神聖な物事を正しく認識する
1,2 (イ)わたしたちはなぜ預言に対して正しい認識をもつべきですか。(ロ)わたしたちはなぜあがないを大切な事柄とみなすべきですか。
わたしたちに対するエホバの偉大なみわざとご配慮,また人類のために神がなされた事柄は数しれません。アダムの罪のゆえに人類が苦境に落ち,罪の宣告下に置かれてすぐ,神は将来の希望を差し伸べられました。それで,エホバに関係した神聖な事柄の中に,次のような聖書の最初の預言があるのです。「我汝と婦の間および汝のすえと婦のすえの間にうらみを置ん 彼は汝の頭を砕き 汝は彼のくびすを砕かん」。(創世 3:15)エホバはそのいつくしみにより,のちにこの問題についてさらに明らかにされ,きたるべき「すえ」に関して300以上の預言を加えられました。それはこの「すえ」がだれであるかについて疑問の余地をなくすためでした。エホバ神は幾時代にもわたり,そうした預言がキリスト・イエスの上に的確に成就するように事を図られました。そしてキリスト・イエスによって救いがもたらされます。エホバはわたしたちすべてが注目すべき事柄を行なわれたのです。使徒ヨハネはその点をこう説明しています。「神はそのひとり子を賜ふほどに世を愛し給へり,すべて彼を信ずる者の亡びずして永遠の生命を得んためなり」。「神の愛われらにあらはれたり。神はその生み給へるひとり子を世に遣し,我らをして彼によりて生命を得しめ給ふによる」。―ヨハネ 3:16。ヨハネ第一 4:9。
2 エホバはキリスト・イエスを通じて永遠の命のための備えをされましたが,これは決して尋常な事柄ではありません。それは特別なことであり,わたしたちが感謝しつつ大切に扱うべき事柄です。パウロはヘブル書 10章28,29節でその点をこう述べました。「モーセの律法をなみする者は慈悲を受くることなく,二,三人の証人により死に至る。まして神の子を踏みつけ,己が潔められし契約の血を潔からずとなし,めぐみの御霊を侮る者の受くべき罰の重きこといかばかりとおもふか」。
教え
3 イエスはあがないを備えることのほかに何をされましたか。
3 地上に来られた神のひとり子は,人類のためにあがないを備える以上のことをされました。つまり,神の神聖な真理の教え手として現われ,かつ神の御旨にそって歩むという面で模範を示されたのです。イエスは神のたよりを伝えつつ,こう語られました。「わが教はわが教にあらず,我を遣し給ひし者の教なり。人もしみこころを行はんと欲せば,この教の神よりか,我が己より語るかを知らん」。「我はこれがために生れ,これがために世に来れり すなはち真理につきて証せんためなり。すべて真理に属する者は我が声をきく」― ヨハネ 7:16,17; 18:37。
4 神聖な奥義の理解を特権とみなすべきなのはなぜですか。
4 神聖な真理の価値を認識しない人がいます。それに価しない者もいるのです。イエスの教え,およびイエスがたとえを用いられたことに関する記述は次のとおりです。「イエス人々を離れ居給ふとき,みもとにをる者ども,十二弟子とともに,これらのたとへを問ふ。イエス言ひ給ふ『なんぢらには神の国の奥義を与ふれど,外の者には,すべてたとへにて教ふ。これ「見るとき見ゆとも認めず,聴くとき聞ゆとも悟らず,ひるがへりてゆるさるる事なからん」ためなり』」。(マルコ 4:10-12)神の神聖な奥義と聖書の教えの意味を理解することは,神を愛する者だけに許される特権です。神の国に関する正確な知識はまさに宝です。それは心を傾けて聖書を勤勉に学ぶ者だけにもたらされるのです。あなたは神聖な教えの価値を十分に認識し,それをいつも学んでいますか。―ヨハネ 17:3。コリント前 2:10,14,15。
御国
5 イエスは天の御国をどれほど価値のあるものとされましたか。
