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生まれる以前に生きていましたか?ものみの塔 1963 | 10月1日
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聖書は示しています。人間は,許すことをしあわれみの心を持たれる創造主の作であることを,聖書は示しています。そして創造主は愛の気持から,生まれ変ることによって罪のつぐのいを要求する無情で人格をもたぬ法律の支配下に人間を置くかわりに,人間が罪のゆるしを受ける手段を準備されました。そして,神に従い,みこころどおりに神を崇拝する人々に,喜びに満ちた永遠の生命,平和,安全を,贈り物として与えることを約束されています。
エホバは,罪をあがなう完全な人間の犠牲によって,人間が罪のゆるしを受けうる手段を設けられました。そのかたについて聖書はつぎのように述べています。「預言者たちはみな,イエスを信じる者はことごとく,その名によって罪のゆるしが受けられると,あかしをしています」。(使行 10:43,新口)どんな過去をもっていようと悔い改めるなら,その犠牲はゆるしを可能にします。エホバは,彼らが罪を清めるために何回も生まれ変ることによって苦しむことを要求されません。「たといあなたがたの罪は緋のようであっても,雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても,羊の毛のようになるのだ」。―イザヤ 1:18,新口。
霊魂が転生するとか,人はこの世に生まれ出る以前に存在していた,というような考えは,人間の霊魂は不滅で,肉体が死んでも霊魂は死なないという観念につながっています。霊魂とは,肉体から遊離し,人格性を有して意識ある存在をつづけるもの,とふつう考えられています。この観念は,キリスト教と称する多くの宗派をも含めて,世界の諸宗教によって広く受け入れられていますが,人間の創造主は,それが事実であることを確証してはおられません。
人間は死ぬと物事を意識しなくなる,と聖書ははっきり述べています。「その霊が出て行けば彼は土に帰る。その日に彼のすべての企は滅びてしまう」。(詩 146:4,新世)人間の霊,すなわち生命力は,人をその人たらしめる無形のものと考えることはできません。それはちょうど,いろんなタイプの機械を動かす電力が,それらの機械の明確な相違になんらの関係もないのと同じことです。人間のくわだてが滅びるという事実は,意識ある存在の停止を示します。聖書は,魂は人間の中にある不滅のものという思想を伝えずに,魂は死ぬと述べています。「罪を犯せる霊魂は死ぬべし」。―エゼキエル 18:4。
人間が,肉体を離れて意識ある存在を保ち得るものを何も持たない以上,人間が存在しているのは現世だけです。そして将来に対する人間の希望は,愛に満ちた人間の創造主が,死者を復活させるためにもうけられたご準備にかかっています。生きている時の人間の行いは,彼が神におぼえられて復活させられるか,あるいは忘れられて無意識の死の状態に打ち捨てられるかを決定する要素になります。エホバの是認を受ける者にはすべて,永遠の生命という賜物が与えられます。「神はそのひとり子を賜わったほどに,この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで,永遠の命を得るためである」。―ヨハネ 3:16,新口。
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アルゼンチンの開拓者ものみの塔 1963 | 10月1日
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アルゼンチンの開拓者
◇ 昨奉仕年度中,アルゼンチンにおいては開拓奉仕が主題になり,巡回大会や地域大会の時にその事が強調されました。開拓者の名簿にのっている人が増加し,この活動に多くの人がこたえたことが分かります。1961年度中の最高開拓者数は415名でしたが,昨奉仕年度には579名になり,この奉仕を楽しんだ人が前年度にくらべ164名多くなりました。人々に「生命の言葉」を分け与えることの喜び,また開拓奉仕の喜びについて考えて下さい。二人の特別開拓者はある土地に任命されました。2年と9ヵ月後には,29人の伝道者が生まれ,御国会館も献堂し,そのときには65人が出席しました。―1963年の年鑑から
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