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1 なぜ?ものみの塔 2010 | 10月1日
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1 なぜ?
祈りは聖書に関連した論題の中でも,とりわけ興味や好奇心を誘います。ご一緒に,祈りについて人々がよく尋ねる七つの質問と,聖書が示す答えを確かめてみましょう。この一連の記事は,祈りに関して役立つ情報を提供しています。祈りをしようと思う方にも,自分の祈りをさらに意味あるものにしたいと思う方にも,助けとなるでしょう。
世界各地で,文化圏や宗教にかかわらず,人は祈るものです。独りで祈ることもあれば,人々が集まって祈ることもあります。教会,礼拝堂,寺院や神社などで祈ります。人々は祈祷用の敷物,ロザリオや数珠,祈り車,イコン,祈祷書などを用いたり,願い事を記した絵馬を掲げたりします。
人間は,祈るという点で,他の生き物とは大きく異なります。確かに動物との共通点も多く,水や食べ物や空気を必要とします。また,誕生してから生き続け,やがて死を迎えるという点では,動物と変わるところがありません。(伝道の書 3:19)しかし,人間だけが祈ります。なぜでしょうか。
最も簡潔な答えはおそらく,人間にはその必要がある,というものでしょう。祈りは一般に,人が神聖とみなす不滅の超自然的な対象に意思を伝える手段とされています。聖書は,人間にはそのような願望が備わっていることを示しています。(伝道の書 3:11)イエス・キリストはかつて,「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです」と言いました。―マタイ 5:3。
「霊的な必要」があるからこそ,どこに行っても宗教的な建造物や物品が見られ,人々は祈りのために長い時間を割くのではありませんか。中には自分自身で,あるいは他の人に頼って霊的な必要を満たそうとする人もいます。とはいえ,人間には多くの点で限界があり,それだけの力はないと,感じることはありませんか。人間はもろく,短命で,ずっと先まで物事を見通すことはできません。わたしたちの必要を満たせるのは,知恵や力の点ではるかに勝り,人間よりも長く生きる方だけです。そもそも,祈りたいという気持ちを起こさせる霊的な必要とはどんなものでしょうか。
考えてみてください。あなたも導きや知恵,また人に尋ねても答えが得られないような疑問の答えを切実に求めたことがありますか。大きな喪失感を埋めてくれる慰めを得たい,難しい決定を下すための導きが欲しい,これ以上罪の意識にさいなまれないよう許しを得たいと強く願ったことがありますか。
聖書によれば,ここに挙げたのはどれも祈るにふさわしい状況です。祈りという論題について最も信頼できる本は聖書であり,そこには信仰の厚い人々がささげた祈りの言葉が収められています。彼らは慰めや導きや許しを求めて,また理解しがたい疑問の答えを求めて祈りました。―詩編 23:3; 71:21。ダニエル 9:4,5,19。ハバクク 1:3。
こうした祈りは内容が異なっていたとはいえ,共通点があります。祈った人たちはみな,聞き届けられるための条件を満たしていました。今の世界でしばしば見過ごされ,軽く見られる点ですが,それらの祈りをささげた人は,だれに祈るべきかを心得ていたのです。
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2 だれに?ものみの塔 2010 | 10月1日
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2 だれに?
