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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1955
塔55 9/1 330–336ページ

確信を与える献身の歴史

『ヱホバを恐れ,かつ忠実と真実をもつて彼に仕えよ。……私と私の家族はヱホバに仕える。』― ヨシユア 24:14,15,新世。

1 ヱホバに崇拝を捧げるとき,なぜ彼に献身することは必要ですか? このことはエジプトにいたイスラエルの場合に,どのように示されていますか?

崇拝とは,崇拝の対象物の特質から生ずる価値を認めて,尊崇の気持ちをもつて遇することです。それで,ヱホバ神に崇拝を捧げるとき,ヱホバ神の素晴らしい特質の故に,彼に献身することが必要であります。モーセとその友なるイスラエル人たちは,エジプトでヱホバを崇拝し,彼の律法に逆うのを拒絶しました。(出エジプト 1:17,21。ヘブル 11:23-29)ヱホバは,イスラエルが御自分の民であることを認められました。『私は,エジプトにいる私の民のくるしみを間ちがいなく見ており,……私はエジプト人の手から彼らを救い出そうとしている,……さて私はお前をパロのところに送り,イスラエルの子孫である私の民をエジプトから導き出させよう。』(出エジプト 3:7-10,新世)ヱホバはアブラハム,イサク,そしてヤコブと契約を結んで,御自分の目的を述べられていました。彼はその御目的を決して忘れず,そして遂には救助の裔を備えるということを御期待しつつ,「その契約を憶えておられる。」(出エジプト 6:5,新世)モーセを通してイスラエルの子らに述べられたヱホバの言葉は,次のようでした。『私はかならず,あなた方を私の民となし,私はあなた方の神になるであろう。あなた方は,エジプトの重荷から救い出している私が,あなた方の神ヱホバであると必らず知るであろう。私は,手を上げてアブラハム,イサク,ヤコブに与えると誓つた地に,あなた方を導くであろう。そしてそれをあなた方に与えよう。私はヱホバである。』― 出エジプト 6:7,8,新世。

2 イスラエルをエジプトから救つた目的は,どのように示されていますか?

2 エジプトから救い出された時に,次のことが再三再四明白に示されました。つまり,エジプトからイスラエルを救い出した目的は,彼らがヱホバの民となつて,彼に崇拝と奉仕を捧げるためでした。イスラエルは,エジプトからの救助の後に,いつたい何が要求されるかをその時知りませんでしたが,しかしヱホバの命ずるとおりのことを為そうと決定しました。(出エジプト 10:26)ヱホバは,その民について,モーセに言われました『お前はパロに言わねばならない。「ヱホバはこう言われる『イスラエルは私の子,私の長子である。そしてお前に言う,私に仕えることができるように私の子を去らしなさい。もし彼を去らせないならば,私はお前の息子,お前の長子を殺すであろう。』」』― 出エジプト 4:22,23,新世。

3 イスラエルの献身の行を示す事実を述べなさい。

3 ヱホバは,その御力によりこの言葉を成就しました。そして,エジプトの軍勢を亡ぼして,御自分の民であるイスラエルを救いました。この救い出された民,そしてヱホバに献身している民は,ヱホバの民であつて,ヱホバの命令に従いました。『ヱホバはさらにモーセに言われた。「人でも家畜でも,イスラエルの子らの中で最初に生まれる長子を潔めて私に捧げよ。それは私のものである。」』(出エジプト 13:1,2,新世)と強調されました。エジプトから救助された時と,その後に,崇拝についての詳細な事柄は,献身したこの民に述べられました。シナイ山で,ヱホバは契約制度を通し,イスラエルの国民と御自分とのあいだの特別な関係を,彼らに強調しました。そして,イスラエルの国民全部は,その献身を果す同意を表明しました。ヱホバの言葉はこうです。『もしあなた方が私の言葉にかたく従い,そして私の契約を本当に守るならば,あなた方は他のすべての民たちの中より私の特別な所有物になるであろう。なぜならば,全地は私に属するからである。そして,あなた方は私にとつて祭司の国となり聖なる国民となるであろう。』『その後,全国民は一致して答えて言つた。「私たちはヱホバの語られたことなら,みなよろこんで行う。」』― 出エジプト 19:5,6,8,新世。

