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目ざめよ! 1975
目75 1/8 8–13ページ

いつ,どこで問題は始まったか

この地球は,本当に喜びの多い住まいとなり得ます。今日のすべての問題の中にあっても,たいていの人は生活からある程度の喜びを得ています。人々が自分の命を失わないようにほとんどどんな事でもするのはそのためです。生きるのをつらいと考え,「あきらめて」死を選ぶのは,まだ地上の40億近い人々のほんの少部分にすぎません。

しかし,人類全体としては純粋の幸福をとらえてはいません。最も恵まれた状況の下でも良くない事がいろいろと持ち上がり,人々の喜びを阻み,不安,心配,欲求不満などをかもし続けています。また,時には激しい失望,残酷なまでの心痛,落胆などを引き起こしている場合もあります。こうしたよくない事態は執ように続いており,容易には除き去れないように見えます。それは限りを知らず,どんな所にいる人々の生活にも及んでいます。今日,はなはだしいまでのよくない状態が,わたしたちすべてに対する大きな脅威となっています。

人類自体に,どこか「調子が悪く」,ぐあいの悪い所があるように思えます。それはなんでしょうか。それは,どこかで,いつの時か始まったに違いありません。どこで,そして,いつそれは始まりましたか。

一つの家族としての問題

歴史書を読んで,時の流れを一世紀ずつさかのぼって行くと,そのどこにも暴力・犯罪・戦争・圧制・貧困・飢え・病気などの証跡が見られ,やがてそうした歴史書が何も述べていない遠い昔に至ります。そうした歴史は,それぞれの国また民族ごとに展開してはいても,わたしたちすべてがただ一つの家族に属していることを示しています。現代の科学はこの点を認めています。人類学者M・F・アシュレー・モンターギュが述べるとおりです。

「人間の仲間にはいろいろの変種があっても,そのすべては同一の種に属し,遠い時代の同一の先祖から出ている。これは,比較解剖学,古生物学,血清学,遺伝学などの明白な証拠すべてに基づく結論である。遺伝学的な点だけから見ても,さまざまな人種が別々に発生したとはとうてい考えられない」。

そうです,人類は一つの家族です。過去のいずれかの時点までさかのぼれば,わたしたちすべては同一の親を持っていたのです。国連教育科学文化機関(ユネスコ)の発行した一出版物はこう述べます。

「ずっと昔まで幾百世代も,さかのぼるならば,我々すべては同じ所に達するであろう。それは人類の系統樹の根元である……我々人類の共通の先祖をアダムと呼んでもよいであろう。アダムとはヘブライ語で人間という意味であり,アダムに関する聖書のなじみ深い物語は,現代人が共通の先祖から来たという科学上の発見をあらかじめ示していたからである」。

人類の初めにまでさかのぼる唯一の史料

一般の歴史書は,人間の始まりにまでさかのぼっていません。その記録は西暦前3,000年ごろで尽きています。しかし,ずっと最初にまでさかのぼる歴史的な記録があります。それは聖書です。あなたはまだそれをお調べになったことがないかもしれません。そうでしたら,聖書が年代の明確な,連続した歴史を伝えており,この点で他の古代の記録類や聖典と呼ばれるものと比較にならないということに気づいておられないかもしれません。その記録はきわめて完全かつ包括的です。それゆえ,医師ルカなど一世紀の歴史家は,ナザレのイエスの系図をたどり,一人一人名前を挙げながら最初の人間アダムにまで4,000年もさかのぼることができました。―ルカ 1:1-4; 3:23-28参照。

聖書は,人類のいっさいの苦悩がどのようにして始まったか,なぜまたどのようにしてそれが人類家族全体の,継続的かつ人間には消し去れない共通の相続物となったかをも告げています。他の歴史書や聖典はそれを教えていません。他のよりどころがない以上,わたしたちは人類の苦悩と無秩序の原因に関する質問の答えをどこに求めるべきでしょうか。歴史的なよりどころに答えを求められないなら,わたしたちには何が残るでしょうか。人間の見解と憶測だけです。しかも,それには大きな食違いと不一致があるのです。人が生きてゆくうえで最も複雑なこの問いの重大性を考え,わたしたちは聖書の提出する情報を進んで考慮すべきです。そこに述べられていることがいかに道理にかなったものであるかを調べてください。

人類の完全な出発

聖書は,神が最初の人間夫婦アダムとエバを,肉体的にも精神的にも完全な被造物として創造したことを示しています。聖書が「そのみ行為は全く」と述べている方からそれ以外の何を期待できるでしょうか。(申命 32:4)聖書の記録は,その最初の夫婦に対する神の,父親のような配慮と関心について述べています。今日,人間の親は自分の子どもが生まれる前にあらかじめいろいろな準備をし,家族のその新しい成員のためにいろいろな物事を整えます。同じように神がご自分の最初の人間の息子と娘のために注意深い準備をされたことを,聖書は細かに述べています。神は彼らを,沼地や洞くつ,荒野や密林のような所にではなく,公園のような地域に置いてその生活を出発させました。それはさまざまな実を結ぶ木や他のいろいろな木があり,実際に植物園のような所でした。そこで飢えを感じる必要は全くありませんでした。神は彼らに意義のある仕事を与え,その前に,励みとなる実現可能な目標を置かれました。それは,彼らがやがてもうける多くの子孫の助けを得て,その公園のような状態を全地に広げてゆくことでした。―創世 1:26-28; 2:7-9,15参照。