すべての祈りは,その対象がどんなものであっても,同じところに達するのでしょうか。達するというのが,今日の世界で受けのよい考えです。宗教間の交流に賛同し,異なるどの宗教も良いものだと考える人に好まれる見方です。ですが,本当にそうなのでしょうか。
実際には,非常に多くの祈りが間違った対象に向けられている,ということを聖書は示しています。聖書が記された昔の時代に,人々が彫刻像に祈ることは珍しくありませんでした。しかし,神はそのような習わしに用心するよう繰り返し語っておられます。例えば,詩編 115編4-6節は偶像について,「耳はあっても,聞くことはできない」と述べています。要点は明確です。祈りを聞くことのできない“神”に祈っても意味はないのです。
この点を裏書きする,聖書の印象深い記述があります。真の神の預言者エリヤは,バアル神の預言者たちに対して,自分たちの神に祈るよう挑みました。一方エリヤは,自分の神に祈ることにします。エリヤは,真の神は祈りに答え,偽りの神は答えないはずだと言います。バアルの預言者たちはその挑戦を受け入れ,長い時間懸命に祈り,大きな叫び声も上げますが,効果はありませんでした。「答える者もなく,注意が払われることもなかった」と記されているとおりです。(列王第一 18:29)では,エリヤの場合はどうでしたか。
エリヤが祈った後,エリヤの神は即座に答え,天から火を下らせ,エリヤが用意した捧げ物を焼き尽くしました。何が違いを生じさせたのでしょうか。エリヤの祈りの言葉そのものに,重要な手掛かりがあります。列王第一 18章36,37節の言葉です。それはとても短い祈りで,原語のヘブライ語ではわずか30語ほどの祈りです。ですがその中でエリヤは,神の固有名エホバを3回用いて呼びかけています。
バアルは,「所有者」また「主人」という意味を持つ,カナン人の神で,それぞれの土地に,その土地のバアルが存在していました。しかし,エホバはたぐいのない名であり,全宇宙でエホバと呼べる方はただひとりしかおられません。この神は,ご自分に仕える民にこう語りました。『わたしはエホバである。それがわたしの名である。わたしはわたしの栄光をほかのだれにも与えない』。―イザヤ 42:8。
エリヤの祈りも,バアルの預言者たちの祈りも,結局は同じところに達したのでしょうか。バアル崇拝は儀式上の売春や人身供犠をさえ伴い,人々を堕落させました。それとは対照的に,エホバの民であるイスラエル人は,エホバを崇拝することで品格を保ち,人を堕落させる習わしの影響を受けずに済みました。次のようにも考えてください。非常に尊敬する友人に読んでもらいたくて,あなたが手紙を書いたとします。その手紙を,その友人とは別人の,評判の悪い人を宛先として送ったりしますか。もちろん,しないでしょう。
エリヤがバアルの預言者たちに行なった挑戦は,すべての祈りが同じところに達するわけではないことを明らかにしている
エホバに祈るなら,創造者,また人類の父である方に祈っていることになります。a 預言者イザヤも祈りの中で,「エホバよ,あなたはわたしたちの父なのです」と述べています。(イザヤ 63:16)イエス・キリストは弟子たちに,「わたしは,わたしの父またあなた方の父のもとへ,わたしの神またあなた方の神のもとへ上る」と語った際,まさにエホバに言及していました。(ヨハネ 20:17)エホバはイエスの父です。イエスはこの神に祈りをささげ,また弟子たちにもこの神に祈るよう教えました。―マタイ 6:9。
聖書は,イエスやマリアや聖人や天使に祈るようにと述べていますか。いいえ,エホバだけに祈るようにと述べています。二つの理由を考えてみてください。第一に,祈りは崇拝の行為であり,聖書によれば崇拝はエホバにのみささげるべきです。(出エジプト記 20:5)第二に,聖書はエホバが「祈りを聞かれる方」という称号を持っておられることを示しています。(詩編 65:2)エホバは多くの物事を他者にゆだねておられますが,祈りを聞く責務はだれにもゆだねたことがありません。神は祈りについては,ご自身で聞くことを約束しておられるのです。
あなたも祈りが神に聞かれることを願っていますか。そうであれば,「エホバの名を呼び求める者はみな救われるであろう」という聖書の勧めを忘れないでください。(使徒 2:21)しかし,エホバはどんな祈りも無条件でお聞きになるのでしょうか。祈りをエホバに聞いていただくために知っておくべき点がほかにもありますか。
a ある宗教上の伝統は,神の固有名を発音するのは間違いであり,祈る時でさえ発音すべきではないとしています。しかし,神の名は聖書中に原語で約7,000回見られ,エホバの忠実な僕たちによる祈りや詩の中で多く用いられています。
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3 どのように?ものみの塔 2010 | 10月1日
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3 どのように?
