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目ざめよ! 1983
目83 10/8 6–11ページ

考古学に影響されて聖書を疑うべきですか

今日,考古学が関心を引いているのはなぜでしょうか。それは,考古学が人類の過去を探るのに重要な手段であるからです。例えば,考古学によって,聖書の土地の地理や歴史,その土地の人々のことが明らかにされます。考古学は精密科学に大きく依存しており,正確さの点でそうした科学の水準に達することを目標にしています。しかし,それを難しくする一つの大きな要素,すなわち人的要素があります。無神論者,不可知論者,クリスチャン,ユダヤ教徒,イスラム教徒のいずれであろうと,考古学者はいずれも自己の信念を持っています。こうした信念や先入主観がその解釈にどの程度影響を及ぼすでしょうか。それによって,正確な結論に到達するのを妨げられるというようなことはありませんか。

考古学の調査は一種の推理作業です。人工遺物や残存物(陶器,破片,遺跡,過去の文明の遺物,骨など)で成る状況証拠を掘り起こします。それから,推理の過程が始まります。それは何の破片でしょうか。形状,色彩,組成からすると,どの時期に属しますか。どのような目的に使われていましたか。本来はどの場所にあったものでしょうか。発見された場所にあったのでしょうか,それとも他の場所にあったのでしょうか。それが発見された地層に最初からあったのでしょうか。それとも,その場所で生じた何かの事情により,時たつうちに下の地層にもぐり込んだのでしょうか。こうした事柄や他のさまざまな要素を考慮して解釈を下すことになります。こうして,結論は状況証拠,および客観的見解と主観的見解の入り混じった解釈を基に引き出されます。

次のように書いたヘブライ人の考古学者ヨハナン・アハロニはまさしく事実を指摘しています。「歴史的または歴史地理的解釈の点になると,考古学者は精密科学の分野からはみ出す。総合的な歴史像を描くには,価値判断や仮説[仮定]に頼らざるを得ない」。

発掘現場の出土物を評価する際,どんな落とし穴があるでしょうか。アハロニ教授はこの点についてこう答えています。「発掘者は自分の作業しているテル[古代都市の廃虚を覆っている土塁]の種々の地層を注意深く見分けなければならない。……この仕事は普通,容易ではない。そのテルの実際の層位は別の地層の上に均一に横たわっているわけではないからである。……文字の刻まれた出土物が長期間使用されていた可能性や元の所有者に捨てられた後再使用された可能性さえ常に存在するため,碑文は一般にterminus a quo [出発点]を提供するにすぎない。……他の国の資料と比較することにも危険の伴う場合がある。他の文化の物品の年代が,発見時の事情や関係する相対年代を十分考慮せずに,パレスチナ文化との関係に基づいて決定されているという悪循環に陥る危険がある。歴史的考察にはある種の前提要件や主観的態度が常に関係しているため,とりわけ危険が伴うことは言うまでもない。それゆえ,常に次のことを覚えておくべきである。すなわち,年代はいずれも絶対的なものではなく,程度の差こそあれある程度の疑念が伴うものである」― 下線は本誌。

イスラエル人はどのように紅海を渡ったのか

大勢の考古学者が相いれない発見や理論,年代を印刷物の中で公にしている今日,前述の警告は非常に時宜を得たものであると言えます。紅海を渡ってエジプトを逃れたイスラエルの出エジプトを例に取ってみましょう。エジプト人の兵車と騎兵がイスラエルを追撃し,イスラエルが紅海のほとりにたどり着いた時,エジプト人がイスラエルに追い迫って来たことを聖書の記録は明らかにしています。行く手に立ちはだかる海をイスラエル人はどのように切り抜けることができたのでしょうか。聖書の記録は次のように答えています。

「さて,モーセは手を海の上に差し伸べた。するとエホバは[どのような方法で?]強い東風によって夜通し海を退かせ,その海を乾いた地面に変えてゆかれた。水は二つに分かれていった。ついにイスラエルの子らは乾いた陸地を通って海の中を行き,その間水は彼らの右と左に壁となっていた」― 出エジプト記 14:21,22。

