事の準備,その他身の回りの必要な事柄を顧みました。会衆は毎月そのご夫婦のための資金を取り分けておきます。

      15 (イ)会衆が与えることのできる援助には制限が付されていますか。(ロ)過度の要求をするようになる特定の人々にとって,ルカ 11章34節の諭しはどのような点で適切だと言えるかもしれませんか。

      15 ちょうど1世紀の場合と同じように,このような備えは,本当にそれを必要とするふさわしい人々だけのものです。監督たちには,ぜいたくな要望を受け入れたり,世話を受けたいという不当な要求をのんだりする義務はありません。お年寄りも「純一な目」を保たなければなりません。―ルカ 11:34。

      個人として彼らの益に目を留める

      16,17 (イ)長老以外の人たちがお年寄りに関心を示すのは,なぜ重要なことですか。(ロ)忙しい伝道者たちは,どうすればお年寄りのために『時間を買い取る』ことができますか。

      16 しばらく前に一人のお年寄りの姉妹が病院に入院しました。診断結果は栄養不良でした。一長老は,「会衆内のもっと多くの人が姉妹に個人的な関心を払っていたら,このようなことにはならなかったでしょう」と書きました。そうです,お年寄りに関心を示さなければならないのは長老だけではないのです。『わたしたちは肢体として互いのものです』とパウロは言いました。―エフェソス 4:25。

      17 すでに個人的な責任の荷を負って労苦している人々もおられるに違いありませんが,『自分の益を図って自分の事だけに目を留めないようにしてください』。(フィリピ 2:4)正しく個人の事柄を組織すれば,しばしば『時間を買い取る』ことができるものです。(エフェソス 5:16)例えば,野外奉仕の後に一人のお年寄りを訪問できますか。週中に特に寂しさが募るお年寄りもいます。十代の人々も,お年寄りを訪問して家事を行なうことができます。一人の若者からの援助を受けたある姉妹は,「エホバ,若いジョン兄弟を遣わしてくださってありがとうございます。あの人は何とりっぱな人なのでしょう」と祈りました。

      18 (イ)お年寄りとの会話が難しい時があるのはなぜですか。(ロ)どうすれば,高齢の人への訪問やそのような人との会話を,お互いに築き上げるものにすることができますか。

      18 集会であなたが高齢の方々にするあいさつは,通り一遍のものですか。もちろん,耳が遠かったり,思っていることをはっきり言えなかったりする人と会話するのは簡単ではないかもしれません。また,健康を損なえば何かが犠牲になるので,すべてのお年寄りが陽気な気分でいるわけではないでしょう。それでも,『辛抱強い者は勝る』のです。(伝道の書 7:8)ほんの少しの努力で,真の意味での『相互の励まし合い』が行なえます。(ローマ 1:12)野外奉仕での経験を話すようにしてみましょう。「ものみの塔」誌や「目ざめよ!」誌で読んだ一つの点を話します。あるいはもっとよいのは,話に耳を傾けることです。(ヨブ 32:7と比較してください。)高齢の方々は,機会が与えられれば多くのことを話してくださいます。一人の長老は,「そのお年寄りの兄弟を訪問したことは私にとって非常に有益でした」と話しています。

      19 (イ)お年寄りに対するわたしたちの関心は,さらに広げてだれに向けるべきですか。(ロ)老齢の両親を世話している家族の助けとなれるどんな方法がありますか。

      19 お年寄りに対する関心はさらに広げ,そのお年寄りの世話をしている家族にも向けるべきではないでしょうか。老齢の両親の面倒を見ている一組の夫婦から次のような報告が寄せられました。「会衆の幾人かの人々は,私たちを励ましてくださるのではなく,とても批判的になりました。一人の姉妹などは,『ずっと集会に出ないと,あなたのほうが霊的に病気になるわよ!』と言いました。でもその姉妹は,私たちがもっと集会に出られるよう進んで何らかの援助を与えてくださったわけではないのです」。それと同じように人を落胆させるのは,『もし援助が必要でしたら,お知らせください』というようなあいまいな約束です。それは大抵の場合,「暖かくして,じゅうぶん食べなさい」と言うのとほとんど変わりません。(ヤコブ 2:16)自分の気遣いを行動に移すほうがどれほど勝っているかしれません。ある夫婦は,「友人は皆すばらしい人たちで,支えになってくれました。一度に二日ほど母の面倒を見てくれる人もいるので,私たちは時々息抜きをすることができます。母を聖書研究に連れて行ってくださる方もいます。いろいろな人たちが母の安否を尋ねてくださると,本当に励まされます」と報告しています。