5 イエスが天の御国の価値を十分に認めておられたことは,その教えの中によく示されています。「天国は畑に隠れたる宝のごとし。人,見出さばこれを隠しおきて,喜びゆき,もてる物をことごとく売りてその畑を買ふなり。また天国は良き真珠を求むる商人のごとし。価たかき真珠,一つを見出さば,往きてもてる物をことごとく売りて,これを買ふなり」。(マタイ 13:44-46)イエスは,御国を得るために,ご自分がすべてのもの,そして命をさえ捨てることをたとえで話されたのです。神聖な物事に対してこれ以上の認識を示せる人がいるでしょうか。イエスがそれを行ない得たのはなぜですか。それは自分が死ぬことについて多くを考えずきわめて尊い神聖な事柄つまり天の御国での前途を信仰によって望み見たからです。イエスのこの態度について使徒パウロはこう述べています。「信仰の導師またこれを全うする者なるイエスをあふぎ見るべし。彼はその前に置かれたる歓喜のために,恥をもいとはずして[刑柱]をしのび,遂に神の御座の右に坐し給へり」― ヘブル 12:2,[新]。
6 マタイ伝 6章19-33節で教えた事柄を自ら実践されたイエスはどのような結果を得ましたか。
6 こうして物事の価値を正しく認識していたイエスは,物事の見方について実際的な教訓を与えることができました。「なんぢら己がために財宝を地に積むな……なんぢら己がために財宝を天に積め,かしこは虫と錆とがそこなはず,盗人うがちて盗まぬなり。なんぢの財宝のある所には,なんぢの心もあるべし。まず神の国と神の義とを求めよ,さらばすべてこれらの物は汝らに加へらるべし」。(マタイ 6:19-21,33)イエスは自分が教えた事柄を自ら十分に受け入れておられました。イエスは実際に御国を第一にして歩まれたからです。そして他のすべてのものは加えて与えられました。
7 今日,御国に対して正しい認識を持つ人は何をしていますか。
7 この御国は今すでに建てられています。それは神聖なものです。あなたは御国に対して正しい認識を示していますか。まことのクリスチャンの会衆に属する者は今,黙示録 11章17節にあらかじめしるされた事柄を公に宣明しています。「今おられ,昔おられた全能者エホバ神よ,わたしたちはあなたに感謝します。あなたはご自分の偉大な力を執られ,王として支配を始められたからです」(新)。これは積極的な認識の仕方です。神聖な物事に対して無関心な態度をとるなら,神の是認を受けることはできません。わたしたちはラオデキヤの人々のような精神を持ちたいとは思いません。「ラオデキヤにある会衆の使いに書き送りなさい。アーメンたる者,忠実なまことの証人,神による創造のはじめである者がこう言う。『わたしはあなたの行ない,つまりあなたが冷たくも熱くもないことを知っている。わたしはあなたが冷たいか,さもなければ熱くあることを望む。あなたはなまぬるく,熱くも冷たくもないので,わたしはあなたを口から吐き出そうとしている』」。(黙示 3:14-18,新)天の御国を支持する面で積極的でなければならないことを認めてください。
御国宣教
8 イエスの追随者はイエスとその教えに対する認識をどのように表わしましたか。
8 イエスの足跡に従った人々は正しい認識をもってイエスのことばを反復し,それを記録し,また他の人々に伝えました。そして自らもイエスの教えに従って生活したのです。そうした人々の中に使徒パウロがいます。パウロはイエスの教えを自分の耳で聞くことはできませんでしたが,今日のわたしたちと同じように,それを読むことができました。パウロが神聖な物事をどのように評価したかを考えましょう。こうしるされています。「さきに我が益たりし事はキリストのために損と思ふに至れり。しかり,我はわが主キリスト・イエスを知ることの優れたるために,すべての物を損なりと思ひ,彼のためにすでにすべての物を損せしが,これをあくたのごとく思ふ」― ピリピ 3:7,8。