この記録の詳細な記述に注目なさってください。単に強い風と記されているのではなく,「強い東風」と記されています。水は二つに分かれ,海底は乾いた地に変わりました。このように詳細な点にまで注意が向けられていることは,それが目撃証人の記録であることを物語っています。出エジプト記 15章につづられているモーセの歌の中にもこの出来事が詩の形で記されていますが,この部分についても同じことが言えます。ファラオの兵車と軍勢がイスラエル人を追ってその水の切れ間に突進すると,「逆巻く水は彼らを覆い,彼らは石のように深みに下った」のです。―出エジプト記 15:5。

水を分けるのに用いた手段についてはその歌の中でも確証されています。こう記されています。「そして,あなたの鼻孔の一息によって水は盛り上げられ,せき止められた洪水の水のように静止した。逆巻く水が海のただ中で固まった」― 出エジプト記 15:8。

学者の言説

何人かの専門家が,この奇跡的な出来事にもっともらしい説明を加えようとさまざまな説を発表してきました。彼らは必ずしも,イスラエルが紅海を渡らなかったと言おうとしているのではなく,何とか説明を付けて,神による介入はなかったと言おうとしているのです。例えば,紅海を表わすヘブライ語は「ヤム スーフ」で,これは「いぐさまたは葺の海」を意味します。そのため,イスラエル人は沼地を渡ったにすぎないと言う人がいます。しかし,沼地では,記録が述べるような水の壁が右と左にできることはなかったでしょう。明らかに沼の水がエジプトの軍勢の『戦車や騎兵たちを覆う』ことはなかったはずです。―出エジプト記 14:28。

最近,別の説が,エジプト学者ハンス・ゲディケによって発表されました。ゲディケは出エジプト記の記録に次のような説明を加えています。イスラエル人が紅海を渡ったとされる地点の北西約800㌔の所にあるテラ島で,西暦前1477年に火山の大爆発がありました。それによって生じた津波が地中海の南東岸に押し寄せ,ナイル川のデルタ地帯を逆巻いて上り,砂漠を成す台地の際にまで達したのではないかというのです。理論の上では,これにより,低地にいたエジプト人はでき死し,高台にいたと思われるイスラエル人は無事でいられたことになります。

この説が,聖書に記されているさまざまな事実にあまり注意を払っていないことは明らかです。では,他の学者たちはゲディケ博士の説をどのようにみなしているでしょうか。米国ミシガン大学のチャールズ・クラーマルコフはその説を退け,その理由の一つに,「聖書の出エジプト記の記述には巨大な波を少しでも暗示するものさえない」点を挙げました。次いで,それに代わる次のような主旨の説を提唱しました。つまり,イスラエル人は舟で海を渡り,後を追ったエジプト人は,強風にあおられてはしけが沈み,でき死したとされています。さらに,クラーマルコフはこう言葉を加えています。「言うまでもなく,当時を再現するこうした説は全くの憶測にすぎない。しかし,ゲディケ教授の説より,このほうがはるかに聖書の内容に基づいている」。それは全くのところ見解の問題と言えます。

3人目の学者,ネゲブのベングリオン大学で教えるエリエゼル・D・オレンは津波説に強く異議を唱え,オレン自身がより現実的と考える別の説を提唱しました。その際彼は次のような重要な言葉を加えました。「[これ]は考古学的証拠によって立証し得るようなものでは決してないことを……忘れてはならない。わたし個人としては,文学作品の一大傑作である“海の奇跡”は歴史すなわち……“実際の経験”とはほとんど関係がないものと確信している」。

正しいのはだれか

オレン博士のこの見解は問題の核心に触れるものです。クリスチャンは,聖書の大部分を「実際の経験」とは関係のない単なる『文学の傑作』とみなすべきでしょうか。それとも,神の霊感を受けたみ言葉として聖書に信頼を置くことができるでしょうか。わたしたちは考古学者や他の学者たちの相反する説にほんろうされるべきでしょうか。それとも,聖書筆者やイエス・キリストご自身の証言を信頼できるものとして受け入れるべきでしょうか。