      20,21 高齢の方々は,世話をしてくれる人々を助けるために何ができますか。

      20 わたしたちの仲間である高齢の方々は,一般によい世話を受けています。しかし,そのような業が喜びのうちに行なわれ,嘆息しながら行なわれることのないようにするため,お年寄りのエホバの証人自身には何が行なえるでしょうか。(ヘブライ 13:17と比較してください。)皆さんの世話をするため長老たちが設ける取り決めに協力なさってください。どんな親切な行為が示された場合でも感謝と認識を表わし,過度に多くを要求したり,過度に批判的になったりしないようにしましょう。そして,老齢に伴う痛みや苦しみが紛れもない現実だとしても,陽気で積極的な態度を表わすよう努めてください。―箴言 15:13。

      21 『兄弟たちはすばらしいですよ。兄弟たちがいなかったなら,どうしてよいか分かりません』と,多くの高齢の方々は述べておられます。しかし,お年寄りの世話をする主要な責任を負っているのは,その子供たちです。それにはどんなことが関係していますか。どうすれば,その挑戦となる問題に最もよく対処できますか。

      [脚注]

      a レビ記 27章1節から7節は,(誓約により)労働者として神殿に『ささげられた』人々を請け戻すことに言及しています。請け戻しの値は年齢によって異なりました。この値は60歳を境に激減しています。これくらいの年の人は若い人と同じようには働けないとみなされていたためなのでしょう。「ユダヤ百科事典」はさらに,「タルムードによれば,老齢は……60歳から始まる」と述べています。

      覚えていますか

      □ 1世紀には,お年寄りのやもめたちのためにどんな備えが設けられましたか

      □ 監督たちは,会衆内の年配の方々に対する世話をどのように組織できますか

      □ 会衆内の個々の人々は,お年寄りの兄弟姉妹に対する関心をどのように表わせますか

      □ 高齢の方々は,世話をしてくれる人たちを助けるために何ができますか

      [11ページの囲み記事]

      お年寄りを援助する ― ある人々が行なっていること

      ブラジルのある会衆では,王国会館の近くに住んでいて,体の不自由な兄弟の世話を行なうための便利な方法を思い付きました。王国会館の清掃を割り当てられた書籍研究の群れがその兄弟の家も掃除するのです。

      同じ国の別の会衆は,病弱な兄弟が神権宣教学校を熱心に支持できるようにするための簡単な方法を見いだしました。その兄弟が話をする番が来ると,割り当てられた一人の兄弟が,二,三人の伝道者と一緒にその兄弟を訪問するようにしたのです。祈りをもって短い集会が始まり,病弱の兄弟は自分の割り当ての話をします。それから必要な助言が与えられます。この訪問は実に大きな励ましとなりました。

      旅行する監督たちは率先する点でりっぱな模範を示しています。ある会衆で,車いすから離れることのできない一人のお年寄りの兄弟が非常に怒りっぽくなり,その結果ほとんどだれもその兄弟を訪問しなくなりました。しかし,ある旅行する監督は,スライド講演をその兄弟に個人的に見せる取り決めを設けました。お年寄りの兄弟はスライドを見て感動の涙を流しました。その監督は「わずかな気遣いと愛でもこのような結果を生み出すことができるのを見て,大変報われた思いがしました」と述べています。