9 宣教の務めに感謝したパウロのことばから,わたしたちはどんな益を受けますか。
9 このパウロは神聖な務めをゆだねられていました。そしてキリスト・イエスから受けたその務めつまり宣教の仕事の大切さを十分に認識していました。「我に能力を賜ふ我らの主キリスト・イエスに感謝す。われさきにはけがす者,迫害する者,暴行の者なりしに,我を忠実なる者として,このつとめに任じ給ひたればなり,われ信ぜぬ時に知らずして行ひしゆえにあはれみをこうむれり。しかして我らの主のめぐみは,キリスト・イエスによれる信仰および愛とともにあふるるばかりいや増せり。『キリスト・イエス罪人を救はんために世に来り給へり』とは,信ずべく正しく受くべきことばなり,その罪人のうちにて我はかしらなり。しかるに我があはれみをこうむりしは,キリスト・イエス我をかしらに寛容をことごとくあらはし,この後,かれを信じて永遠の生命を受けんとする者の模範となし給はんためなり」。(テモテ前 1:12-16)パウロがこうした事柄を細かに書いたのは,彼の謙そんさの表われです。そしてわたしたちはパウロが書いた事柄に感謝します。わたしたちもこれまでの全生涯を通じて,必ずしも神の神聖な事柄を知り,そのみこころをわきまえて歩んできたわけではないからです。それで過去の経歴に関係なく,大切なのは,神のみこころを知った時に何を行ない,宣教の務めが差し伸べられた時にどう応ずるかということです。あなたはパウロと同じような認識をいだいていますか。
10 わたしたちは神聖な奉仕をどのように行なうべきですか。
10 宣教は神聖な奉仕のわざであり,わたしたちの崇拝の一部です。使徒パウロは真理を学び,エホバの御心を行なうため誠実な態度で自らをささげました。わたしたちも同様の道を取ることを勧められています。神聖な物事に対する認識のゆえに,神の御心を行なうことを求めるのです。しるされた神のみことばに従って理性的に判断するとき,これ以外に進む道のないことを理解できます。パウロは自分の兄弟たちに対し,神聖な奉仕を続けるようにと訴えました。「したがって,兄弟たちよ,神のあわれみによってあなたがたに願う。あなたがたのからだを,神に喜ばれる,生きた,清い犠牲としてささげなさい。これはあなたがたの理性の力で行なう神聖な奉仕である。そして,この事物の体制にそって形造られるのをやめなさい。むしろ,神の,善良で,好ましく,かつ完全な御心をわきまえ知るため,心を作り変えて,自分を新たにしなさい」。(ロマ 12:1,2,新)神聖な奉仕と崇拝をささげるとは,エホバに対して専心の献身をすることです。パウロはそのことを知っていました。イエスの受けた誘惑について知り,またヘブル語聖書に通じていたからです。イエスが誘惑を受けた時のことについて,マタイ伝 4章10節はこうしるしています。「そこでイエスは彼に言われた。『サタンよ,離れ去れ!「あなたが崇拝しなければならないのは,あなたの神エホバであり,あなたは彼のみに神聖な奉仕をささげなければならない」と書いてある』」― マタイ 4:10,新。
会衆
11 イエスとパウロは会衆に対する認識をどのように表わしましたか。
11 使徒パウロはこれだけでなく,仲間の奉仕者たちを神から与えられていることに対しても正しい認識をいだいていました。「わたしは祈りの中でいつもあなたを思い,自分が先祖たちにならい,清い良心をもって神聖な奉仕をささげている神に感謝している」。(テモテ後 1:3,新),「わたしはあなたがたがキリスト・イエスにあって神の過分の恵みを受けているのを見て,常に神に感謝している」。(コリント前 1:4,新)パウロは仲間の奉仕者たちが神の神聖な資産の一部であることを認識していました。