こうした点で配慮が欠けているとして,神を責める根拠は決してありません。また,この記録に非現実的なところは少しもありません。神が創世記の中で定めた目標こそ,今日に至るまで人間がその達成を目ざして永年努力してきたものであり,そのことをわたしたちは正直に認めねばならないのではありませんか。つまり,飢えや欠乏から解放され,報いの多い活動に携わる健康的な人々の満ちる公園のような地球とすることです。しかし,なぜこの目標が達成されていないのですか。人間の努力が“ブーメラン”のように飛び帰って来て人間にむしろ害を与え,その結果地上が汚染され,生態系のバランスがひどく狂ってしまったのはなぜですか。聖書はその理由をも示し,しかも道理に即した現実的な態度でそれを示しています。

人類の益のための試み

神が庭園のような住まいの中の一本の木を制限されたものとしたという聖書の記録を,たいていの人が知っています。そして,その木の実を食べてその禁令を破るなら,人は死の刑罰を受けることになっていました。(創世 2:9,16,17)しかし,この取決めの中に示されている知恵について深く考える人は多くいません。次の点を考えてください。

わたしたち人間の親は,自分の子どもに対する真の配慮をどのように示しますか。それはただ物質上の必要物を備えることだけですか。あるいは,子どもが正しい行動の規準を身に着けるように,また幸福な生活のために無視できない健全な原則や基本的な真理を学ぶように助けることによっていっそうの配慮を示せますか。息子や娘を甘やかし,したい放題をさせておくとしましょう。そのように放任しておくことは,子どもに対して配慮を示すことですか。それともそれを怠ることですか。親が責任を放棄し,子どもの教育や訓練をしないならどんなことになるか,わたしたちは知っています。今日,狂暴な青少年犯罪は父親や母親に多くの心痛と失望をもたらしていますが,それは多くの場合,親の側の配慮と確固とした指導が欠けていた結果です。

神は,その最初の人間である息子と娘に義の規準をはっきり銘記させるように配慮されました。神は彼らの命の与え主でした。神とそのみことばに対する不敬は何ら良いものをもたらしません。それは実際には無分別なことです。それは現実を無視し,生活上の事実に“まっこうからぶつかる”ことだからです。そうした不敬は,幸福や平和を促進するものではなく,利己心や自己中心主義,また感謝の欠けた態度を育てます。他方,神に対する深い敬意は,限りない益をもたらします。それは,神の卓越した知恵と力と愛を受け入れる態度を保たせます。またそれは人間どうしの生活を調和のあるものとし,他の人の感情と益に対する敬意と思いやりを育てます。わたしたちは,今日,人々が自己中心的になって,隣人の権利や益に対する配慮をあまりにも欠いた結果としてどれほど多くの問題が起きているかを見ています。では,宇宙の主権者としての神の権利と利益に対する敬意がいかに重要であるかを最初の人間夫婦に銘記させるために神が設けた取決めの意義を認識できるはずです。彼らの「権利外」のものとされた「善悪の知識の木」は,被造物に対して,何が「善」であり何が「悪」であるかを決定する,神の至上の権利を表わすもしくは象徴するために用いられました。

人間の敬意をこうして試みるために神が用いた手段は思慮の深さを示すものであり,また人類に自然な尊厳を与えるものでありました。それは彼らの状況に適したものでした。どうしてですか。その人間夫婦は,成熟した大人として創造されていましたが,生活上の経験をまだそれほど経ていませんでした。ご自分の主権に対する敬意と忠節を実証する機会を彼らに与えるために,創造者は複雑で混乱をきたすような方法を用いませんでした。簡単ではっきりした,日常の生活と関係のある事柄,つまり食べることと関係した事柄を用いました。また,神のこの禁令は,堕落した傾向やよこしまな性向に関して人間に疑いを投げるものでもありませんでした。食べること自体は正常で適正な行為であったからです。その一本の木から食べることが禁じられたことによって,人間夫婦には制限が課せられたとはいえ,その制限は彼らが生活を十分に楽しむのを押え付けたり,締め付けたりするものでは決してありませんでした。実を結ぶ他のすべての木を与えられていたのですから,彼らは自分たちの幸福に欠かせないものを何か取り去られていると感じる必要は全くありませんでした。(創世 2:9)そして,最後の点として,従順さと敬意に関するこの試みは,簡単なものではあっても,後に神のみ子が語った次の原則と一致しています。「ごく小さな事に忠実な人は多くのことにも忠実であり,ごく小さな事に不義な人は多くのことにも不義です」― ルカ 16:10。