祈りという点で,多くの宗教的な伝統は形を重んじ,姿勢や言葉遣いや作法などに注意を向けます。しかし,「どのように祈るべきか」という質問に対して,聖書はもっと重要な面に注意を向けています。
聖書は,神の忠実な僕たちがさまざまな場面や姿勢で祈ったことを示しています。状況により,無言で祈った人もいれば,声に出して祈った人もいます。空を見上げて祈ることも,頭を垂れて祈ることもありました。像や数珠や祈祷書の助けを借りて祈るのではなく,自分の言葉で心から祈りました。その祈りが聞かれたのはなぜですか。
前の記事で確かめたとおり,彼らはただひとりの神であるエホバに祈りました。もう一つの重要な要素があります。ヨハネ第一 5章14節にはこう記されています。「わたしたちは神に対してこのような確信を抱いています。すなわち,何であれわたしたちがそのご意志にしたがって求めることであれば,神は聞いてくださるということです」。祈りは,神のご意志と調和したものでなければなりません。それはどういう意味でしょうか。
神のご意志に調和して祈るには,そのご意志をまず知る必要があります。ですから,祈りが聞かれるうえで,聖書を学ぶことは欠かせません。それは,聖書学者のようにならなければ祈りは聞かれないという意味でしょうか。そうではありません。それでも神は,わたしたちが神のご意志を見極め,それを理解しようと努め,ご意志に沿って行動することを求めておられます。(マタイ 7:21-23)学んだ事柄に調和した祈りをする必要があるのです。
神に聞かれる祈りは,神のご意志に調和し,信仰を抱き,イエスの名によってささげられる
エホバとそのご意志について学ぶにつれ,信仰も強くなります。これも祈りの肝要な要素です。イエスは,「あなた方は,信仰を抱いて祈り求めるものすべてを受けるのです」と述べました。(マタイ 21:22)信仰を抱くとは,何でも鵜呑みにするという意味ではありません。見えなくても,非常に強い証拠の裏づけがあるものを信じるという意味です。(ヘブライ 11:1)聖書には,目に見えない方であるエホバが実在し,信頼でき,ご自分に信仰を抱く人たちの祈りに進んで答えてくださるという証拠が豊富に収められています。そのうえ,信仰をさらに与えてくださるよう,いつでも求めることができます。エホバも,必要なものを快く与えてくださいます。―ルカ 17:5。ヤコブ 1:17。
祈りに関して,欠かせないもう一つの面があります。イエスは,「わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません」と語りました。(ヨハネ 14:6)したがって,イエスを通して祈ることで父エホバに近づけるのです。イエスが自分の名によって祈るよう弟子たちに述べたのはそのためです。(ヨハネ 14:13; 15:16)これは,イエスに祈るべきであるという意味ではありません。むしろ,イエスのおかげで完全で聖なる父に近づけるということを心に留め,イエスの名によって神に祈るのです。
イエスのごく近しい弟子たちはかつて,『主よ,わたしたちにも祈りの仕方を教えてください』とイエスに求めました。(ルカ 11:1)弟子たちは,ここまでの記事で取り上げたような基本的な事柄を尋ねていたのではないはずです。むしろ,祈りの内容について尋ねていました。つまり,『どんなことを祈るべきですか』と言っていたのです。
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4 どんなことを?ものみの塔 2010 | 10月1日
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4 どんなことを?
それはクリスチャンがささげる祈りの中で,最も多く繰り返されてきたものと言われています。そう言えるかどうかは別として,「主の祈り」とも呼ばれるイエスのその模範的な祈りについて正しく理解していない人が多いことは確かです。数多くの人がその祈りを毎日そらで唱え,一日に何度も口にする人もいます。しかし,イエスはこの祈りがそのようにささげられることを意図してはいませんでした。なぜそう言えるのでしょうか。
イエスはこの祈りについて語るに先立って,「祈る際には,……同じことを何度も繰り返し言ってはなりません」と述べました。(マタイ 6:7)イエスは自分の勧めに反して,暗記し繰り返すべき決まり文句を示したのでしょうか。そのようなはずはありません。むしろ,どんなことについて祈るべきかを教え,祈る際に覚えておくべき優先順位を定めておられたのです。ここでイエスの言葉を詳しく見てみましょう。マタイ 6章9-13節の祈りです。
「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように」。
ここでイエスは弟子たちに,父エホバだけに祈るべきであることを銘記させました。ところで,神のお名前はなぜそれほど重要で,神聖なものとされるべきか,ご存じですか。