地上におけるイエスの仕事の一部が,一致して清い崇拝を推し進め,神の御心を行なう人々の会衆もしくは組織を作ることであったのを知っていたからです。この会衆を構成する人々は神の聖霊によって油を注がれ,神の子として受け入れられます。この14万4000人から成る油を注がれたクリスチャンまたイエスの足跡に従う人々の集合体は,小羊キリスト・イエスの妻として描かれています。(黙示 19:7)キリストはこの会衆を養い,またいつくしみ,そのためにご自分の命をさえ犠牲にされました。(エペソ 5:25-29)したがって会衆は神聖なもの,深い認識をもって見るべきものであり,その成員すべては兄弟どうしとしての互いの交わりの価値を十分に認識しなければなりません。―使行 20:28。
12 イエスとパウロの例を考える時,わたしたちは会衆に対する認識をどのように表わせますか。
12 このクリスチャン会衆を構成する人々は今日でも地上に存在しています。そして,その人々とともにいるのは「他の羊」の大群衆です。地上の目に見えるエホバの組織はエホバの霊の導きの下に運営され,エホバの清いみことばにかたく従っていますから,神の資産とみなさねばなりません。いずれの土地にあるものにせよ,献身したクリスチャンの群れと交わること,なかんずく今の時代にあって会衆内の他の人々に愛を示すことができるのは,わたしたちの誉れです。地上におられたイエスは,献身したクリスチャンの集合体を構成する人々と自らともにおられました。それでイエスが今日地上におられるとしたら,同じ方法で神の取り決めに対する認識を表わされるにちがいありません。しかし,天の地位についておられても,イエスは,その大小にかかわりなく,集合したしもべたちの群れの益と必要とを顧みておられるのです。(マタイ 18:20)それで今日のクリスチャンは主の模範をあおぎつつ,いつも互いに交わることによって,会衆に対する認識を表わすのです。そして使徒パウロはそのことを勧めています。「約束し給ひし者は忠実なれば,我らは言ひあらはす所の望を動かさずして堅く守り,互に相顧み愛とよきわざとを励まし,集会をやむるある人の習慣のごとくせず,互に勧め合ひ,かの日のいよいよ近づくを見て,ますますかくのごとくすべし」― ヘブル 10:23-25。
13 会衆の取り決めから得られる益にはどんなものがありますか。
13 しるされた神のみことばに対する認識を示す最善の機会は,会衆と交わる時にあるのです。会衆の集会においては神のみことばを研究するからです。神のみことばはまた,個人的な勉強,および神の取り決められたわざつまり御国の良いたよりの伝道の際にも用いられます。真の会衆は御国に対する正しい認識を持つゆえに,終わりが来る以前に行なうべきすべての国の民への証しとして,御国の良いたよりを全世界に伝道しています。これは神が取り決められた仕事です。―マタイ 24:14。
祈り
14 なぜ祈りの価値を認識すべきですか。
14 会衆のために祈ったのはパウロだけではありません。イエスはエホバを崇拝する人々の群れに対する認識を祈りによっても示したのです。ヨハネ伝 17章にあるイエスの祈りは,エホバのお目的と会衆の福祉とを考慮に入れています。「今より我は世にをらず,彼らは世に居り,我は汝にゆく。聖なる父よ,我に賜ひたる汝の御名の中に彼らを守りたまへ。これ我らのごとく,彼らの一つとならんためなり。我はみことばを彼らに与へたり,しかして世は彼らを憎めり,我の世のものならぬごとく,彼らも世のものならぬによりてなり。わが願ふは,彼らを世より取り給はんことならず,〔悪しき者〕より免れさせ給はんことなり。我かれらのためのみならず,そのことばによりて我を信ずる者のためにも願ふ」。(ヨハネ 17:11,14,15,20,〔欄外注〕)この神聖な会衆の存在と成長は天の父エホバの助力と祝福に全く依存していました。わたしたちはエホバから独立して働くのではありません。イエスが祈りの特権を認識しておられたことはわたしたちの注目すべき事柄であり,わたしたちは日常の生活においてこの手本にならうべきです。いつも祈ることは,神聖な奉仕において成功するための条件です。あなたは日ごとに祈りをしておられますか。―ヨハネ 16:23,24。テサロニケ前 5:17。
