聖書理解の助け ― 祭壇(続き)
「知恵は主要なものである。知恵を得よ。自分の得るすべてのものをもって,悟りを得よ」― 箴 4:7,新。
祭壇(続き)
他の祭壇
洪水後に増え広がった人々は清い崇拝を守るという点でノアと歩みを共にしませんでした。そのため多くの誤りの祭壇が造られるようになりました。カナン,メソポタミア,その他の遺跡での発掘は,そのようなものがごく早い時期から存在したことを示しています。イスラエルに呪いを下らせようとむなしい企てをしたバラムは,三つの場所に次々に七つの祭壇を築きました。―民数 22:40,41; 23:4,14,29,30。
イスラエル人は,すべての異教の祭壇を打ち壊し,しばしばその傍らに設けられていた聖柱や聖木を一掃するようにと指示されました。(出エジプト 34:13。申命 7:5,6; 12:1-3)彼らはそうしたものに決して見倣ってはならず,カナン人がするように自分の子供を火に捧げるようなことをしてはなりませんでした。(申命 12:30,31; 16:21)イスラエルは祭壇の数を増やしてはならず,むしろ唯一まことの神の崇拝のためにただ一つの祭壇を維持するように定められました。その一つの祭壇はエホバの選ぶ場所に置かれます。(申命 12:2-6,13,14,27。バビロンの場合と比べてください。そこには女神イシュタルのためだけでも180の祭壇がありました。)イスラエルは初め,ヨルダン川の渡渉の後に野石で祭壇を作るようにと指示されましたが(申命 27:4-8),それはヨシュアによりエバル山に築かれました。(ヨシュア 8:30-32)征服した土地の分割後,ルベンとガドの部族およびマナセの半部族はヨルダンのそばに人目を引く祭壇を作りました。それは他の諸部族の間に一時的な危機を引き起こしましたが,やがてその祭壇は背教のしるしではなく,真の神エホバに対する忠実さの記念であるとみなされることになりました。―ヨシュア 22:10-34。
ほかにも幾つかの祭壇が造られましたが,それらは特別の場合のためのもので,定常的な使用のためではなかったようです。大抵はみ使いの出現にちなんで,あるいはみ使いの指示にしたがって築かれたようです。ボキムに置かれた祭壇,ギデオンやマノアのこしらえた祭壇はその例です。(士師 2:1-5; 6:24-32; 13:15-23)ベニヤミン族の消滅を防ぐ方策を考えた際に人々がベテルに建てた祭壇に関する記録がありますが,それが神の是認を受けたものであったか,あるいは『ただ自分の目に正しいと思えることを行なった』例にすぎないかは明示されていません。(士師 21:4,25,新)神の代表者としてサムエルはミズパで犠牲を捧げ,またラマにも祭壇を築きました。(サムエル前 7:5,9,10,17)これは,契約の箱が取り去られた後で,シロの幕屋にエホバの臨在のしるしがもはや示されなくなったためであったかもしれません。―サムエル前 4:4,11; 6:19-21; 7:1,2。詩 78:59-64と比較。
王たちによる祭壇の建造と使用
サウルはギルガルで犠牲を捧げ,またアヤロンに祭壇を築きました。(サムエル前 13:7-12; 14:33-35)前者の場合,サウルはサムエルが来るのを待たなかったことでとがめられました。この場合,犠牲を捧げる場所の適否が問題になっていたわけではありませんが,後者の祭壇に関し,『それをもって彼はエホバへの祭壇を建てることを始めた』と述べられていることは,彼が崇拝のための祭壇をみだりに増やしていたことを示すものであるかもしれません。―創世 4:26と比較。
ダビデは新月の日にサウルの設けた食卓に参席しない理由をヨナタンに説明させ,それはベツレヘムで行なわれる年ごとの家族の犠牲礼に出るためであるとしましたが,これは一種の口実でしたから,そのようなものが実際に執り行なわれたかどうかは確言できません。(サムエル前 20:6,28,29)後に,ダビデは王としてアラウナ(オルナン)の脱穀場に祭壇を設けましたが,それは神の命令によるものでした。(サムエル後 24:18-25。歴代上 21:18-26; 22:1)ソロモンが『祭壇上に犠牲を捧げた』という列王紀上 9章25節(新)の記述は明らかに,正規の権威を与えられた祭司を通してそれを行なったという意味でしょう。―歴代下 8:12-15と比較。