人間の歴史が始まった時から,神の神聖なお名前は偽りによって汚されてきました。神に敵対するサタンは,エホバを偽り者と呼びました。神は利己的な支配者で,創造したものを統治する正当な権利を持ってはいないととなえたのです。(創世記 3:1-6)多くの人がサタンの側に付き,神は冷たく残酷で,復讐心に燃えていると教えてきました。そして,神はそもそも創造者ではないと述べてきました。さらに,神のお名前そのものに攻撃を加え,エホバという名を聖書翻訳から取り除き,その使用を禁じてきた人たちもいます。
聖書は,神がこうした不公正をすべて正されることを示しています。(エゼキエル 39:7)また,そうすることにより,わたしたち人間の必要を満たし,抱える問題すべてを解決してくださいます。どのようにでしょうか。イエスの祈りの続く言葉が答えとなります。
「あなたの王国が来ますように」。
今日,宗教の教師たちの間で,神の王国という論題をめぐって多くの混乱が見られます。しかし,イエスの話を聞いた人たちも知っていたとおり,神の預言者たちは昔からメシア,つまり神に選ばれた救い主が王国を支配することを予告していました。その王国は世界を変えます。(イザヤ 9:6,7。ダニエル 2:44)王国はサタンの偽りを暴き,それに続いてサタンとそのすべての業を覆すことにより,神のお名前を神聖なものとします。神の王国は戦争,病気,飢きんを終わらせ,死を除くことさえします。(詩編 46:9; 72:12-16。イザヤ 25:8; 33:24)神の王国が来るよう祈る時,こうした約束すべてが実現するよう祈っていることになります。
「あなたのご意志が天におけると同じように,地上においてもなされますように」。
イエスのこの言葉から,神のご意志が地上でなされるのは,神の住まいである天におけると同様に確実であることが読み取れます。これまで天で神のご意志は阻まれることなく,なされてきました。神のみ子は天でサタンとその配下の霊者たちと戦い,彼らを地に投げ落としました。(啓示 12:9-12)模範的な祈りのこの三つ目の請願は,最初の二つと同じく,最も重要な事柄,すなわち自分の意志ではなく神のご意志に焦点を合わせておくための助けとなります。創造物すべてに常に最大の益をもたらすのは,神のご意志です。ですから,完全な人であったイエスも,み父に対して,「わたしの意志ではなく,あなたのご意志がなされますように」と述べたのです。―ルカ 22:42。
「今日この日のためのパンをわたしたちにお与えください」。
イエスは次に,個人的な事柄も祈りに含められることを示しました。日常の必要物を与えてくださるよう祈るのは,全く差し支えありません。事実,そう祈ることにより,エホバが「すべての人に命と息とすべての物を与えておられる」ことを銘記できるのです。(使徒 17:25)聖書はエホバが,子どもが必要とするものを喜んで与える愛情深い親であることを明らかにしています。とはいえ,良い親と同じく,子どもの最善の益を損なうような願いをかなえたりはされません。
『わたしたちの負い目をお許しください』。
人間は神に対して本当に負い目があるのでしょうか。神の許しを必要としていますか。今日,多くの人は罪を負っていることや,それがいかに重大なことであるかを意識していません。しかし聖書は,人間の抱える悲惨な問題の根底に罪があることを教えています。罪は人間が死ぬ基本的な原因だからです。生まれた時から罪ある存在であるわたしたちはしばしば罪を犯します。そのため,将来いつまでも生きるという希望の実現は,ひとえに神の許しにかかっています。(ローマ 3:23; 5:12; 6:23)聖書が述べる次の事柄を知ると気持ちが楽になります。『エホバよ,あなたは善良で,進んで許してくださいます』。―詩編 86:5。
『わたしたちを邪悪な者から救い出してください』。
あなたは神の保護が,緊急に,また切実に必要であることに気づいておられますか。多くの人は,「邪悪な者」サタンの存在を信じていません。しかしイエスは,サタンが実在することを教え,「この世の支配者」とさえ呼んでいます。(ヨハネ 12:31; 16:11)サタンは自分の勢力下にあるこの世界を腐敗させており,あなたも腐敗させようと躍起になっています。み父であるエホバとの緊密な関係を培わせまいとしているのです。(ペテロ第一 5:8)しかし,エホバはサタンよりもはるかに強い方であり,ご自分を愛する人たちを喜んで保護してくださいます。
イエスの模範的な祈りの要点をざっと取り上げましたが,祈るにふさわしい論題がすべて扱われたわけではありません。ヨハネ第一 5章14節には,「何であれわたしたちがそのご意志にしたがって求めることであれば,神は聞いてくださる」と述べられていました。ですから,自分の悩みは取るに足りないので神のみ前に持ち出すのは気が引ける,と思う必要はありません。―ペテロ第一 5:7。
では,祈る時と場所についてはどうですか。それは重要な点でしょうか。
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5 いつ,どこで祈るかは重要かものみの塔 2010 | 10月1日