      ナイジェリアのある長老たちは,牧羊のため老齢の一人の兄弟を訪問し,その兄弟が重い病気にかかっていることを知りました。兄弟はただちに病院に運ばれました。老齢の兄弟には徹底的な治療が必要であることが分かりましたが,その兄弟には費用が払えませんでした。兄弟の窮状が会衆に知らされると,伝道者たちは治療費を賄うに足るお金を提供しました。仕事の時間が奪われるにもかかわらず,二人の長老が順番に,病院へ通うその兄弟の送り迎えをしました。しかし長老たちは,その兄弟の病気が治り,約4年後に死ぬまで補助開拓奉仕を行なうのを見て,喜びを味わいました。

      フィリピンの一人のお年寄りの姉妹には家族がありませんでした。会衆はその姉妹を世話する取り決めを設けました。それは姉妹が病気であった3年の間続きました。会衆はその姉妹にこぢんまりした住まいを備え,毎日食事を運び,衛生面の世話も行ないました。

      [10ページの図版]

      会衆内の,わたしたちの仲間である年配の方々を敬うことは,だれにでもできる

  • 年老いた両親に対して敬虔な専心を実践する
    ものみの塔 1987 | 6月1日
    • 年老いた両親に対して敬虔な専心を実践する

      「[子供や孫]にまず,自分の家族の中で敬虔な専心を実践すべきこと,そして親や祖父母に当然の報礼をしてゆくべきことを学ばせなさい。これは神のみ前で受け入れられることなのです」― テモテ第一 5:4。

      1,2 (イ)聖書は,年老いた親を世話する責任はだれにあるとしていますか。(ロ)クリスチャンがこの義務をなおざりにするのはどうして重大な事柄ですか。

      幼いころ,あなたはご両親に育てられ,その保護のもとにありました。大人になってからはご両親の助言や支援を求めました。しかし,ご両親は年を取り,だれかの支えを必要とするようになっています。使徒パウロは,「しかし,やもめに子供や孫がいるなら,彼らにまず,自分の家族の中で敬虔な専心を実践すべきこと,そして親や祖父母に当然の報礼をしてゆくべきことを学ばせなさい。これは神のみ前で受け入れられることなのです。当然のことですが,自分に属する人々,ことに自分の家の者に必要な物を備えない人がいるなら,その人は信仰を否認していることになり,信仰のない人より悪いのです」と述べています。―テモテ第一 5:4,8。

      2 今日,幾千幾万というエホバの証人たちが年老いた親の世話をしています。彼らは単なる「親切」(リビングバイブル)や「義務」(エルサレム聖書)からではなく,「敬虔な専心」,つまり神に対する崇敬の念からそのようにしています。困窮している親を見捨てるのは『[クリスチャンの]信仰を否認する』に等しいことを認識しているのです。―テトス 1:16と比較してください。

      親の世話という『自分の荷を負いなさい』

      3 親の世話がまさしく挑戦となる場合があるのはなぜですか。

      3 特に西欧の国々では,年老いた親の面倒を見るのはまさしく挑戦となっています。家族が分散して生活している場合も少なくありませんし,生活費の高騰はとどまるところを知りません。主婦が世俗の仕事を持つことも珍しくありません。そのようなわけで,年老いた親の世話は,とりわけ世話をする人自身がもはや若いとは言えない場合など,大仕事になりかねません。親の世話のために奮闘しているある姉妹は,「私たちは現在50代ですが,子供たちは成人しており,孫もいます。こちらの方にも手が掛かります」と述べています。

      4,5 (イ)聖書は,多くの場合,親の世話という荷をだれが分担できることを指摘していますか。(ロ)イエスの時代,ある人々はどのように自分の両親に対する責任を逃れていましたか。

