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  • 神にかんする,子どもの質問に答える
    目ざめよ! 1971 | 3月8日
    • できます。「定めのない時から定めのない時まであなたは神です」。―詩 90:2,新。黙示録 1章8節もごらんください。

      ところで,真紀子さんには次のような質問がありますね。

      「どうして人間とみつかいに,あくとぎの道をどちらかすきなようにさせたのですか」。

      真紀子さん,エホバはわたしたちの,愛のある天のお父さんですね。そして,この点で,エホバは愛のある地上のお父さんと似ています。愛のあるお父さんは,子どもたちに何をのぞみますか,子どもたちから愛を示してもらいたいと思います。わたしたちの天のお父さんについても同じことがいえます。天のお父さんは,わたしたちが強制されるからではなく,正しいことをするのをみずから選んで,お父さんに服従するよう望んでおられます。そうすることによって,わたしたちは天のお父さんに対する,わたしたちの愛を実証します。(ヨハネ第一 4:16,19)イエスはいつもそのようにして,み父に対する愛を示しておられます。それで,聖書はイエスについてこう述べています。「なんぢは義をいつくしみ悪をにくむ このゆえに神なんぢの神はよろこびの油をなんぢの友よりまさりて汝にそそぎたまへり」。(詩 45:7)そして,正しいことをするのを選ぶなら,エホバはわたしたちにも報いを与えてくださいます。それは次のとおりです。「エホバはおのれをいつくしむものをすべて守りたまへど悪者をことごとく滅したまはん」。(詩 145:20)

      しかし,真紀子さん,あなたはこう尋ねます。

      「あくは,はじめどこにあったのですか」。

      神は永遠の命を人間に授ける前に,簡単な試験を人間に課されました。人間は,その試験を受けて,神に対する愛を表わすでしょうか。人間は,ある1本の木の実を食べたり,あるいは,それにふれたりしてはならないと禁じられました。人間の男と女は,ある一定の仕方で動くよう仕組まれた動物や機械のように作られていません。ふたりは,自由意志を持つものとして『神にかたどって』作られたので,神を愛する道を選ぶことができました。(創世 1:26,27,新)それにしても,ふたりはそうした道を選びましたか。そうするどころか,ふたりは,その実を食べたいという欲望をみずから思いめぐらすままにしたのです。その悪い欲求はふたりの心臓に根をおろし,最初に女,次に男を動かして,神にそむかせました。悪行の責任を負わねばならないのは,ほかならぬそのふたりの男女でした。「試みに会うとき,だれも,『わたしは神によって試みられています』と言ってはならない。そうではない。神はよこしまなことをもって試みられることはありえないばかりか,神ご自身はだれをも試みられないからである。しかし,人はおのおの,自分自身の欲求に引かれ,かつ誘われて,試みられるのである。次いで,その欲求は,それが熟したときに罪を生み,次に,罪は,それが遂げられたときに死をもたらすのである」。―ヤコブ 1:13-15,新。

      真紀子さん,あなたの次の質問もたいへん興味深いものです。

      「神はどうしてつかれてもいないのに7,000年やすむのですか」。

      真紀子さん,聖書は確かに,神の休みの「日」について述べています。(創世 2:1-3)さらに,聖書はそれが7,000年の日であることを示しています。それは,永遠に生きておられる神の経験からすれば,ごく短い時間です。(ヘブル 4:10,11。黙示 20:6。コリント前 15:24,25。詩 90:4)しかし,神は,疲れたために,その「日」のあいだ休んでおられるのではありません。「彼は倦たまふことなく疲れたまふことな(し)」とあるとおりです。(イザヤ 40:28)神は創造のわざを休んでおられるにすぎないのです。美しい絵を書いている画家に似ています。画家は,絵の一部を書いてから,絵筆を休めて,何かほかのことをするため,席をはずすかもしれません。疲れたからではありません。しばらくして,画家は戻り,また絵を書きはじめます。エホバについても同じことが言えます。男と女を含め,地上のいろいろなものを創造したのち,神は創造のわざを休んでおられます。神は,7,000年の終わりまでに,完全な人類で地上の楽園を満たすという,ご自分の目的が必ず成し遂げられるとの確信をいだいて,休んでおられるのです。その時に,休みの「日」が終わると,創造のわざを再び始められるでしょう。

      真紀子さん,ほかにも質問がありましたね。

      「エホバ神あなたのお顔はどんなお顔なのですか。どうして人間にはあなたのお顔が見られないのですか。14万4,000人のみつかいもあなたのお顔が見られないのですか」。

      もちろん神は霊者ですから,人間のような顔を持っておられるわけではありません。しかし,聖書はこう述べています。「エホバはただしき者にしてただしきことを愛したまへばなり直きものはそのみ顔をあふぎみん」。(詩 11:7)わたしたちは文字どおり神を見ることはできません。なぜなら,神は霊で,わたしたちは肉だからです。でも,正直で正しい行ないをすれば,神に対する認識や愛をえ,また,神の是認の「ほほえみ」ともいえる,神からの祝福を受けるという意味で,神を「見る」ことができるようになるのです。―歴代下 16:9。

