-
『讃美のいけにえを神に捧げよ』ものみの塔 1957 | 1月15日
-
-
人ならば,いかで暖かならんや。人もし其一人を攻め撃たば二人してこれに当るべし。三根の繩は容易く断れざるなり。』私たちが倒れるなら,私たちの熱心が冷えるなら,そしてサタンの攻撃をうけて屈服するなら,私たちはヱホバに讃美の犠牲を公やけに捧げることができなくなります。この災を避けるために,私たちは互に集まるのを忘れてはなりません。ひとりだけの羊になつてはなりません。群から離れ出た羊は,失われた羊だからです。忠実な僕である会衆の羊飼は,熱心に努力して失われた羊を新しい世の社会に連れ戻そうと努めます。(マタイ 18:12-14)それですから,自分の霊的な力を過大に評価して,一人だけになつて利己的な事柄を追求し,かつ互に集まれという健全な原則をないがしろにしても大丈夫,だなどと考えてはなりません。『己を人と異にする者は,おのれの欲するところのみを求めて,すべての善き考えにもとる。』― シンゲン 18:1。
17 私たちはヱホバからの教を,どのように受けねばなりませんか。
17 疵のない牛のごとき,神の是認をうける唇の実を持とうとするためには,私たちはヱホバからの教を受けねばなりません。聖書を読むことによつて,ヱホバからの教を受けなさい。秩序だつた研究をすることにより,教をうけなさい。会衆の集会で教を受けなさい。ヱホバは特に会衆の集会において,その食卓に霊的な食事をひろげておられるのです。来て食べなさい! みなさんは,寝床で食事を取りますか。みなさんは食事の価値を知つている故に,食卓のところで食事をします。それであるなら,実際の食事よりももつと大切な霊的な食事も食卓のところで頂くべきでしよう。ヱホバは霊的な食事を寝床で給したり,又は会衆の集会所からは離れている家庭で給したりするようなことをして,怠惰な気持をゆるすようなことをしません。食卓である御国会館に行きなさい! これらの必要なことを全部しないなら,健全で全く,しかも解明を与える讃美の犠牲として必要な言葉を熱心に得ていないことになります。恥ずかしいことには,次の神よりのさとしに沿つていないことになります,『あなたは真理の言葉を正しく教え恥じるところのない錬達した働き人になつて,神に自分をささげるように努めはげみなさい。』― テモテ後 2:15,新口。
-
-
あなたの讃美の犠牲を正しくささげよものみの塔 1957 | 1月15日
-
-
あなたの讃美の犠牲を正しくささげよ
『いつも,塩で味つけられた,やさしい言葉を使いなさい。そうすれば,ひとりびとりに対してどう答えるべきか,わかるであらう。』― コロサイ 4:6 新口。
1 塩によつて何が象徴されていますか。
モーセの律法は,犠牲には塩で味つけることを要求しました,『なんじ素祭をささぐるにはすべて塩をしてこれに味つくべし,汝の神の契約の塩を汝の素祭に欠ことなかれ,なんじ礼物をなすには,すべて塩をそなうべし。』なぜですか。塩は防腐剤であり,腐敗を防ぎます。醗酵したものを捧げることは,禁ぜられていました。それで,犠牲に塩をつけるならば,醗酵するのを防いだのです。塩は,腐敗による変化を妨げる故に,永久性を保証しました。そして,契約に関連しては,塩は契約の不変性,永続性を示す為に用いられました。昔の人々のあいだでは,塩をいつしよに食べることは友情のしるしであり,永久の信義と忠節を表わし示しました。ヱホバの祭壇に酬恩祭の犠牲を捧げる者は,ヱホバと共に与る者と考えられました。それで,犠牲とともに塩を用いることは,ヱホバと共に塩を食べることを表わしました。それは,永遠の忠節を象徴したものです。―レビ 2:13。
-