エルサレムに神殿が設立されると共に,祭壇は今やはっきり,『あなた方の神エホバの選んだ所に[置かれ]……あなた方はそこに来なければならない』という言葉のとおりになったようです。(申命 12:5,新)エリヤがバアルの祭司たちとの火の対決の際にカルメル山上で使用した祭壇を別にすれば(列王上 18:26-35),以後の他の祭壇はいずれも背教によるものです。ソロモン自身,異国の妻たちの影響によってそのような背教の罪を犯した最初の人となりました。(列王上 11:3-8)新たに作られた北王国のヤラベアムは自分の民がエルサレムの神殿に行くのをとどめようとして,ベテルとダンに祭壇を設けました。(列王上 12:28-33)その時ひとりの預言者は,ユダの王ヨシアの治世中にベテルの祭壇をつかさどる預言者たちの骨がその祭壇上で焼かれるであろうと予告しました。しるしとしてその祭壇は二つに裂け,その預言は後に完全に成就しました。―列王上 13:1-5。列王下 23:15-20。アモス 3:14と比較。
イスラエルのアハブ王の支配中に異教の祭壇が盛んに作られました。(列王上 16:31-33)ユダのアハズ王の時代には,『エルサレムの街角ごとに』祭壇が設けられ,多くの「高き所」にもそれが作られました。(歴代下 28:24,25,新)マナセはエホバの家の中にまで幾つかの祭壇を造り,加えて星占い用の祭壇を神殿の中庭に置きました。―列王下 21:3-5。
忠実な王たちが時おり出てそれら誤った祭壇を打ち壊しはしましたが(列王下 11:18; 23:12,20。歴代下 14:3; 30:14; 31:1; 34:4-7),エルサレムの滅亡に先だつころエレミヤはなおもこう述べています。「ユダよ,あなたの神々はあなたの都市と同じほどに多くなった。エルサレムの街路と同じほど多くの祭壇をあなた方はその恥ずべき物のためにこしらえた。バアルに犠牲の煙をたてるための祭壇を」― エレミヤ 11:13,新。
流刑の間および使徒の時代
流刑の時代中,上エジプトのエレファンティネに逃げたユダヤ人はその地に神殿と祭壇を設立したことが,エレファンティネ・パピルス文書に示されています。また,数世紀後,レオントポリスの近くに住んだユダヤ人も同じようにしました。(ヨセフス,「ユダヤ古誌」,13巻3章1節; 「ユダヤ戦記」,7巻10章2,3節)この後者の神殿と祭壇は,イザヤ書 19章19,20節の成就を図った祭司オニアスによって建てられたものです。
紀元後,使徒パウロはアテネの人々に話した際,「知られていない神に」と書き込まれた祭壇について言及しました。(使徒 17:23)この記述を裏付ける歴史的情報は豊富に存在しています。チュアナのアポロニオスはパウロより少し後にアテネを訪ねた人ですが,こう書き残しています。「どんな神についても悪く言わない,これは知恵と穏健さの豊かなしるしである。とりわけアテネにおいてはそうである。そこでは,知られていない神々のためにさえ祭壇が設けられている」。地誌学者パウサニアスは二世紀の著作「ギリシャ案内誌」の中で,ファレロン湾の港からアテネ市に行く道路ぞいに,「知られざると名づけられた神々および英雄たちの祭壇」を見たと伝えています。彼はまた,オリンピアの「知られていない神々の祭壇」についても述べています。1909年,ペルガモンのデメテル神殿の境内からも同様の祭壇が発見されています。そして,ローマのパラチヌスの丘には西暦前100年ごろの祭壇があり,それには「神もしくは女神にささぐ」と刻記されています。
祭壇の意義