4 イスラエルの始めた生活の仕方を説明しなさい。ヱホバが何を求められたかを示す多くの事実を述べなさい。

4 救助された人々で成り立つ従順の国民,そして御自分の特別な所有物とヱホバの言われた民にむかい,『神はこれらのすべての言葉を語られた「私はあなた方を,エジプトの地より,奴隷の家から導き出したあなた方の神ヱホバである。あなた方は私以外の何ものをも神にしてはならない。』(出エジプト 20:1-3,新世)出エジプト記 20章の最初の17節を読んでごらんなさい。特に,第5節(新世)には『あなた方の神である私ヱホバは,専心の献身を求める神である。』と書かれています。それに続く後の章は,そこで提起された契約の詳細の箇条を述べており,そして,次のような言葉で終つています『あなた方は,彼ら,あるいはその神々と契約を結んではならない。あなた方の地に,彼らを住まわせてはならない。さもないと,あなた方は彼らの影響をうけて私に対して罪を犯すようになるであろう。あなた方が彼らの神々に仕えるならば,それはあなた方にとつて罠となるであろう。』(出エジプト 23:32,33,新世)イスラエルの国民はエジプトから解放され,そしてモーセを通して与えられたヱホバ神の律法下に制度化されました。そして神の崇拝を中心とする生活を始めました。その神は彼らの支配者,律法の与え主,審判者,そして彼らの崇拝の対象であつたのです。彼らはこのことを認め,献身の気持のうちに『私たちはヱホバの語られたことなら,みなよろこんで行おう。そして従順に従おう』と言いました。(出エジプト 24:7,新世)その後再びヱホバは御自分の民を正しく指示して,こう述べました。『レビ人を取つて,イスラエルの子らのすべての長子に代えさせ,レビ人の家畜を取つて,彼らの家畜に代えさせよ。レビ人は私のものにならねばならない。私はヱホバである。』(民数記略 3:45,新世)ヱホバはその民を更に制度化して,そして儀式のことでも政府のことでも,御自分の崇拝に関連するあらゆる事柄を正しく遂行いたしました。ヱホバは彼らの王でもあり,また支配者でもあつたからです。

5 ここに列挙されている歴史的な出来事を述べなさい。そして,献身は各人の為す重大な行であることを示しなさい。

5 神の民であるイスラエルの歴史の中には,人々が物や人を捧げた時が多くありました。申命記 20章には,戦争に召された人が,まだ住んだことのない新しい家を持つている場合の手続きが記録されています。サムエル後書 8章11節に,ダビデは器を『納め』たと言われています。ここの『納める』という言葉は,神聖なるものにするという意味を含んでいます。列王紀略上 7章51節でソロモンはダビデが以前ヱホバに捧げた品物を宮にたずさえています。列王紀略上 8章63節で,王と全国民はヱホバの家を捧げて,ヱホバ崇拝のために正しく使用しはじめたと示されています。善良な女ハンナは,幼児を孕む以前に,その子をヱホバに捧げると誓いました。その子サムエルは忠実に奉仕して,ヱホバ神の崇拝をいたしました。(サムエル前 1:11)サムエルは,自分の献身した奉仕に関して,彼自身も行動を取りました。それはサムエル前書 3章10節に示されています。『サムエル,僕きく語りたまえ,と言う。』彼が従順を守つたことは,その宣教の記録全部に示されています。サムエル前書 3章19,20節はこう述べています。『サムエルそだちぬ。ヱホバこれとともにいまして,そのことばをして一も地におちざらしめたもう。ダンよりベエルシバにいたるまでイスラエルの人みなサムエルがヱホバの予言者とさだまれるを知れり。』予言者イザヤは,自発的に進んで神の奉仕に従事しました。『我またヱホバの声をきく曰く,われ誰をつかわさん。誰か我らのために往くべきかと。そのとき我いいけるは,われ此にあり,我をつかわしたまえ。ヱホバ言いたまわく,往きてこの民にかくのごとく告げよ。』(イザヤ 6:8,9)むかしからの真の崇拝の記録は,そろつて次のことを証しています。つまり,献身とは,ヱホバ神を崇拝し,ヱホバ神の是認をうけるすべての人各人が正しく取る重大な行ということです。

神の御子の献身

6 イエスの場合,彼の献身はなぜ正しいものでしたか? そしてなぜ大切でしたか?