使徒パウロは仲間のクリスチャンにあてて次のように書きました。「[あなたは],幼い時から聖なる書物に親しんできたことを知ってい(ま)す。その聖なる書物はあなたを賢くし,キリスト・イエスに関する信仰によって救いに至らせることができます。聖書全体は神の霊感を受けたもので……物事を正(す)のに有益です」。これより前,パウロはローマにいる信者たちにこう述べました。「では実情はどうなのですか。ある者が信仰を表わさなかったとすれば,その信仰の欠如が,神の忠実さを無力にでもするのでしょうか。断じてそのようなことはないように! むしろ,すべての人が偽り者であったとしても,神は真実であることが知られるように」。―テモテ第二 3:15,16。ローマ 3:3,4。

では,エホバの証人が聖書を霊感によって書かれた本と信じているのはなぜでしょうか。エホバの証人の信仰は考古学上の発見に依存していますか。端的に言えば,霊感による証拠は考古学にではなく,聖書そのものの中に見いだせます。正確な歴史を書き記すことと,正確な歴史を事前に書き記すこととは別です。後者の場合は預言です。聖書には,その著者が神であることを証しする,既に成就した預言が幾百も記されています。例えば,イエス・キリストだけについても,ヘブライ語聖書中の332の異なった預言が成就したと考えられています。

聖書の信ぴょう性を強力に裏付ける別の点は,その証言が出来事の実際の目撃証人の記録に基づいていることです。筆者自身が目撃証人であることも少なくありません。モーセによって書かれた出エジプト記の記述の場合がそうです。証人としてのモーセの正直な態度に疑いをさしはさむ理由があるでしょうか。そのような理由はありません。モーセが神の霊感を受けて書いたことを認めるなら,なおのことそう言えます。(テモテ第二 3:16)自分を率直に批判する態度も,モーセが信頼の置ける人物であることを示す優れた証しです。仲間のイスラエル人を守るためにエジプト人を自分が殺した事実を隠してはいません。岩から水を出させた時,自分が謙遜さを欠き,処罰を受けたことを覆い隠してはいません。(出エジプト記 2:11,12。民数記 20:9-13。サムエル第二 11章,詩編 51編に記されているダビデの例と比較してください。)さらに詳細な証拠については,ものみの塔協会発行の「聖書はほんとうに神のことばですか」という本をご覧ください。

さまざまな説に影響されて信仰を揺るがすべきか

忍耐強い,熟練した考古学者たちの発掘する建設的な証拠からクリスチャンたちは励みを受けます。その証拠は多くの場合,聖書の内容を裏付け,それを一層明確にしてくれます。事実や人工遺物は古代の人々の生活について多くを教えてくれます。碑文から貴重な情報の得られることもあります。もっとも,自伝に,自分にとって都合の悪いことを書く人はほとんどいないので,碑文を検討する際には言うまでもなく十分な注意が必要です。

しかし,考古学上の発見の意義について,または人工遺物の年代決定に関して,専門家が自分流の解釈や憶測を加えたり説を発表したりするなら,クリスチャンは注意を払うのが賢明です。エホバは忠実な人々に霊感を与えてみ言葉を書き記させましたが,それは架空の物語によってわたしたちを誤導するためではありません。次のように述べたヨハナン・アハロニは正しいと言えます。「[聖書中の]さまざまな句が,何人もの学者によって,政治的,地理的,現実的基盤を一切持たない純然たる空想もしくは純文学作品とみなされている。我々はこうした見解の妥当性に重大な疑問をもつ。地理に関する聖句のほとんどは実際の状況に基づいているように思われる。ただ,その歴史的内容を確立できないのは我々の側の理解の誤りと情報の不足によるのである」― 下線は本誌。