選択の自由

聖書はまた,神がご自分の息子と娘である人間男女に,選択の自由つまり道徳上の自由能力を与えたことを示しています。これはなぜですか。神は彼らのことを配慮し,彼らに思いやりを示されたのです。神は彼らに命を与え,地上で幸福に生活できるように必要な準備をすることによって愛を示されました。彼らが自動的に従い,他の行動は取れないように造られていたなら,創造者に純粋な愛を示すことによってその愛に答えることは決してできませんでした。その従順は機械的なものとなるからです。真の愛には,相手を喜ばせ,相手の益になる事をしたいという願いが伴います。(申命 30:15,16)そして,わたしたち自身としても,他の人のために何かをする場合,それから最大の喜びを得るのは,相手に対する配慮に基づいて心からそうしたいと思う時であることを知っています。また,他の人がしてくれたことで自分が心に幸福を覚えるのは,相手が惜しむことなく自発的にしてくれた場合だけです。

聖書の記述が示すとおり,わたしたちの最初の親は,神に対する不従順の道を選びました。神が彼らのために行なわれたすべての事を考えると,彼らが神に逆らうことなど信じられないことと思えますか。人間が遠い昔から今日までやってきたほとんど信じられないほどの事柄を知らないとすれば,それは信じ難いことに思えるかもしれません。しかし,わたしたちは,人々が貞節で愛のある配偶者を裏切り,子どもが親に反抗し,親が子どもを裏切るのを見てきました。しかも,なんら健全な理由のない場合が多いのです。自分の隣人や仲間の市民に対して強い憎しみを示し,正当な理由もなしに迫害し,大量殺りくをさえ行なった人が多くの国にいるのを見てきました。たいていの場合,それは不信や憤激をあおり,利己的な欲望に働きかけようとする虚偽の宣伝にかきたてられたのです。

聖書は,最初の女エバが,神に反逆した霊の子からの同様な宣伝の対象となったことを示しています。エバはこれに抵抗することができました。今日でもわたしたちが,たとえ不完全になっていても,そうした有害な宣伝に抵抗できるのと同じです。ところが,彼女は,神の愛と知恵また公正さに対する不信の念が自分のうちに育つのを許しました。神が人間から何か良いものを奪っているかのように考えたのです。彼女は,「善悪の知識の木」とその実に関する神の律法を破り,それによって神の所有権と主権を侵しました。そして彼女の説得のもとに夫もそれに加わりました。

不忠節の結果

わたしたちは,自分の時代の単純な行為が後に重大な結果をもたらし得ることを知っています。建物を建てるさい,比較的小さな安全要素を扱う一人の人の不注意の結果,幾十人もの人の命が犠牲となるような惨事に至ることがあります。ダムの場合,同様の点に注意しないなら,それは決壊して壊滅的な洪水を引き起こすことがあり得ます。一人の為政者による一回の不正や腐敗の行為が,政府部内における悪行の連鎖反応を導くこともあります。それは大きな不正へと発展し,幾万,いえ幾百幾千万の人に害を与えます。

わたしたちの最初の父親の,神に対する不忠節は,人類家族を罪と不完全さの中に投げ込みました。神のことばの中に記される避けることのできない定めはこうです。「神は侮られるようなかたではありません。なんであれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです。自分の肉のためにまいている者は自分の肉から腐敗を刈り取り,霊のためにまいている者は霊から永遠の命を刈り取ることになるからです」。(ガラテア 6:7,8)人類の父祖アダムは,霊的な関心事よりも肉の欲望を優先させました。今日,世界的な物質主義の波が,神の導きや霊的な物事に対する人々の関心をほとんど押し流してしまっているのと同じです。アダムは不完全さと腐敗を刈り取り,それが子孫に伝わることを避けられません。神の霊感のことばはローマ 5章12節でこう述べています。「それゆえ,ひとりの人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪を犯したがゆえにすべての人に広がった」。

今日,不道徳な行為を自ら行なって性病になり,あるいは麻薬中毒の結果染色体を損傷する人は障害を持つ子どもを生み出すことになります。その人が子孫にもたらす苦しみに配慮を払わなかったからといって,そのゆえに神を責めることはできません。同じように,わたしたちの最初の父親の配慮の不足とその結果を神のせいにすることはできません。霊感を受けた記述者は,責任がどこにあるかを示してこう述べています。「見よ! ただわたしはこのことを見いだした。まことの神は人を方正な者に造られたが,人は自ら多くの計画を探り出した」― 伝道 7:29,新。

しかし,人類の苦悩の始まりについて神に責任はないとはいえ,なぜ神はそれを今までに終わらせなかったのですか。今日に至るまで待ってこられたその理由は,配慮のない態度の表われではなく,人類の永遠の益に対する真の配慮の表われです。その理由とは何ですか。

[10ページの図版]

聖書は,全地を人類のための美しい公園にすることが神の目的であったことを示している。それこそ人類が今日でも望んでいることではないか

[11ページの図版]

諸国家は,外部からの侵入を軽微なこととは見なさない。神は,エデンでなされたようにご自身の正当な支配権が不当に扱われることをどうして許すべきだろうか

[12ページの図版]

ごく小さく見える安全要素が無視されただけでダムのような大きな建造物も壊れてしまう。ある人々はエデンでの最初の人間の罪を軽微なものと見るが,それは洪水のような悪と苦悩の波を解き放した

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