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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1964
塔64 5/15 293–295ページ

心から信じても間違いは間違い

間違った信仰も誠意で十分に補われますか。聖書はなんと言いますか。

幼い子供はどうかすると良い悪いの区別がつきません。くすり箱からくすりびんを取り出し,中身をキャンデーと思って食べるかも知れません。しかしそれが毒薬である場合もあります。子供は自分のほしいものを手に入れたと思ってもそれは間違いで,ひどい結果になります。

精神病院には,現実ばなれのした奇妙な事を信じている人々がいます。その人たちは空想を信じ込んでいるのです。自分はナポレオンのように偉大な世界の指導者だ,と信じている者さえいます。そう信ずればそのとおりになりますか。そう信ずるからといって間違いが間違いでなくなるわけではありません。

正しいか間違いかのどちらかである

真実でない事柄を心から信ずるのは,子供や精神病者ばかりではありません。とくに宗教の分野において多くの人々は,事実にもとづかぬ事柄を心から信じています。

世界には色合いの異なった宗教教義がたくさんありますが,その全部が真理であるはずがありません。たとえば,死後の生命はあるか,ないか,のどちらかです。地球は永遠に存在するか,しないか,のどちらかです。神は悪人を滅ぼされるか,滅ぼされないかのどちらかです。これらの教義にせよ,他の多くの信仰にせよ,正しいか,間違いかのどちらかです。互いに矛盾しあう二つの真理はあり得ません。どちらかが真理であって,両者ではありません。それは人が生きているか,死んでいるかのどちらかであるのと同じです。人はそのどちらかであって,両者であるわけにはいきません。ある信仰が間違っていれば,同時に正しいものであるわけにはいきません。いかに誠実な気持で信じ,その信仰を実践しても,それによって間違いが正しくなることはありません。また神がそれを真理として受け入れられることもありません。神は偽りを喜ばれないからです。

ある国では特定の動物が神聖視されています。ですから多くの人々が毎年栄養失調で死んでもそれを食べることができません。その信仰は誠実なものかも知れませんが,誠実だからといってそれが正しいもの,神に受け入れられるものになりますか。どうすればそれがわかりますか。人類に対する神ご自身の手紙である聖書を読むことです。聖書は私たちにこう教えています。「彼らは自ら知者と称しながら,愚かになり,不朽の神の栄光を変えて,朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。ゆえに,神は,彼らが心の欲情にかられ,自分のからだを互にはずかしめて,汚すままに任せられた。彼らは神の真理を変えて虚偽とし,創造者の代りに被造物を拝み,これに仕えたのである」。(ロマ 1:22-25)たとえ彼らの信仰や行いが誠実な気持から出たものであっても,神の創造されたもの,たとえば動物などを崇拝する者を神は決して是認されない,ということがこの言葉から明らかになります。

別の国では像や偶像が崇拝されています。飲食物の供物が像の前にささげられます。これらの国でも飲食物が命のない偶像の前で腐敗しているのに,人々は飢えています。この種の崇拝について神は何か言われていますか。ずっと昔神はこう言われました。「あなたは自分のためにきざんだ像を作ってはならない。上は天にあるもの,下は地にあるもの,また地の下の水のなかにあるもののどんな形をも作ってはならない。あなたはそれにひれ伏してもならないし,仕えてもならない。あなたの神である私エホバは専心の献心を求める神である」。―出エジプト 20:4,5,新世。

偶像やそれを拝む者を神がどのようにお考えになるかについては,詩篇 115篇の4-8節で,神ご自身がこう告げておられます。「彼らの偶像はしろがねと,こがねで,人の手のわざである。それは口があっても語ることができない。目があっても見ることができない。耳があっても聞くことができない。鼻があってもかぐことができない。手があっても取ることができない。足があっても歩くことができない。また,のどから声を出すこともできない。これを造る者と,これに信頼する者とはみな,これと等しい者になる」。この場合も神の見方ははっきりしています。偶像には人間を助ける力がありません。偶像を作ってそれに頼る者は,命のない偶像そのものに等しいとされています。この種の崇拝は,いかに誠実なものであっても,神が明らかにされているみ旨にかなうものではありません。

「異教徒」だけ?

これらの習慣のいくつかが,いわゆる「異教の」国から来たとあなたは認められるでしょう。多くの人は,その種の崇拝は,「より啓蒙された」西欧文明の中では決して行なわれないだろう,と考えています。それでキリスト教国内で信じられている顕著な信条を一つだけ取り上げて分析し,果たしてそうであるかどうか調べましょう。

西洋のほとんどの宗教の信者は,死後悪人は地獄の火の中で永遠に責めさいなまれる,と心から信じています。その場所に行く者は,信じられないほどの苦しみを肉体に加えられる,と考えています。けれども,自分の子供の手を熱い火の中に突っこんでやけどをさせる父親をあなたはどう思いますか。無分別で残酷な親でなければそんなことはできない,と考えるでしょう。仮りにある人が,動物たとえば犬を捕えて,生きたまま火あぶりにしたら,狂暴で,無神経で,恐ろしいばかりにいまわしい行為だと考えるでしょう。

ところが私たちは,愛の神が人間に対してもっとひどいことをする,と信ずるように言われているのです!