      4 パウロは「子供や孫」が責任を分担できることを指摘しました。(テモテ第一 5:4)とはいえ,同じ親から生まれた兄弟たちが,親の世話という「自分の荷を負う」ことを渋るときもあります。(ガラテア 6:5と比較してください。)一人の長老は,「私の姉は,この問題から手を引いたばかりです」とこぼしました。しかし,そのような歩みはエホバに喜ばれるでしょうか。イエスがかつてパリサイ人に語った言葉を思い起こしてください。「モーセは,『あなたの父と母を敬いなさい』……と言いました。ところがあなた方は,『もし人が自分の父や母に向かって,「わたしの持つものであなたがわたしから益をお受けになるものがあるかもしれませんが,それはみなコルバン(つまり,神に献納された供え物)なのです」と言うならば』と言います ― あなた方はもはやその人に,自分の父や母のために何一つさせないのです。こうしてあなた方は,自分たちが伝えた伝統によって神の言葉を無にしています」― マルコ 7:10-13。

      5 ユダヤ人が貧しい両親を助けることを意に介さない場合でも,その人は自分の所有物について「コルバン」― 神殿で用いるために取り分けられた贈り物 ― と言うだけですみました。(レビ記 27:1-24と比較してください。)しかし,贈り物とされたその品を直ちに手渡すことが強要されたわけではないようです。ですから,その人は,自分の所有物をいつまでも持っていることができ,またきっとそれを使うこともできたはずです。ところが,両親が経済的な援助を必要としているときでも,自分の所有しているものはすべて「コルバン」だと敬虔ぶって宣言すれば,自分が果たすべき務めを免れることができました。イエスはこの欺まんを非難されたのです。

      6 今日,どんなことが動機となって親に対する務めから逃れる人々がいるかもしれませんか。それは神に喜ばれますか。

      6 ですから,空々しい口実を設けて自分の務めを逃れるクリスチャンも,神を欺くことはできません。(エレミヤ 17:9,10)確かに,経済的な問題,健康の衰え,その他類似の状況のために,両親にしてあげられることは,かなり限られてくるかもしれません。しかし,中には,両親の福祉よりも,もっぱら自分の資産,時間,プライバシーの方を重んじる人もいるでしょう。しかし,神の言葉を宣べ伝えながら,両親の世話を少しもしないことによって神の言葉を「無」にするのは,何と偽善的なことでしょう!

      家族の協力

      7 老齢の親を世話することに関して,家族はどのように協力できますか。

      7 老齢の両親に関連した危機的な状況が生じるときには,家族会議を開くよう勧める専門家もいます。家族の中の一人が責任の大半を担わなければならないかもしれませんが,冷静に,また個人的な感情を交えずに「内密の話し合い」を行なえば,家族が仕事量を分担するための方法を考え出せることがよくあるものです。(箴言 15:22)遠方に住んでいる人なら,金銭面で貢献し,周期的に訪問することができるかもしれません。雑用を行なえる人や,交通手段を提供できる人もいるかもしれません。定期的に親を訪問する約束をするだけでも大きく貢献できるものです。80代の一姉妹は,子供たちの訪問を受けたことについて,「それは,強壮剤のようでした」と述べています。

      8 (イ)全時間奉仕に携わっている家族の成員は,親の世話をする責任を免れていますか。(ロ)全時間奉仕を行なっていたある人々は親に対する責任を果たすために,どの程度努力しましたか。

      8 しかし,家族が微妙な問題に直面すると思われるのは,そのうちの一人が全時間奉仕に携わっているときです。全時間奉仕者たちがそのような責任を逃れることはありません。そして多くの人が親の世話をするために特別な努力を払ってきました。ある巡回監督は次のように語っています。「自分の親の世話をすること,特に全時間奉仕の要求を満たす努力を続けながらそうすることが身体的にも感情的にもどれほどの負担になるか,私たちは全く想像してもいませんでした。実際に私たちは忍耐の限界に達し,『普通を超えた力』の必要性を感じました」。(コリント第二 4:7)そのような人たちをこれからもエホバが支えてくださいますように。