6 ヱホバ神への献身の例の中で,取分け際立つものはキリスト・イエスの献身です。イエスは自分の神に献身していました。彼はユダヤ人の律法を守りました。律法の下にあつて,イエスは30歳になり,自分の生涯に何を為すべきかという質問に直面しました。神の御意を為すべきであろうか? 大工職を為し続けて,ただモーセの律法に従うということは神の御意なのであろうか? 否,ヱホバの崇拝を拡張しなければなりません。そして,新しい神権制度であるクリスチャン会衆を設立して,その成員を集め,そしてその後に実体の神権政府,つまり天の御国と正義の新しい世の設立という神の御目的は,一段と進歩されねばなりません。イエスは自分の御父と,ヘブル語聖書中に録されていた御父の言葉を良く知つていました。彼はヱホバの至善さを知つていて,大工でいることに満足せず,そして利己的な気持を全く持たず御父の御意を為し続けました。彼は決定して,その心を定めました。彼は今後の生活に対する行動を決め,詩篇 第40篇の予言を成就しました。40篇の一部は,こう述べています『なんじ犠牲と祭物とをよろこびたまわず,汝わが耳をひらきたまえり。なんじ燔祭と罪祭とを求めたまわず。そのとき我いえらく。視よ,我きたらん。わがことを書の巻にしるしたり。わが神よ我は聖意にしたがうことを楽しむ。なんじの法はわが心のうちにありと。』(詩 40:6-8)ヘブル書 10章で,使徒パウロはこの予言を引用し,それは献身した時のキリスト・イエスに適用すると述べました。神にすべてのものを捧げたこの御子は,神の御意を行い,献身したこの僕の心に留められていた神の律法に従おうと自ら神への厳粛な献身をしました。彼は,このように始めた行為から決して逸れなかつたのです。その決定は,イエスにとつて大切でした。同じような決定は,あなたにとつても大切です。

7 (イ)何の理由で献身をしますか?(ロ)形式的なことは適当ですか? なぜ?

7 イエスは何の理由で献身しましたか? 神についての知識,天的な御父に対する愛,清い崇拝の義を進めて,ヱホバの御目的を拡大し,ヱホバの御名を立証しようという熱心な望みでありました。今日,人は何の理由でヱホバに献身しますか? 真理の知識,ヱホバの目的についての理解,キリスト・イエスを通して人類が持ち得る生命の見込み,御子を通して為された神の御準備への感謝,各人の心のなかに生ずる愛,そして,悪魔の支配する不敬虔な古い世の実践や標準に従わず,神の御意に従つて,神の御名を立証しようという決定であります。それは最高至上者への献身であります。イエスはなぜ自分の仕事を働かなかつたのですか? そして,働きながらできるだけの宣教をしなかつたのですか? なぜ,彼は献身しなければなりませんでしたか? 神の御意を為して,神の崇拝を為すことは,好い加減の事柄ではないからです。それは,しても良く,しなくても良いという事柄ではありません。ヱホバに献身することは,特別の厳粛さを必要とし,契約または公式の同意をなすことを必要とします。いつたん,献身が表明されるとき,その人に関係するすべての人も,また観察者のすべての人も,献身した人に今後何を期待すべきかを知ります。献身をしてからは,身を慎んで,正しく振舞うことが要求されます。

8 (イ)献身のとき,ヱホバにむかつて実際に何と言いますか?(ロ)責任を避けるために,献身を差し控えるのは,なぜ良くありませんか?