献身
15 献身とバプテスマはなぜ大切ですか。
15 その重大さを大いに認識しなければならない別の特権は献身とバプテスマです。この点で手本を示し,ご自分の追随者が同じ正しい道を取るようにされたのはイエスです。「ここにイエス,ヨハネにバプテスマを受けんとて,ガリラヤよりヨルダンに来り給ふ。ヨハネこれを止めんとして言ふ『われは汝にバプテスマを受くべき者なるに,かへって我に来り給ふか』イエス答へて言ひたまふ『今は許せ,われらかく正しき事をことごとくし遂ぐるは当然なり』ヨハネすなはち許せり。イエス,バプテスマを受けて直ちに水より上り給ひしとき,みよ,天ひらけ,神の御霊の,はとのごとく降りておのが上にきたるを見給ふ。また天より声あり,いはく『これは我がいつくしむ子,わがよろこぶ者なり』」。(マタイ 3:13-17)さらに,イエスはご自分の死後にもこれを続けるべきことを明らかにされました。マタイ伝 28章19,20節でこう指示されたからです。「されば汝らゆきて,もろもろの国人を弟子となし,父と子と聖霊との名によりてバプテスマを施し,わが汝らに命ぜしすべての事を守るべきを教へよ」。この神聖な取り決めに対する認識を示す人々は,御国支配の下での祝福を受けるでしょう。
16 人はいつバプテスマを受けるべきですか。
16 他の幾つかの神聖な事柄に対する認識が献身とバプテスマに先行しなければなりません。人はまず神の御心を学ばねばなりません。しかし,バプテスマにかゝわる神聖な真理をひとたび認識しはじめたなら,イエスの模範にならった道を進んでバプテスマを受けるべきです。これは人が会衆の一員となるための取り決めであり,しり込みするのはこの神聖な取り決めに信仰と認識を表わすことではありません。あなたはすでに献身されましたか。
聖霊
17 わたしたちはなぜ聖霊に対する認識をもつべきですか。
17 イエスの指摘されたとおり,正しい仕方でバプテスマを受ける人は,まず,父と子と(およびその子によって備えられたあがないの犠牲),また神の聖霊の働きとに対して正しい認識をもっているでしょう。聖霊つまり神の活動力は深い配慮と敬意とをもって見るべきものです。これは神聖なものだからです。聖霊によって数多くの力あるわざがなされてきました。聖霊は創造の際に用いられました。(創世 1:2。詩 104:30)聖霊は預言の背後にある力となっています。(使行 28:25。ペテロ後 1:21)聖霊はイエスの奇跡的な誕生と結びついていました。また聖霊は人が神に仕え,良いたよりを伝道するための力です。(使行 2:1-4。マルコ 13:11)イエスは地上におられた時,聖霊によって数々の奇跡を行なわれました。イエスは御国によって諸国の民がいやしを受けることのしるしとして,悪霊に取りつかれた者,盲人,おし,病気の人などをいやされたのです。しかしパリサイ人はこれを批判しイエスが悪魔の力に動かされていると語りました。こうしてパリサイ人は聖霊に対する認識の欠如をあらわにしただけでなく,イエスの言われた許されることのない罪を犯したのです。「このゆえに汝らに告ぐ,人のすべての罪とけがしとは赦されん,されど御霊をけがすことは赦されじ。たれにてもことばをもて人の子に逆ふ者は赦されん,されどことばをもて聖霊に逆ふ者は,この世にても後の世にても赦されじ」― マタイ 12:31,32。
18 イエスの行なわれた事柄に対する認識の欠けた例をあげなさい。