      9 親の世話をするために全時間奉仕を離れざるを得なかった人たちに,どんな励ましを与えることができますか。

      9 しかし,他の可能性を検討しつくした結果,家族の一員が全時間奉仕を離れざるを得ないときもあります。そのような人が,自分の奉仕の特権を手放すことについて複雑な感情を抱くのは当然でしょう。以前に宣教者だったある人は,『すでに老齢に達した病身の母の世話をするのが,クリスチャンの果たすべき責任であることは分かっていましたが,時々ひどく落ち着かない気分になりました』と述べています。とはいえ,『自分の家族の中で敬虔な専心を実践するのは,神のみ前で受け入れられる』ということを忘れてはなりません。(テモテ第一 5:4)また,「神は不義な方ではないので,あなた方がこれまで聖なる者たちに仕え,今なお仕え続けているその働きと,こうしてみ名に示した愛とを忘れたりはされない」ということも思い出してください。(ヘブライ 6:10)長年続けてきた全時間奉仕を離れた一組の夫婦は,「私たちにとって,いま家族の世話をするのは,かつて全時間奉仕を行なったことと同じほど重要だというのが私たちの見方です」と述べています。

      10 (イ)ある人々はどんな理由で,早まって全時間奉仕を離れたかもしれませんか。(ロ)家族は全時間奉仕をどのようにみなすべきですか。

      10 一方,『仕事にも家族にも縛られていないのに,どうしてあなたはお父さんやお母さんのお世話をしないのですか』と親族から言われ,早まって全時間奉仕を離れた人がいるかもしれません。しかし,宣べ伝える業は今日行なうべき最も緊急な業ではないでしょうか。(マタイ 24:14; 28:19,20)ですから,全時間奉仕に携わっている人々は肝要な業を行なっているのです。(テモテ第一 4:16)イエスも,状況によっては神への奉仕が家族の事柄より優先されるかもしれない,と指摘しておられます。

      11,12 (イ)イエスがある男の人に,『死人に自分たちの死人を葬らせなさい』と助言したのはなぜですか。(ロ)家族の一人が全時間奉仕に携わっているある家族は,どのような取り決めを設けましたか。

      11 例えば,イエスの追随者になるようにとの招待を,「まず出かけて行って私の父を葬ることをお許しください」と言って断わった男の人に対して,イエスは,「[霊的な]死人に自分たちの死人を葬らせ,あなたは行って神の王国を広く宣明しなさい」とお答えになりました。(ルカ 9:59,60)ユダヤ人は死んだその日のうちに死人を葬りましたから,この男の人の父親が実際に死んでいたということはなさそうです。その人はただ単に,年老いた父親が死ぬまでそばにいてあげたいと思ったのでしょう。しかしイエスは,世話をする他の親族がいたためと思われますが,この男の人に,「神の王国を広く宣明しなさい」とお勧めになりました。

      12 それと同様に,ある家族も,家族全員の協力があれば,全時間奉仕者がその奉仕を離れなくても親の世話を行なえるよう調整を施せる場合が多いことに気づきました。例えば,全時間奉仕者で,週末や休暇の時期に親を援助した人たちがいます。興味深いことに,親の立場にあるお年寄りで,自分の側にかなりの自己犠牲が求められる時にも,子供たちが全時間奉仕にとどまることを強く願った方はかなりおられます。エホバは王国の関心事を第一にする人々を豊かに祝福してくださるのです。―マタイ 6:33。

      親と同居するときの「知恵」と「識別力」

      13 子供たちとの同居を親に勧めた場合,どのような問題の生じることがありますか。

      13 イエスは,やもめになっていたご自分の母親が信者である親族と共に住むよう取り決めました。(ヨハネ 19:25-27)同様に,多くのエホバの証人たちも親に自分たちと同居することを勧めてきました。その結果,楽しい時を多く持ち,数々の祝福を経験するようになりました。しかし,親を自分の家に迎えたため,生活様式の相違,プライバシーを完全には守れないこと,日々行なう世話から生じる緊張などによって関係者すべてが挫折感を味わうということもよくあります。アンの義母はアルツハイマー病に冒されています。アンは,「母の世話でかなり神経が張り詰めるようになりました。たまに我慢できなくなって,母に冷たい言葉を浴びせるときもありますが,そういう時はひどくやましい気持ちになります」と述べています。