8 表向きだけは形式振つても,その裏は利己的なものに追い耽けるということは献身でありません。それとは全然逆になるものです。献身は,神の御意を為そうという良く考慮した平静な決定であります。そして正直な気持ちから,ヱホバにこう言います。『私はあなたの御意を行うために来ました。私はあなたにすべてを捧げました。私はあなたに献身しました。私はここにいます。私を遣して下さい。あなたの言われることならば,何事も為しとげます。あなたの御言葉と律法より私を教えて下さい。あなたに讚美を捧げ得るよう私を用いて下さい。』ある人は『しかし,献身はなんと大きな責任をもたらすのでしよう!』と言うかもしれません。たしかに,献身は大きな責任をともないます。献身がないならば,その時責任がありますか? 契約がないならば,その契約の条件を果す責任や責務はありません。それで,献身しないならば,作られていない献身の条件に,人は従うことができません。そういうことならば,神への献身を差しひかえて,責任を避ける方が良くないでしようか? 否,それは現在の裁きの日にあつて非常な間ちがいであります。なぜ? なぜならば,知識と感謝の念が不足しているか,あるいは利己主義の気持を持つているとき,人は献身できないからです。ヱホバ神は感謝の念を持たない利己的な人,あるいは不誠実な人に生命を与えません。健全で真実の信仰を神に持つならば,私たちは神に献身します。もし献身をしないならば,それは神の言葉を信じないか,神に注意を払つていないことになります。そのどちらにしても,私たちは神から生命をいただくことはできません。血を吸う蛭のように,ヱホバの設けられた御準備をみなしぼり取つてしまうような人々がいます。ヱホバ神はそのような人々に生命を与える義務を有していません。彼らはすべてのものを取つて自分のものにしながら,そのお返しに心を捧げようともしなければ,深い感謝も,愛も,有難さも,忠実も,公正も,そして敬虔な事柄を得ようとする努力も示さないのです。

9 献身に関しての正しい態度と基礎を指摘しなさい。

9 それで,献身を恐れてはなりません。むしろ,献身を切望しなさい。正しい知識を得なさい。真理を学びなさい。御言葉の中に述べられているヱホバの御準備を良く知りなさい。そして,真理があなたの心に生ぜしめる愛の気持ちから,ヱホバの御意を為すため献身いたしなさい。ヱホバ神に献身いたしなさい。イエスは「あなたの御意を行うのは私の憎むところであるが,行わねばならない。私は無理強いに強制されている」とは語つていません。予言の示すところによると,『わが神よ,我は聖意にしたがうことを楽しむ』とイエスは言われています。献身ということについて,各人は自分の自由意志を用います。献身は決断力のない,意志の弱いものでありません。それは決意の充ちた,強い意志の事柄であつて,その強い意志をヱホバ神の御意に従わせることであります。そして,ヱホバ神のいましめに従おうと決意することであつて,御言葉の中に表明されている神の御意に反する人間のいましめや,自己の利害に従うことではありません。ヱホバに献身する人は,献身という行により,また神の御意を為そうと同意することにより,ヱホバと個人的な関係を持つようになります。これは,神への愛と,キリスト・イエスを通して為された神の御準備への信仰に基くものです。そして,私たちは,かならずや私たちのために適用されるイエス・キリストの贖の価値により,ヱホバの御前に立つことができるのです。

10 実際的なもので,すすめるのに価値があり,賞讃に値する,重要な献身の結果を詳細に述べなさい。

10 それで,献身は非実際的で,頭の中だけのものでなく,又無用なもので,偽りの宗教のもの,そして意味のない表現ではありません。それどころか,献身は実際的なもので,すすめるのに価値があり,賞讃に値する,重要なものであります。イスラエルの国民は,神の選民であつたため,エジプトの世から自由に解放されました。ヱホバへの献身は私たちにも自由をもたらします。献身によつて,私たちの物の見方は変り,私たちは神の御言葉の目と,神の御目的を理解する目を通して物事を見るようになります。私たちはヱホバに確信と信頼を置くことによつて,もはやこの古い世,その制度,その標準や慣習,あるいは悪魔的な宗教に捕われることはありません。献身をするとともに,私たちはヱホバの奴隷になるのではありませんか? 確かに,ヱホバの奴隷になります。それは献身の一つの目的です。私たちが,神の地上にいるのは,私たちの勝手な気持ちによるのでなく,また私たちの準備によるのでもありません。私たちは,正義と不義のどちらかの奴隷あるいは僕にならねばなりません。私たちがヱホバ神に献身して,彼の奴隷になることを選べば,それは正しい選びをしたことになります。イエスはそれをいたしました。イエスの行は,天の御父にたいする愛と熱心からなされましたが,彼の献身は,その事実に示されています。

11 ヨシュア記 24章にあるヨシュアの経験の中では,どんな良い決定が為されましたか?