18 イエスの奇跡の意義を認識しなかったのはパリサイ人だけではありません。イエスによって実際に病気をいやしてもらった者の中にさえ,そうした神聖な事柄に対して正しい認識を示さない者がいました。「ある村に入り給ふとき,十人のらい病人これにあひてはるかに立ち止まり,声をあげて言ふ『君イエスよ,我らをあはれみたまへ』イエスこれを見て言ひたまふ『なんぢら往きて身を祭司らに見せよ』彼ら往くあひだに潔められたり。その中の一人,おのがいやされたるを見て,大声に神をあがめつつ帰りきたり,イエスの足下にひれ伏して謝す。これはサマリヤ人なり。イエス答へて言ひたまふ『十人みな潔められしならずや,九人はいづこにあるか』」。(ルカ 17:12-17)これは驚くべきことではありませんか。振り返って感謝と認識を示したのは10人のうち1人だけでした。主キリストの千年統治の終わり,サタンが獄から解きはなされる時にも,御国統治の下でもろもろの民になされるいやしに対して認識を示さない者が少なからずいるでしょう。―黙示 20:7-10。
数知れない恵み
19 今日,神のしもべが認識をもつべき神聖な事柄を幾つかあげなさい。
19 あなたは自分に益となっている神聖な事柄を幾つかあげることができますか。わたしたちはここでほんの数例を取り上げたにすぎません。エホバのしもべが受けている数々の有益なものの中には,真理,光,エホバのお目的の理解などもあります。世の人々が霊的な暗黒の中で模索しているのに対し,エホバのしもべは神の預言のことばに導かれ,前途に何があるかを知っています。それで彼らにはなんの恐れもありません。「したがって預言のことばはわたしたちにいっそう確かなものとされたのである。夜が明けて明星が上るまで,自分の心の中で暗い所に輝くともしびとして,あなたがたがそれに目をとめているのはよい。あなたがたはこのことを知っている。すなわち,聖書の預言はみな私的な解釈から出たものではない。預言はどんな時にも人の意志から出たものではなく,人々が聖霊にささえられ,神によって語ったものである」― ペテロ後 1:19-21,新。
20-22 詩篇 107篇にしるされるとおり,エホバは人間のためにどんなすばらしい事柄を行なっておられますか。
20 エホバのなされた事柄すべてに対する良い認識の例として詩篇 107篇をあげることができます。その8,15,21,31節には,エホバの神聖なみわざをたたえる次のことばがくり返されています。「願くはすべての人はエホバの恵により人の子になしたまへるくすしきみわざによりてエホバをほめたたへんことを」。エホバはご自分の創造物の益のためにほんとうに多くのことをなされたのです。エホバが被造物の必要また苦難に対して無関心な態度を取られたことはありません。エホバは偉大な救済者また解放者であられるのです。「かくてその困苦のうちにてエホバを呼はりたればエホバこれを患難よりたすけいだし,住まふべき邑にゆかしめんとて直き路にみちびき給へり」― 詩 107:6,7。
21 わたしたちはエホバの深いあわれみと与えてくださる許し,またエホバに仕えようとする者を顧み,その心をいやしてくださることに対しても感謝しています。被造物が自分のあやまちを悔い改めるとき,エホバはその者に対して偉大な和解者となられます。「そのみことばをつかはしてこれをいやし これをその滅亡よりたすけいだしたまふ」― 詩 107:20。
22 エホバはまた霊的に健全な食物すべての供給者でもあられます。そのしもべが忠誠であれば,エホバはその者を霊的に豊かにされるのです。そのしもべたちがエホバの神聖な物事に対して感謝と認識のことばを語るとき,エホバはそれを喜ばれます。今日のエホバのしもべたちが,詩篇 107篇35-38節に預言的に描写された霊的な繁栄にはいったのはそのためです。「野を池にかはらせ,乾ける地をいづみにかはらせここに餓えたるものを住まはせたまふ,さればかれらは己がすまひの邑をたて 畠にたねをまき葡萄園をまうけてそのむすべる実をえたり エホバはかれらのいたくふえひろがれるまでに恵をあたへそのけだもののへることをも許したまはず」。