      忠実な人モーセは,昔,神のお顔を見せていただきたいと願いました。あなたは,神がなんとお答えになったかを覚えていますか。神はこう言われました。「なんぢはわが面を見ることあたはず我を見て生る人あらざればなり」。(出エジプト 33:20)それは,神があまりにも栄光に輝いておられるかただからです。エホバの栄光の現われた光景は,イスラエル人にとって,「山の頂に燃ゆる光のごとくに」見えました。(出エジプト 24:17)人間の弱い肉のからだは,核爆弾の閃光にたえられません。では,原子力その他,あらゆるエネルギーの源であられるエホバを一目見て,生き続けることがどうしてできるでしょうか。人類の中で,神のお顔を見ることを望めるのは,真紀子さん,あなたが指摘しているとおり,14万4,000人の「天の者たち」だけなのです。しかし,それらの人々は神を見る前に忠実なクリスチャンとして地上の生活を終え,杯ちない,天の命に復活させられねばなりません。―コリント前 15:42-44。

      しかし,ここで真紀子さんは次の点を知りたいと願っていますね。

      「キリスト後からなぜあなたをあいする人をみつかいにしたのですか。キリスト前に『エホバの友』といわれたアブラハムもいるのに」。

      それに,キリスト前の人として,バプテスマのヨハネもいます。このヨハネについて,イエスはこう言われました。「まことに汝らに告ぐ,女の産みたる者のうち,バプテスマのヨハネより大なる者は起らざりき。されど天の〔王国〕にて小き者も,彼よりは大なり」。(マタイ 11:11〔新〕)ですから,おわかりのように,クリスチャン証人以前の最も忠実な人々,つまりバプテスマのヨハネやアブラハムでさえ,天の者たちにはなりません。そうした人々は,「神の小羊」であるイエスが,ご自分の完全な人間としての命を犠牲としてささげられる前に死んだからです。そののちになってはじめて,イエスの犠牲に対する信仰を表わす人々が,「人のうちより(その犠牲によって)あがなわれて神と小羊とのために初穂とな」る14万4,000人の天の者たちの成員となれるようになったのです。(黙示 14:3,4。使行 16:31)ある人が天で生きるか,それとも地上で生きるかを決めるのは神です。(コリント前 12:18)しかし,天と地のいずれで生きるかにはかかわりなく,エホバの,忠誠を守る,しもべすべては,キリストを通して設けられる,神の申し分のないご準備を大いに喜び,永遠の命を受けるでしょう。―詩 104:28。ロマ 6:23。

      ですから,真紀子さん,命を与える知識を聖書から取り入れ続けましょう。(ヨハネ 17:3)あなたが言うとおり,きびしい試練に会うのは,ちょうど,落ちる危険のある,高いがけに立っているようなものです。それで,両足でしっかりと立ち,真理と正義の側に立つことを決意しなければなりません。ペテロの次のような,すぐれた助言をいつも思い起こしてください。「あなたがたは気をたしかにして,十分注意していなさい。あなたがたの敵対者,悪魔は,ほえるライオンのように歩きまわって,だれかを飲み込もうとしている」。「なんぢら信仰を堅うして彼を防げ,なんぢらは世にある兄弟たちの同じ苦難に会ふを知ればなり」。―ペテロ前 5:8(新),9。

      真紀子さん,地上のあらゆる国々に住む,幾万人もの若い人々は,あなたと同じように,復興される楽園で永遠の命を得るという希望をいだいて神を賛美しています。わたしたちの,愛のある天のお父さんは,あなたがた忠実な若い人々すべてのために,次の約束を果たされるでしょう。「勝を得る者はこれらのものをつがん,われはその神となり,彼は我が子[また,わたしの娘]とならん」― 黙示 21:1-7。詩 148:12,13。

  • 愛のある羊飼い
    目ざめよ! 1971 | 3月8日
    • 愛のある羊飼い

      ● 中東のヘルモン山の山腹で羊を世話している羊飼いたちの様子を見た,ある観察者は,それらの羊飼いが自分たちにゆだねられている羊をどのようにやさしく世話しているかをこう述べている。「羊飼いたちは各自分の群れの羊の状況を知るため,注意深く見守った。生まれたばかりの小羊を見つけると,アバと呼ばれる大きながいとうのひだに小羊を入れてかかえた。小羊は弱々しくて,母親のあとについてゆけなかったからである。ふところがいっぱいになると,羊飼いは小羊を肩に乗せ,足を押えて運んだり,ロバの背の袋やカゴに入れたりして,小羊が母親のあとについてゆけるようになるまで世話をした」。イザヤ書 40章10,11節にしるされているように,エホバは,牧羊生活に見られるそうした感動的な情景を用いて,ご自分の民に対するご自身の愛ある世話をわれわれが認識できるよう助けておられるのである。

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