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神秘に包まれたにじ目ざめよ! 1975 | 7月8日
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の幅は,雨滴の大きさによって異なる」ことを指摘しています。しかし,もう一つの要素があります。それは観察者です。にじは,観察者が雨滴に対して特定の角度をなす位置にある場合にのみ見られるのですから,にじは実際に観察者のにじ,つまり観察者自身の「視覚経験」です。ですから,あなたに向かって赤い光を反射する角度にある雨滴が,あなたから横に数メートル離れたところにいる人に対しては,黄色か青の光を反射しているかもしれません。
もちろんこのことは,あなたが動けばにじも「動く」という意味です。つまり,にじの方向に向かって歩くなら,あなたが最初に見たにじをつくっていた雨滴の位置を通り過ぎることになります。しかし,頭上を見上げてもそこににじを見ることはできません。というのはあなたは違った角度のところにいるからです。それでもなお遠くににじを見るかもしれません。しかしそのにじは,あなたのいる新しい位置から適切な角度のところに新しくできたにじです。愚かな空想家のことを,「にじを追いかける」者という古いことわざは,まさに至言といわねばなりません。
以上のことから分かるように,人間はすばらしいにじの光について,徐々に多くのことを学んできました。しかしこれは,この探偵小説の最後の章が書き終えられたということですか。
なぞは残っている
「何百年も研究してきたのだから,未解決の問題などないだろう」というのが,今世紀の初期の人々の一般的な考えでした。多くの人は,「光と光学に関する理論は完成され完全なもののように思える」と言います。しかし,問題は依然として存在します。こんどはにじのまさに基礎となるもの,つまり光に関する問題です。光線は時々「波」のような運動ではなくて「粒子」(物質を構成するこまかな粒)のような運動を行なうことが実験によって分かりました。このことは光のさまざまな運動の説明に好適と思われた「波動」説をくつがえしました。
研究は進んでさらに別の説が登場しました。現在では,光は光子と呼ばれる粒子でできていると考えられていますが,運動においては,「波のような動きをすると同時に粒子のような」動きをすると考えられています。結局人間は,3,000年前神がヨブにお尋ねになった,『光明の発散る道……はいずこぞや』という質問に対していまだに完璧な答えをすることができないでいるのだということを,わたしたちは謙そんに認めなければなりません。―ヨブ 38:24。
しかし,にじの神秘の中でまだなぞとして残っているのは,光の本性だけではありません。「それに対する知覚作用についてもほとんど知られていない」と,「ザ・レインボー」と題する本は述べています。そうです,人間の目,特に色彩に対する視覚については,学べぶきことがまだたくさんあります。
確かににじはいまだに挑戦を投げかけています。ですからわたしたちは,『天のにじ』を平和のしるしとして見るときであろうと,その構造のなぞを研究する目的で見るときであろうと,にじの創造者に畏敬の念をいだいて立つべきでしょう。このとらえどころのないにじをとらえかけている人が一人もいないということは,いろいろな意味で確かに事実であると言えます。
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高くつくアルコール中毒目ざめよ! 1975 | 7月8日
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高くつくアルコール中毒
● アルコール中毒とそれに関連した問題のためアメリカでは信じられないほどの額のお金が支払われています。最近の報告によると,その費用は年に250億ドル(7兆5,000億円)を上回ります。この膨大な額のお金は,米国で空腹に悩まされている人々すべてに食糧を供給するのに必要な額の5倍に相当します。また,それだけの資金があれば,低価格住宅を175万戸建てられます。まさにアルコール中毒は高くつくものと言わねばなりません。
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