23 今日,神のみことばと神が備えてくださるものとに対して正しい認識をもつべきなのはなぜですか。
23 エホバの神聖なみことばの価値を認識せず,それを活用しない者は,エホバのしもべたちにある霊的繁栄,信仰,喜び,希望,自由,安全などを得ることができません。神の神聖なみことばに対して正しい認識をいだくことには実に多くの益があるのです。その律法に従うなら,神から与えられたからだに注意し,健康を守ることにもなります。また,正しいことを行なう結果として清い良心をもち,家族関係を良いものにすることができます。そして,この事物の体制から離れていることの大切さをいつも銘記することができるでしょう。このすべては神のみことばをいかに活用するかにかかっています。神のみことばに従えば悪に巻き込まれることを避けられるのです。「しかし,堅い食物は,使用して識別力を訓練し,善と悪とを見分ける円熟した人々のものである」。(ヘブル 5:14,新)イエスがマタイ伝 5章3節で言われたとおり,自分に霊的なものの必要なことを認識している人は幸福を得ます。わたしたちはエホバが霊的に必要なものを備えてくださることに対して感謝しています。わたしたちはエホバのみことばに照らして物事を評価し,エホバのみことばについてより深く学ぶ機会を求めます。そして,エホバがご自分のしもべにいつも目を注ぎ,いつも保護してくださることに対して感謝しています。エホバの民は,テモテ後書 3章2節に述べられた,感謝と認識の欠けた今日の人類社会と,大きな対照をなしているのです。
24 エサウの行ないがわたしたちへの戒めとなることを述べなさい。
24 霊的な啓発が大いに与えられている今日,感謝の心をもたないのはきわめて危険です。認識の欠けていたエサウの例を忘れてはなりません。エサウはエホバの神聖な取り決めに対して無関心な態度をとりました。エサウが死んでから幾世紀ものち,クリスチャンが神聖な物事に対する認識をもつべきことを強調した勧めの中で,エサウの例が引き合いに出されています。パウロはヘブル書 12章16,17節の中でこうしるしました。「また,淫行の者,あるいはエサウのごとく神聖な事柄に認識をもたない者などが現われないためである。エサウは一度の食事と引き替えに長子としての権利を捨てた。あなたがたの知るとおり,のちに彼は祝福を継ごうとしたが退けられ,涙を流して心変わりを熱心に求めたが,入れられなかったのである」。(新)
25 とるべき賢明な道はなんですか。
25 したがって,賢明な道は神聖な物事を大切にし,それを請い願う気持ちをもつことです。エサウその他の聖書中の例を忘れないなら,悲しい結果や後悔を避けることができるでしょう。真に価値のあるものを見失ってはなりません。それに対する認識をつちかうことに努めなさい。「銀を求めるごとくにそれを求め続け,隠れた宝をさがすごとくにそれをさがし続けるなら,あなたはエホバを恐れることを悟り,神を知ることができるであろう」。(箴言 2:4,5,新)これははっきりしたことばです。わたしたちが求め続けるなら,わたしたちは,物事の価値を認識でき,悟りを得て神を知ることができます。エホバがそれを保証しておられるのです。そしてわたしたちは自らエホバに目をとめつつ,他の人々が神聖な物事に対する認識を深めるのを助けることもできます。「すべてさとき者はこれらのことに心をよせエホバのあはれみをさとるべし 願はくはすべての人エホバの恵により人の子になしたまへる奇しきみわざによりてエホバをほめたたへんことを」― 詩 107:43,31。