今日の聖書考古学は大きく分けて二つのグループをなしているようです。一方には,聖書の記録や自分たちの国家的また民族的主張を裏付けるものを探す,宗教的動機と愛国心を抱く研究者がおり,他方には,J・E・バレット教授の言葉を借りて言うなら,「そうした敬虔さや愛国心,同僚(一般には年長の同僚)たちの,一般に受け入れられている知識の虚偽を暴こう」とする研究者のグループがあります。考古学を専門とする同教授は次のようにも述べています。「宗教的動機を抱いていないと確言する人々の間に(サディスト的大はしゃぎは言うに及ばず)奇妙な独善的態度が見られる。……近代考古学の学生はこれら専門家の間で繰り広げられる,互いを出し抜こうとする内輪のゲームに気づくべきである」。

考古学者も普通の人間にすぎず,不完全な人間が本質的に持つあらゆる欠点から自由にされてはいないことを覚えておくべきです。野心,名誉心,競争心,先入観などの要素が専門家の見解や解釈に影響を及ぼすことがあります。

この点を例証するものとして,19世紀の著名な一考古学者が,トロイで自分の発見した古代の宝石とミケーネで見つかった黄金の面について非常に大げさな主張をしたことが挙げられます。この誇大な主張について,考古学の現代の一教授は次のような的をいた注解を行なっています。「これら二つの例は,古代世界に対するロマンティックな関心が考古学者の判断に及ぼしかねない影響を例証するものである。すなわち,自分の発見したものを,発見したいと望んでいるものと同一視する誘惑に駆られてしまうのである。聖書考古学者の場合,問題は一層大きなものとなろう。考古学者になる最初の動機づけを与えたロマンティックな関心が信仰心や愛国心によってはぐくまれ,新たにされることが少なくないのである」。(下線は本誌)そして当然のことながら,考古学者が不可知論者や無神論者である場合にも,その人がいかに誠実であろうと,この同じ問題の生じることがあります。

それでは,多くの学者や考古学者の提出する説によって,クリスチャンは信仰を揺るがすべきでしょうか。次のことを忘れないでおきましょう。それは説また人間の見解にすぎず,変わることがあるのです。時と共に,また学問の進歩と共に変化するものです。誇りや野心その他の人間的要素も非常に顕著です。バレット教授が「聖書考古学レビュー」誌(1981年1-2月号)に書いた言葉は真実を突いています。「信仰心,愛国心,イデオロギー,教育,およびこれらとそれぞれ反対のものが考古学者の判断に影響を及ぼす。ちょうど,歴史家の判断がこれらによって影響されるのと同じである。率直のところ,専門的考古学者ならだれもがそれに気づいている。最も優れた学者たちは自分の身にそうしたことが起こり得ることを知っており,他の学者たちは同僚の身にそれが生じることだけしか気づいていない」― 下線は本誌。

ですから,道理をわきまえるクリスチャンは,とりわけ不完全な現在の事物の体制においては,聖書に述べられているすべての事柄について考古学上の完全な証拠を期待するようなことはしません。もっとも,聖書に記されている人物や出来事のほとんどを完全な仕方で調べることのできる時が間もなく訪れることを知っています。一体どうしてですか。なぜなら,「記念の墓の中にいる者がみな,彼[イエス・キリスト]の声を聞いて出て来る時が来ようとしている」からです。(ヨハネ 5:28,29)そうです,復活が行なわれる際,聖書の歴史時代に実際に生活していた人々に尋ねることができます。今日わたしたちの興味をそそる数多くの記述の詳細な点をそれらの人々から聞くのは何とすばらしいことでしょう。もはや,それら詳細な点について人間の説や憶測に頼る必要はありません。出来事の目撃証人自らが事実を語るのです。あなたはその場にいて,それらの人々の語る話に耳を傾けるでしょうか。

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クリスチャンは,聖書を実際の経験とは関係のない単なる『文学の傑作』とみなすべきだろうか

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イエス・キリストだけについても,ヘブライ語聖書中の332の異なった預言が成就したと考えられている

[11ページの拡大文]

「信仰心,愛国心,イデオロギー,教育,およびこれらとそれぞれ反対のものが考古学者の判断に影響を及ぼす。ちょうど,歴史家の判断がこれらによって影響されるのと同じである」

[9ページの図版]

実際には,イスラエル人はどのようにして紅海を渡ったのか

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