ヘブライ 8,9章の中で,使徒パウロは,幕屋と神殿での奉仕に伴うすべての事に予型的な意味のあったことをはっきり示しています。(ヘブライ 8:5; 9:5,23)パウロ自身が述べるとおり,パウロはその所でその意義の詳細をゆっくり説明してはいませんが,二つの祭壇の意義はクリスチャン・ギリシャ語聖書の中で明らかにされています。焼燔の捧げ物の祭壇は神と人との間の仲介の場所であり,み子の贖いの犠牲のための神の取り決めを表わしていました。(コリント第一 10:16-21と比較)それが聖所への入り口の前に位置していたことは,その贖いの犠牲に対する信仰が,神に受け入れていただくための先行条件であることをはっきり示しています。(ヨハネ 3:16-18)犠牲のためにただ一つの祭壇を置くことが強調されましたが,それはキリストの次の言葉と調和します。「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません」。さらにそれは,クリスチャンの信仰の面で一致のあるべきことを述べる多くの聖句とも調和しています。(ヨハネ 14:6。マタイ 7:13,14。コリント第一 1:10-13。エフェソス 4:3-6。イザヤの預言,その56:7,60:7なども見てください。あらゆる国の民が神の祭壇に来ると述べられています。)それはまた,クリスチャンの崇拝者たちが捧げる「霊的な犠牲」とも結び付いています。―ペテロ第一 2:5。ヘブライ 13:15。コリント第一 9:13,14と比較。
注目すべき点として,ある人々は祭壇のところに逃げ,その角をつかんで保護を得ようとしましたが,故意の殺人者は『わたしの祭壇のところからも離して死に渡されるべき』ことを神の律法は規定していました。(出エジプト 21:14,新。列王上 1:50-53; 2:28-34と比較)詩篇作者はこう歌いました。「わたしは全く潔白のうちに手を洗い,あなたの祭壇の周りを巡ります,ああエホバ」― 詩 26:6,新。
クリスチャンととなえる人の中にはヘブライ 13章10節を用いて実際の祭壇を設立する根拠としている人々がいますが,その文脈に示されるとおり,そこでパウロが述べている「祭壇」は象徴的なものであり,文字どおりのものではありません。(ヘブライ 13:10-16)マクリントクとストロングの「百科事典」(第一巻,p.183)は初期のクリスチャンについてこう述べています。「古代の弁明者たちは神殿も祭壇も霊場も持っていないことを攻撃されたが,『霊場も祭壇も我々は持たない』と答えるだけであった」。ビンセントの「新約聖書の用語研究」(第四巻,p.567)はヘブライ 13章10節に注解してこう述べています。「クリスチャンの経綸のうちに祭壇に対応する何らかの具体的事物を見いだそうとすることは誤りである。十字架も,聖ざん台も,キリスト自身もそれではない。むしろ,犠牲,贖罪,免罪と受容,救いなど,神に近づくことに関する種々の概念が包括され,表象としての祭壇のうちに総合的に表わされている。それはユダヤ人の祭壇がこれらすべての概念の集約点であったことと同じである」。
ヘブライ人の預言者たちは祭壇を増やすことを厳しくとがめました。(イザヤ 17:7,8)ホセアは,エフライムが「祭壇を増やして罪を犯した」と述べました。(ホセア 8:11; 10:1,2,8; 12:11,新)エレミヤは,ユダの罪は「その祭壇の角に彫り刻まれている」と語りました。(エレミヤ 17:1,2,新)エゼキエルは,偽りの崇拝者たちが「その祭壇の周りで」ほふられることを予告しました。―エゼキエル 6:4-6,13,新。
また,預言の中で神の裁きの表明は真の祭壇と結び付けられています。(イザヤ 6:5-12。エゼキエル 9:2。アモス 9:1)「祭壇の下」から,神のために証しをしてほふられた人々の魂が象徴的にこう叫んでいます。「聖にして真実である,主権者なる主よ,あなたはいつまで裁きを控え,地に住む者たちに対するわたしたちの血の復しゅうを控えておられるのでしょうか」― 啓示 6:9,10。8:5; 11:1; 16:7と比較。
啓示 8章3,4節では,金の香壇と義なる者の祈りとが明確に結び付けられています。ユダヤ人の間では「香をささげる時刻に」祈りをすることが習慣になっていました。(ルカ 1:9,10。詩 141:2と比較)香を捧げるための祭壇がただ一つであったことも,クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で神に近づくための道が一つしか述べられていないことと対応します。―ヨハネ 10:9; 14:6; 16:23。エフェソス 2:18-22。