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5 いつ,どこで祈るかは重要か
あなたもお気づきかもしれませんが,主要な宗教の多くは凝った造りの礼拝堂を重視しています。一日のうち祈りをささげる時間を定めている宗教もあります。聖書は祈りをささげる場所や時間を限定していますか。
聖書は,祈るのにふさわしい機会があることを示しています。例えばイエスは,弟子たちと食事をする前に,神に感謝の祈りをささげました。(ルカ 22:17)さらに,イエスの弟子たちは崇拝のために集まった時も一緒に祈りました。こうして彼らは,長年ユダヤ人が会堂やエルサレムの神殿で行なってきた慣行に倣いました。神が意図しておられたのは,その神殿が「あらゆる国民のための祈りの家」となることでした。―マルコ 11:17。
神の僕たちが集まって一緒に祈る時,その請願には効果があります。人々が気持ちを一つにし,皆を代表する人のささげる祈りが聖書の原則に沿ったものであるなら,神は喜ばれます。神がその祈りに動かされ,さもなければ行なわなかった事柄を行なってくださることさえあります。(ヘブライ 13:18,19)エホバの証人は集会の際にいつも,皆で祈ります。どうぞお近くの王国会館においでになり,どんな祈りがささげられているか,お聞きになってください。
それでも聖書は,祈りをささげる時間や場所を限定してはいません。神の僕たちが時間や場所にかかわりなくささげた祈りが聖書に記されています。イエスはこう述べました。「あなたが祈るときには,自分の私室に入り,戸を閉じてから,ひそかなところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば,ひそかに見ておられる父があなたに報いてくださるでしょう」。―マタイ 6:6。
祈りは,いつでも,どこでもささげることができる
これは心強い勧めではないでしょうか。宇宙の主権者である神にいつでも,プライバシーを保ちながら近づけるのです。しかも,神が注意を払ってくださることを確信できます。イエスが祈るため,しばしば独りになろうとしたのも理解できます。ある時には一晩じゅう神に祈りました。非常に重要な決定を下すための導きを求めたのでしょう。―ルカ 6:12,13。
男女を問わず,聖書中の他の人物も,重要な決定を迫られたり問題に圧倒されそうになったりした時に祈りました。声に出して祈ることもあれば,無言で祈ることもありました。他の人たちと祈ることも,独りで祈ることもありました。大切なのは,彼らが祈ったことです。神はご自分の僕たちに,「絶えず祈りなさい」という勧めさえ与えておられます。(テサロニケ第一 5:17)ご意志を行なう人がささげる祈りに制限を設けてはおらず,快く聴いてくださるのです。これは愛情深い勧めではないでしょうか。
とはいえ,物事を疑う傾向が見られる今日の世界で,祈りに実際的な価値があるかどうかをいぶかる人は少なくありません。そのため,『祈りは本当に自分の助けになるだろうか』という疑問が生じるかもしれません。
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6 助けになるかものみの塔 2010 | 10月1日
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6 助けになるか
祈ることには益があるのでしょうか。あります。聖書は神の忠実な僕たちが祈ることから実際に益を得ることを示しています。(ルカ 22:40。ヤコブ 5:13)実のところ,祈りは霊的にも感情的にも大きな益を及ぼし,身体面にさえ良い影響を与えます。なぜそう言えるのでしょうか。
あなたのお子さんがプレゼントをもらったとしましょう。感謝の気持ちを持つだけで十分だと教えますか。それとも,感謝を伝えるよう教えるでしょうか。大切な気持ちを言葉に表わすと,その気持ちに注意が向き,それを強めることにもなります。神に語りかけることについても,これは確かに当てはまります。幾つかの例を取り上げましょう。
感謝の祈り。自分が受ける良い事柄について天の父に感謝するなら,得ている祝福に注意が向きます。結果として感謝が深まり,いっそう幸福になり,積極的な思いが持てるでしょう。―フィリピ 4:6。
例: イエスは,父が祈りを聞き,こたえ応じてくださったことに感謝を表わしました。―ヨハネ 11:41。
許しを願う祈り。神に許しを求めるなら,自分の良心を強め,悔い改めの思いを深め,犯した罪の重大さをはっきり意識するようになります。さらに,罪悪感の重圧から解放されます。
例: ダビデは悔い改めと悲しみを表わす祈りをささげました。―詩編 51編。
導きと知恵を求める祈り。エホバに導きや,良い決定を下すのに必要な知恵を授けてくださるよう祈るなら,真の謙遜さを持てます。さらに,自分の限界をわきまえ,天の父に対する信頼を強めることができます。―箴言 3:5,6。
例: ソロモンは,イスラエルを治めるための導きと知恵を謙遜な態度で求めました。―列王第一 3:5-12。