11 この問題は,ヨシュア当時の問題を思い起させます。ヨシュアはこのように言いました。『いまやヱホバを恐れ,かつ忠実と真実をもつてヱホバに仕えよ。そして,あなた方の先祖が河の向う岸とエジプトで仕えた神々を取りのぞき,ヱホバに仕えよ。ヱホバに仕えるのを悪いと見えるならば,あなた方は今日,あなた方の先祖が河の向う岸で仕えた神々にもせよ,あるいはあなた方の住んでいる地のアモリ人の神々にもせよ,誰に仕えるかを選びなさい。しかし,私と私の家族はヱホバに仕える。』(ヨシュア 24:14,15,新世)そのとき,イスラエルの国民がヨシュアに述べた答は,非常に賢明な決定でありました。『民はこれに答えて言つた。「私たちがヱホバを棄てて他の神々に仕えるなどということは考えもしないことである。私たちと私たちの先祖をエジプトの地から救い出したのは私たちの神ヱホバであられる。……ヱホバは私たちの神である故に,私たちもヱホバに仕える。」』(ヨシュア 24:16-18,新世)それらの人々は,その時ヱホバに献身しましたか? 否,彼らはヱホバへの献身を確認しており,再び強調していたのでした。その記録は,さらにこう続いています。『それでヨシュアは民に言つた。「ヱホバは聖なる神である故に,あなた方はヱホバに仕えることができない。彼は専心の献身を求める神である。彼はあなた方の過ちと罪をゆるされない。あなた方がヱホバを棄てて外国の神々に仕えるならば,ヱホバは必らずあなた方から離れ,あなた方に福祉をなして後あなた方に害を加えて亡ぼしてしまうであろう。」民はヨシュアに答えて言つた「否,私たちはヱホバに仕える。」ヨシュアは民に言つた。「あなた方は,自分からヱホバを選んで仕えると言い,自分自ら証者である。」彼らは「私たちは証者である。」と言つた。「それでは,あなた方の中にある外国の神々を取りのぞき,イスラエルの神であるヱホバにあなた方の心を傾けよ。」民はヨシュアに答えて言つた「私たちは,私たちの神であるヱホバに仕え,彼の言葉に従おう。」その日,ヨシュアは民と契約を結び,シケムにおいて規則と法規とを彼らのために定めた。』― ヨシュア 24:19-25,新世。

12 生命の祝福をうけることは,どんな道の目標ですか?

12 献身の道は,非常に祝福されたもので,ヱホバ神に奉仕するすべての人に求められています。献身は永遠の生命にみちびきます。ルカ伝 14章27節(新世)にあるイエスの言葉は,献身の必要性を示しています。『だれでも,自分の刑柱を負つて,私に従わない者は,私の弟子にはなれない。』代表者キリスト・イエスを通して至上の支配者ヱホバに献身して,生命への救を得ます。むかし,正義の人ヨセフが国政を掌つていたエジプトの国で,飢餓に面した人々は次のように話して,その救を示しました。『食物と引きかえに私たちと私たちの土地を買つて下さい。私たちは土地とともにパロの奴隷になります。私たちに種子を下さい。そうすれば私たちは生きることができて死をまぬがれ,土地も荒れることはない。』『それでヨセフはエジプト人の全地をパロのために買いとつた。……彼らは言つた「あなたは私たちの生命を救つた。」』― 創世 47:19,20,25,新世。

決定

13 献身,謙遜,悔い改めにみちびく決定の中で,信仰はどんな役割を果しますか?

