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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1964
塔64 10/1 579–580ページ

他の人をおこらせますか

怒ったために愚かなことを言ったりしたりする人のあることを,ご存知でしょう。このような人も,悪いことをしたと思って後から謝罪するかも知れません。おそらくあなたもこのような怒りを覚え,怒りの気持ちのために無分別な行いをして後悔した経験があるかも知れません。

怒ったために無分別な行いをした著しい例が聖書に出ています。それはモーセの例です。モーセは約束の地にむかう途中で,イスラエル人に対して怒りを爆発させました。イスラエル人は騒ぎ,モーセにむかって水を要求したのです。神は岩に語ることをモーセに命じました。岩は水を出すでしょう。モーセは怒っていたため,人々に次のように言いました,「そむく人たちよ,聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」。(民数 20:10)モーセはここで大きな間違いをしました。怒りの気持ちに支配されたモーセは,「われわれが……水を出さなければならないのであろうか」と言って,神に栄光を帰さなかったからです。そこで神はモーセに言われました,「あなたがたはわたしを信じないで,イスラエルの人人の前にわたしの聖なることを現さなかった」― 民数 20:12。

モーセがその口で罪を犯したのはなぜでしたか。なぜ無分別な行いをしたのですか。ある人はモーセだけを責めるのに急で,モーセはかんしゃくを起こしたのだと言います。しかしモーセは争いを好む,怒りやすい人でしたか。モーセはそれとは正反対な気質の人でした。霊感によって書かれた聖書は,次のように述べています。「モーセはその人となり柔和なこと,地上のすべての人にまさっていた」。(民数 12:3)モーセは早まったことをするような人ではありませんでした。ただその時,他の人々の不義な行いのために,無分別に行動してしまったのです。モーセは,そむく心を持つ民の悪い行いにふんがいし,怒りをかきたてられました。

イスラエルの民がモーセの怒りをかきたてたことは,詩篇 106篇32,33節のことばを見ても明らかです。「彼ら〔イスラエル人〕はまたメリバの水のほとりで主を怒らせたので,モーセは彼らのために災にあった。これは彼らが神の霊にそむいたとき,彼がそのくちびるで軽卒なことを言ったからである」。モーセを怒らせた根本原因はイスラエル人にありました。

イスラエル人は時に神をさえ怒らせました。「ここに民災難にかかれる者のごとくにエホバの耳につぶやきぬエホバそのつぶやきを聞ていかりを発したまひ……」。(民数 11:1,文語)また申命記 32章21節にも,「彼らは神でもない者をもって,わたしにねたみを起させ,偶像をもって,わたしを怒らせた」と,しるされています。神も怒りました。それはなぜですか。イスラエル人の悪のためです。神の怒りはモーセの怒りと異なり,自制を失ったためのものではありません。

このすべてから分かるように,悪いのは人を怒らせる者です。人はふんがいするように仕向けられ,そのために無分別な言動をするかも知れません。人間はエホバと違って完全に自制することができないからです。もちろん無分別な行いをすることは間違っています。しかしその誘因はどこにありますか。他の者がその人を怒らせたからです。その人をふんがいさせる行動があったためです。では怒りの原因を作った者には罪がありませんか。決してそうではありません。もしその者が他の人を怒らすような事をしなければ,ふんがいした余りの無分別な行動は決して起きなかったでしょう。モーセの場合がそうでした」。「人となり(の)柔和なこと,地上のすべての人にまさっていた」モーセは,イスラエル人が彼を怒らせたのでなければ,分別を失うことはなかったに違いありません。

ですから無分別に怒る人もクリスチャンの愛を実践することに欠けているのは事実ですが,一方で他の人を怒らせる者の大きなあやまちをも見落としてはなりません。日常生活の中で,クリスチャンにふさわしい愛を持つ人が「いらだたない」ということは事実です。(コリント前 13:5)しかしクリスチャンの愛を持つ人が他人を怒らせないという事も,事実です。不必要に人を怒らせるのは憎しみの表われと言えます。「憎しみは争いを起し……」。(箴言 10:12)責任の地位にある者は時として他の人に助言を与え,あるいは他の人を矯正しなければなりません。たとえ親切にこの事をしても,怒りを買うことがあります。しかしそれはここで考えている事とは別の問題です。ここで考えているのは,日常生活において不必要に人を怒らすことです。

不親切に話す人,許すかわりに批評ばかりする人,人間の不完全さを思いやらない人,相手の気にさわることをあえてする人は他の人を怒らせます。このような人は自分も幸福になりません。人は不必要に怒りをかきたてられることを望みません。この人間性にさからう人は,きらわれます。それでみだりに言葉を出すことは,「つるぎをもって刺す」のに似ています。(箴言 12:18)それはどんな結果になりますか。「激しい言葉は怒りをひきおこす」。(箴言 15:1)それで人を怒らせるようなことを言ったり,したりすれば,怒りを買っても当然です。

従って不必要に人を怒らせるのは,クリスチャンのすることではありません。それは「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」とイエスが教えた最大の戒めに反します。(マタイ 22:39)人を怒らせることは,メリバにおけるモーセの場合のように,その人をあやまちに陥れるかも知れません。人をあやまらせる者を,神はどう見ますか。「正しい者を悪い道に惑わす者は,みずから自分の穴に陥る」― 箴言 28:10。

賢い人は他人を怒らせるかわりに,その言葉と行いによって人をいやします。「知恵ある人の舌は人をいやす」。(箴言 12:18)賢明な人は,人を怒らせることばや行いを知って,それを慎しみます。他の人を怒らせる懸念のある行いをする前に,次のように自問するのは賢明なことです。だれかが私に対してそれを言ったり,したりするならば,私はどう感ずるだろうか。

賢い人になりましょう。他の人を怒らせないように気をつけて下さい。人間同志の関係についてイエスの述べた原則を実行して下さい。「だから,何事でも人々からしてほしいと望むことは,人々にもそのとおりにせよ」― マタイ 7:12。

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