苦難に面した時の祈り。感情面で動揺する時に神に心を注ぎ出すなら,気持ちが落ち着き,自分ではなくエホバに頼るようになります。―詩編 62:8。
例: アサ王は,圧倒的に強い敵が迫ってきた時に祈りました。―歴代第二 14:11。
困っている人のために祈る。そうすることで利己的な傾向を抑え,同情心や思いやりを深めることができます。
例: イエスは弟子たちのために祈りました。―ヨハネ 17:9-17。
賛美の祈り。エホバをそのすばらしいみ業や特質ゆえに賛美するなら,敬意や感謝の念は深まります。さらに,神であり父でもある方にいっそう引き寄せられるでしょう。
例: ダビデは神の創造物に感動し,熱烈に神を賛美しました。―詩編 8編。
祈りに関連したもう一つの益は,「一切の考えに勝る神の平和」を持てることです。(フィリピ 4:7)問題の多い世の中で平静でいられることは,たぐいまれな祝福です。それは身体面でも益となります。(箴言 14:30)しかし,祈りのこうした益は,専ら本人の努力の結果なのでしょうか。それとも,もっと重要な点が関係していますか。
祈りには身体面,感情面,そして何よりも霊的な面で多くの益がある
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7 神は答えてくださるかものみの塔 2010 | 10月1日
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7 神は答えてくださるか
この質問は期待と好奇心を大いに誘います。聖書は,エホバが今日でも祈りに確かに耳を傾けてくださることを示しています。祈りが聞かれるかどうかは,かなりの程度,わたしたちにかかっています。
イエスは,偽善的な祈りをささげる同時代の宗教指導者たちを糾弾しました。その人たちは,自分の信心深さを印象づけることにしか関心がなかったからです。イエスはそれらの人が「自分の報いを全部」受けると言われました。それは,彼らがいちばん欲している他の人の注目は集めるものの,神に聞いていただくという本当に必要なものは得られない,という意味です。(マタイ 6:5)今日でも,神のご意志を考えずにただ自分の意志のままに祈る人は少なくありません。その人たちは,ここまで取り上げた聖書の原則を無視しているので,神に聞いていただくことはできません。
あなたの場合はいかがですか。神は祈りを聞き,それにこたえ応じてくださるでしょうか。わたしたちの人種や国籍や社会的な立場は問題ではありません。聖書は,『神は不公平な方ではなく,どの国民でも,神を恐れ,義を行なう人は神に受け入れられる』と保証しています。(使徒 10:34,35)あなたも,このような人の一人ですか。神を恐れているなら,神を最も重んじ,神の不興を買うことを恐れるでしょう。義を行なうなら,自分や他の人の意志のままに行動するのではなく,神が正しいと述べる事を行なおうとします。神に祈りを本当に聴いていただきたいと思いますか。そのために何ができるかを聖書は示しています。a
神が奇跡によって祈りに答えてくださることを望む人は少なくありません。しかし,聖書時代にも神が奇跡を行なうことはまれでした。聖書に記されている一つの奇跡が起きてから,次の奇跡が起きるまでに数世紀が経過している例もあります。さらに聖書は,使徒たちの時代の後に奇跡は行なわれなくなることを示唆しています。(コリント第一 13:8-10)では,神は今日,祈りに答えてくださらないのでしょうか。そうではありません。神が答えてくださる祈りの例を挙げましょう。
神は知恵を授けてくださる。エホバは真の知恵すべての究極の源です。エホバは寛大に知恵を授ける方で,神の導きを望み,それに従って生きようとする人に惜しみなく知恵を与えてくださいます。―ヤコブ 1:5。
神はさまざまな恩恵を伴う聖霊を与えてくださる。聖霊は神の活動する力です。それよりも強い力はありません。聖霊は試練に耐えるよう助けてくれます。悩みを抱えた時にも,聖霊の助けによって心が平安で満たされます。その助けによって,美しく魅力的な他の特質を培えます。(ガラテア 5:22,23)イエスは弟子たちに,神が聖霊という賜物を寛大に与えてくださることを保証しました。―ルカ 11:13。
神はご自分を切に求める人たちに啓発をお与えになる。(使徒 17:26,27)真理を誠実に探す人たちは世界じゅうにいます。その人たちは,神について知りたいと思っています。神のお名前は何か,地球と人類に関して神はどんな目的を持っておられるのか,どうすれば神に近づけるかといった点を知ろうとしています。(ヤコブ 4:8)エホバの証人はしばしばそのような人に出会い,これらの問いに対する聖書の答えを喜んで伝えています。
あなたがこの雑誌を受け取ったのは,真理を探し,神について知りたいと思っておられるからですか。この雑誌を手にしたことが,あなたの祈りに対する神からの答えなのかもしれません。
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