      14,15 このような状況のもとで,「知恵」と「識別力」はどのように家族を『築き上げる』ための助けになりますか。

      14 ソロモンは,「家は知恵によって築き上げられ,識別力によって堅く立てられることになる」と語りました。(箴言 24:3)例えば,アンは,義母の問題にもっと理解ある態度を示すように努めました。「母は病気であって,わざとわがままに振る舞うわけではないことを忘れないようにしました」とアンは述べています。それでも「わたしたちはみな何度もつまずくのです。言葉の点でつまずかない人がいれば,それは完全な人で(す)」。(ヤコブ 3:2)しかし衝突が起こったときには,憤りを募らせたり怒りを燃え上がらせたりするのを避け,知恵を示してください。(エフェソス 4:31,32)家族として問題について話し合い,折り合いをつけたり調整を加えたりする方法を探ってください。

      15 識別力も効果的な対話をするための助けになります。(箴言 20:5)新しい家での日々の生活に自分を合わせてゆくのは,親にとって難しいのかもしれません。あるいは,思慮分別を欠いているためかもしれませんが,非協力的になる傾向もあります。ある状況のもとでは,毅然とした態度で話す以外に方法がないこともあるでしょう。(創世記 43:6-11と比較してください。)「はっきり『だめ』と母に言わないと,母は自分のお金を全部使ってしまうのです」と,ある姉妹は言いました。一方,一人の長老は,自分に対する母親の愛情を活用できる時があることに気づいています。「話しても分かってもらえない時が何度もあります。そういう時にはただ,『母さん,僕のためだからそうしてくれませんか』と言うことにしています。すると母は言うことを聴いてくれます」。

      16 愛のある夫が自分の妻に「識別力」を示すべきなのはなぜですか。どのように示せますか。

      16 多くの場合,親の世話という荷の大半を担うのは妻なので,識別力のある夫は,妻が感情面でも身体面でも霊的な面でも疲れ果ててしまわないよう気を配ります。箴言 24章10節は,「あなたは苦難の日に自分が失望していることを明らかにしたか。あなたの力は乏しくなる」と述べています。妻の熱意を新たにさせるため,夫には何ができるでしょうか。ある姉妹は,「夫は家に帰ってくると,私の体に手を回し,どれほど君に感謝しているか分からない,と言ってくれます。夫がいてくれなければ,私にはとてもできなかったでしょう」と語っています。(エフェソス 5:25,28,29)それに加え,夫は配偶者と共に聖書を研究し,共に定期的に祈ることができます。そうです,このような困難な状況のもとでも,家族を『築き上げる』ことができるのです。

      老人ホームでの世話

      17,18 (イ)ある家族は,やむなくどんな措置を講じましたか。(ロ)そのような場合,成人している子供は,親が順応できるようどのように助けることができますか。

      17 一老人病学者は,「家で[親の]面倒を見るだけの専門知識もお金もない,という状況に遭遇する家族もある」と述べています。ある夫が語っている通りです。「母に24時間看護を行なおうとしたため,妻は健康を害するようになりました。母を老人ホームに入れる以外に道がありませんでした。しかし,そうしなければならなかったので心苦しく感じました」。

      18 そうした状況のもとで活用できるものとしては,老人ホームで受けられる世話が最善かもしれません。しかし,そのような施設に入れられた高齢者は,自分は見捨てられたと感じて当惑し,取り乱すことが多いのです。ある姉妹 ― 仮にグリータと呼ぶことにしましょう ― は,「母にはこうしなければならなかった理由をていねいに説明しました。母は順応することを学び,今ではそこを自分の家とみなしています」と述べています。定期的に訪問することも,順応するための親の苦労を軽減する方法であり,親に対する愛の純真さの証明となります。(コリント第二 8:8と比較してください。)遠いことが問題ならば,電話をかけたり,手紙を出したり,周期的に訪問したりして接触を保ちましょう。(ヨハネ第二 12と比較してください。)とはいえ,世俗の人々に囲まれた生活に不利な点があることは明らかです。『彼らの霊的な必要を意識して』ください。(マタイ 5:3)グリータは「私たちは母のために読み物を準備し,できるだけ霊的な事柄について話し合うようにしています」と述べています。