13 献身と結びついて信仰の大切なことは,前に述べました。人は神と神の御目的を知つてから信仰を持ち,その信仰により神に来なければなりません。神の真理の言葉である聖書を学んで,その知識を得ることができます。このことから,『私は道であり,真理であり,生命である。私を通してでなければ誰一人として御父に行けない。』(ヨハネ 14:6,新世)と言われたイエスの言葉は,至当なものです。ヨハネ伝 6章44節(新世)のイエスの言葉も同じことを示しています。『私を遣わされた御父が引き給わないならば,何人も私のところに来ない。私は終の日に彼を復活させる。』使徒パウロは,ヘブル人に同様な事を書きました。『それに,信仰がないならば,神の良いよろこびを得ることはできない。神に近づく者は神のおられることと,神は神を熱心に求める者には報いを与える方であるということを信じなければならない。』(ヘブル 11:6,新世)謙遜が必要です。霊的な必要物を意識している謙遜な人だけが,ヱホバに献身します。そして,謙遜な気持ちから,うけついできた罪と弱さを認め,かつ心からなす悔い改めが必要です。初期のキリスト教信者たちの行は,それらの大切な性質をはつきり示しました。『彼らはそれを聞いて心を刺され,ペテロと他の使徒たちに「兄弟よ,私たちは何を為すべきでしようか」と言つた。それで,ペテロの言葉を心から受け入れて信じた者たちは,洗礼をうけた。その日,約三千の魂が加えられた。』(使行 2:37,41,新世)ペテロは悔い改めをすすめましたが,その助言の言葉は使徒行伝の次の章に述べられています。『自分の罪をぬぐい取つていただくために,悔い改めて本心に立ち返りなさい。それはヱホバの御前から慰めの時が来て,あなた方のためにあらかじめお定めになつたキリストなるイエスを遣わして下さるためである。』― 使行 3:19,20,新世。

14,15 ルカ伝 14章28-33節のイエスの言葉は,献身について何を示していますか?

14 各人の責任,― つまり献身をしない人の責任と,ヱホバ神に献身する人の責任を十分に良く理解してから献身することは,賢明な決定であります。献身は,深く考えてしかもそれにともなう責任を良く悟つてから行われるものです。事業を行う前に費用を計算するというイエスの譬話は,そのことを良く説明しています。『たとえば,あなた方の中のだれかが,塔を建てたいと思うなら,それを仕上げるのに足りるだけのお金を持つているかどうかを見るため,まず坐つてその費用を計算しないだろうか? そうしないと,土台をすえただけで,仕上げるだけの資金がなく,それを見る人は皆「この人は建てかけたが,仕上げるだけの資金がなかつた」と言つて,あざ笑うようになるであろう。どの王でも,他の王と戦を交えに行くとき,まず坐つて,自分の一万の軍勢がはたして敵の二万の軍勢に対抗し得るかどうかを考えてみないであろうか? もし対抗することができないなら,敵がまだ遠くにいるあいだ,使者たちを送つて和を求めるであろう。それと同じく,あなた方も自分の財産をことごとくふり捨てないならば,私の弟子になることはできない。』― ルカ 14:28-33,新世。

15 献身という事柄に関して,献身をしようと,しまいとそのどちらの道も正しくて賢明であると考え,自分の勝手気儘に道が選べるなどと,イエスは話されてはいません。イエスの指摘されていることは,こうです。自分の財産をことごとくふり捨てない者は,イエスの弟子になることも,又イエスの道に従いキリスト・イエスを通してヱホバ神に献身することもできません。といつて,私たちが貧民になることではありません。献身は,私たちのすべて,私たちの生命,私たちの富,ありとあらゆるものをヱホバに捧げ,そして最善をつくしてヱホバの御意を行い,またヱホバのいましめを守ることによりヱホバに讃美を捧げることです。私たちは,このことを為したいですか? それを良く考えるとき,そう為したい気持を感じますか? 私たちはそう感ずべきであります。このことから,献身は,天幕集会における復生運動の非常な緊張と刺戟でなされる感情的な『改宗』ではありません。献身は,事実の光に照し合わして,静かに深く考慮してなされるものです。そして次のことを考えに入れます。

16 ヱホバに献身する人は,どんな事実を静かに考えますか?

16 ヱホバに献身する人は,ヱホバを最高主権者,生命の与え主と認めねばなりません。またキリスト・イエスを救い主,王と認めねばなりません。そして,神の御霊は神の活動力であり,献身したクリスチャンの生活に重要な位置を持つという事実をしつかりと理解しなければなりません。これらのことは,私たちの信仰の根本であり,それが献身に直接結びついていることは,イエスの言葉からも分ります。『行つてすべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊の名によつて洗礼を施しなさい。』(マタイ 28:19,新世)むかし,詩篇を書いた人は『かれらはヱホバという名をもち給う汝のみ全地をしろしめす至上者なることを知るべし』と祈りました。(詩 83:18)そしてまた,『いのちの泉はなんじに在り。』とも祈りました。(詩 36:9)ピリピの会衆を組織する特権を持つた使徒パウロは,その会衆にあててこう書きました『この故に,神は彼(キリスト・イエス)を勝れた地位に高めて,すべての名に優る名を彼に与えられたのである。これは,イエスの名に在つて,……すべてが膝まづき,またすべての舌は「イエス・キリストは主である」と言い表わして,父なる神に栄光を帰するためである。』(ピリピ 2:9-11,新世)献身は,深く静かに考えてから決定する選択であります。『自分の肉に播く者は,その肉から腐敗を刈り取り,その霊に播く者は,その霊から永遠の生命を刈り取るであろう。』(ガラテヤ 6:8,新世)『御霊で充ちなさい。』― エペソ 5:18,新世。