この信仰は事実にもとづいていますか。そのような信仰に対して神がどんな態度をとられるかは,同様の性質のものが古代イスラエルの国で行なわれた時のことからわかります。当時イスラエル人は,自分の子を実際に火中に投じて,モレクという偽神へささげていました。この行いについて全能の神がなんと言われたか注意してください。「彼らは……ベンヒンノムの谷にバアルの高き所を築いて,むすこ娘をモレクにささげた。わたしは彼らにこのようなことを命じたことはなく,また彼らがこの憎むべきことを行って,ユダに罪を犯させようとは考えもしなかった」。(エレミヤ 32:35,新口)神はそんなことを考えもされなかったのです。ではどうして神が,人々を地獄の火の中で永遠に責めさいなんで,それ以上にひどいことをされると言えるでしょうか。

意識的に悪を行なう者の運命は明白です。「エホバはおのれを愛しむものをすべて守りたまへど,悪者をことごとく滅ぼしたまはん」。(詩 145:20)永遠の責苦ではなく滅亡こそ,意識的に悪を行なう者が受ける分です。

火の燃える地獄の責苦を信じまた教える者は,神に汚名をきせる者です。彼らは,神が虚偽として退ける教理を神の教えとして教えるのです。この教理はまた,道理をわきまえた人を神から引き離します。道理をわきまえた人は,私たちがものの言えぬ小犬にさえしないことを人間に対してする神に信仰を置くことはできないと感ずるのです。

間違った崇拝でも,誠意から出たものなら神に認められるとすれば,なぜモレクに子供の犠牲をささげる習慣が世から姿を消したのですか。イスラエル人はこの間違った崇拝を行ないましたが祝福されませんでした。彼らの誠意は受け入れられなかったのです。モレクは生ける真の神ではありませんでした。神はこの偽神への信仰と奉仕を退けられました。

永遠の責苦の教理を信ずるキリスト教国の多くの人は,異教国にも同じ信仰があることを知って驚くかも知れません。悪人のための火の燃える地獄は,異教国に住む何百万という人々が信ずる主要教理の一つなのです。

神のみことばは真理

以上は,「異教徒」および「キリスト教徒」の宗教のわずか2,3の教理を大ざっぱに分析したにすぎませんが,心ある人はこれから次のことを知るでしょう。すなわち,ある教理を誠実な気持で信じても,それによって間違いが間違いでなくなることはない,ということです。それによって間違ったことが神に受け入れられるようにはならないのです。神は間違いを黙許することができません。神は偽りを祝福することができません。神は真理の神です。ヘブル書 6章18節は,「偽ることのあり得ない神」と述べています。ですから神は,たとえ神の名によって真心から教えられても偽りを是認されることはありません。

たしかに神は私たちが崇拝に誠意を示すことをお望みです。しかし神が望まれるのは真の崇拝を誠実に行なうことであって,偽りの崇拝を誠実に行なうことではありません。

真の崇拝をすることを心から望む人の助けとして神は,間違うことのない導き,すなわち神のことばである聖書を準備されました。この神のみ旨の啓示によって人間は,神がどんなかたであるか,どんな目的をもたれるか,真理の正確な知識とは何か,たしかめることができます。イエス・キリストが天のみ父への祈りの中で言われたとおり,「あなたの御言は真理であります」。(ヨハネ 17:17,新口)神は正しい新しい秩序を立てられます。その中で人間は楽園の状態のもとに完全に健康で幸福に永遠に生きます。その秩序のもとに住むことを願う人は,何が真理か知るために,神のことばを研究しなければなりません。イエスも言われました。「永遠の命とは,唯一の,まことの神でいますあなたと,また,あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」。―ヨハネ 17:3,新口。

あなたはきっと心から信じておられるでしょう。しかし,誠意そのものは間違った信仰を正しいものに変えたり,神に受け入れられるものにしないということを忘れてはなりません。神はあなたが,文字に書かれた神のみことばを用いて何が正しいかを決めるように望んでおられます。神はこの方法により,あなたがはたして神の祝福に価する者かどうか試験されます。もしあなたがそれに無関心で,宗教上の思索をすべて他の者に任せるなら,神の恵みを期待することはできません。

知らないものを食べて自分の身に害を招く幼い子供のまねをしてはいけません。「人が見て自分で正しいとする道があり,その終りはついに死にいたる道となるものがある」。(箴言 16:25,新口)そういう道を選ぶよりもむしろ,「心をつくしてエホバを信頼しなさい。自分のさとりにたよってはならない。すべての道で彼を認めよ。そうすれば彼はあなたの道をまっすぐにされる」。―箴言 3:5,6,新世。

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