      19 (イ)老人ホームでの世話の選択と調査に当たって,どのような注意を払うべきですか。(ロ)親の世話をするために力を尽くすなら,クリスチャンにはどのような益が及びますか。

      19 ウォールストリート・ジャーナル紙は,米国の406の老人ホームに関する調査結果を発表しましたが,それらの施設のうち,「約5分の1は,居住者が危険にさらされる可能性があるものとみなされ,かろうじて半数が最低基準に達しているにすぎなかった」ということです。残念なことに,そのような嘆かわしい報告は少しも珍しくありません。したがって,老人ホームでの世話が必要な場合には,入念に選ばなければなりません。個人的にそこを訪ね,清潔でよく管理されているか,資格ある職員が配属されているか,雰囲気は家庭的か,きちんとした食事が出るか,といったことを調べてください。自分の父親や母親がどんな世話を受けるのかをできるだけ詳しく調査します。親の代弁者となり,この世の祭日やレクリエーションに関連して起こると思われる扱いにくい状況を避けるよう親を助けてください。親がそのような状況のもとで最善の世話を受けられるよう,あなたが力を尽くすなら,さもなくばあなたを悩ますことになりかねない罪悪感から解放されるでしょう。―コリント第二 1:12と比較してください。

      快く与え,快く受ける

      20 子供たちが快く与える人になるのはなぜ大切ですか。

      20 自分の親たちの面倒を見ることについて,一人のクリスチャンの婦人は,「難しいですね。親のために料理をし,掃除をし,泣いてばかりいる時期にはそれに対処し,失禁したらシーツを替えなければなりませんでした」と述べています。その夫は,「でも,何をしてあげるときでも,喜んで,進んで行ないました。私たちが世話をしなければならないことを不愉快に思っていると親が感じないように,一生懸命努力しました」と述懐しています。(コリント第二 9:7)高齢者はしばしば援助されるのを嫌がり,他の人々の荷となるのを好みません。ですから,あなたの示す態度は非常に重要になります。

      21 (イ)親はどのように快く受ける人になれますか。(ロ)親が老後の計画を前もって立てておくのはなぜ賢明なことですか。

      21 同時に,親が示す態度も重要です。ある姉妹は,「母に何をしてあげても,母は決して満足しませんでした」と回想しています。ですから,親の皆さんは道理をわきまえない態度や過度の要求を避けてください。結局,「子供が親のためにではなく,親が子供のために蓄えておくべきなのです」と聖書は述べています。(コリント第二 12:14)親の中には財産を浪費し,子供たちの余計な荷となっている人もいますが,箴言 13章22節には「善良な者は子らの子たちに相続物を残(す)」と記されています。このように親は可能な範囲で事前に老後の計画を立て,資金を取り分けておき,自分自身が世話を受ける時のための何らかの準備をすることができます。―箴言 21:5。

      22 年老いた親の世話をするために自分が払う努力を,どのようにみなすべきですか。

      22 パウロは適切にもこの問題について,親の世話をすることは「当然の報礼」であると述べました。(テモテ第一 5:4)ある兄弟が語っている通りです。「母は20年間,私の世話をしてくれました。それに比べたら,私は一体どれほどのことをしてきたでしょうか」。同様に,年老いた両親を持つすべてのクリスチャンが,親を敬う人々に対して,『あなたは地上で生き永らえる』と約束しておられる神から豊かな報いを得ることを理解し,心に促されて『自分の家で敬虔な専心を実践する』ことができますように。―エフェソス 6:3。

      記憶にとどめるべき要点

      □ イエスの時代のある人々は,どのようにして自分の親に対する責任を逃れようとしましたか

      □ 年老いた親の世話はだれが行なうべきですか。なぜそう言えますか

      □ 親と同居するとき,家族はどのような問題を経験することがありますか。それらの問題をどのように克服できますか

      □ どんな理由で老人ホームでの世話が必要になるかもしれませんか。それに順応できるよう,どのように親を助けることができますか

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