17 人は,自分の献身がヱホバの御旨にかなうかどうかを,どの様に知りますか? このことにつき,私たちを励ますどんな記録が残されていますか?

17 ヱホバ神が私たちの献身を認めてうけいれるということを,どうして知り得ますか? 私たちの献身が,心からの誠実なものであるなら,ヱホバはそれをうけいれます。ヱホバは,誠実で祈りのこもつた献身をうけ入れ,しかもおよろこびになります。このことから,『私には神に奉仕することができない。神の御旨にかなうことはできない。ヱホバに献身することはできない。ヱホバの証者になることはできない』と言う程に臆病で,そして劣つていると感ずる人は,力と助けを得るでしよう。コルネリオについての記事は,私たちを励ましてくれます。こう書かれています『ある日の午後三時ごろ,神の御使が彼のところに来て「コルネリオよ!」と言うのを幻ではつきり見た。彼は御使を見つめていたが恐ろしくなり,「主よなんでございますか」と言つた。御使は言つた「あなたの祈りや施しは神の御前にとどいておぼえられている。人をヨッパに遣し,ペテロと呼ばれるシモンという人を招きなさい。」コルネリオは(ペテロに)言つた「いまから数えて四日前,私が午後三時頃自宅で祈つていると,とつぜん輝いた衣を着た人が私の前に立つて,こう言いました。「コルネリオよ,あなたの祈は聞きいれられ,あなたの施しは神の御前におぼえられた。」ペテロがこれらのことを語つてまだ言い終らない中,それを聞いていた人の上に聖霊がくだつた。』― 使行 10:3-5,30,31,44,新世。

18 誰が献身の特権を持ち得ますか?

18 あなたの国や,家系や,生活状態が何であろうと,また劣つた能力を多くうけつごうと少くうけつごうと,あなたは献身と忠実な奉仕により神の是認をうけることができます。あなたは確信してその事をなし,しかもそうすべきであります。これと関連して,栄光に輝く宮がソロモンの指示の下に落成した時に,どんな言葉が述べられたかに注意をいたしなさい。その祈りの一部分は,このようでした。『かつ又なんじの民イスラエルの者にあらずして,なんじの名のために遠き国より来る異邦人は,(そは彼らなんじの大いなる名と強き手と伸たる腕を聞き及ぶべければなり。)もし来りてこの家にむかいて祈らば,なんじの居処なる天において聞き,すべての異邦人のなんじによび求むるごとく為したまえ。なんじかく地の諸の民をしてなんじの名をしらしめ,なんじの民イスラエルのごとくなんじを畏れしめ,又我が建てたるこの家はなんじの名をもて称呼るるということを知らしめたまえ。』― 列王紀略上 8:41-43。

19 さらに,どんな点を理解することが必要ですか?

19 『ものみの塔』の他の記事で討議されたように,聖別と献身には聖書的な区別があります。聖書で用いている聖別は,キリスト・イエスと共になる祭司たちを任命する神の御業を指しています。そして,キリストと,油注がれて霊で産み出されたキリストの体の成員だけに適用します。もちろん,この行は,キリストの体の成員になるよう召されたクリスチャン各人が献身した後に,なされます。これらクリスチャンの希望は,天的なものであつて,ヱホバの『他の羊』の持つ地的な希望ではありません。人はヱホバ神に献身して後,何をすべきですか? ヱホバの永続する是認をうけるとともに,献身したクリスチャン生涯で成功するために,献身した人は何をしなければなりませんか? 聖書から見て献身したクリスチャンの責任は何ですか? これらの質問は,次号で考慮されます。

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