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わたしたちは神への奉仕を第一にしたものみの塔 1976 | 8月1日
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たので,近くにある近代的な病院に入れました。わたしたちはそこを訪れて,定期的に息子を見舞うことができます。ですから,他の息子たちすべてが開拓奉仕するために親元を離れると,1970年には妻が開拓奉仕を始める機会が開けました。妻は長い間それを目標にしてきました。家族の者たちは皆,エホバへの奉仕に対する彼女のそうした熱意を高く評価しています。
エホバの豊かな祝福を味わう
家族の者が全時間宣べ伝える業を楽しめるよう助けることが常にわたしの願いでしたから,そのために自分の世俗の仕事に調整を加えました。1967年に国鉄の総裁は,わたしにヘルシンキへ来て一部門を管理し,理事の一人になるよう要請しました。わたしは二つの条件の下にその要請に応じました。
第一の条件は,会衆の週末の集会に間に合うように帰宅するため,週末早目に仕事を切り上げるということでした。そして第二は,必要と思われる機構上の改革を成し遂げた暁にはセイネヨキでの従来の職に戻れるようにという条件でした。ところが六か月後に,副総裁になるようにとの招きを受けたのです。わたしは,以前と同じ条件で,この昇進に応じました。
この新しい地位に就いたお陰で,他の方法では王国の音信を伝えることのできないような人々に証言をする多くの機会に恵まれました。また,ヘルシンキで借りたアパートは,フィンランドの方々からヘルシンキへ訪ねて来たり,大会に出席しに来たりする,開拓者である子供たちの基地となりました。同時に,わたしはなおセイネヨキでの会衆の責任を果たせましたし(もっともそれには幾度も往復しなければなりませんでした),妻には開拓奉仕をするための時間が十分にありました。
しかし,数年後,わたしはセイネヨキに戻ってそこに定住すべき時が来たと判断しました。そこで,わたしたちが交わした同意事項に総裁の注意を向けました。総裁はそれをよく覚えていましたが,わたしが実際にそのような高い地位を捨てて,元の仕事に戻るなどとは全く考えていませんでした。1973年にわたしが実際にそうしたとき,それは注目の的となり,フィンランドの主要各誌は,エホバの証人に好意的な記事を掲載しました。
ここセイネヨキにある会衆はとても順調に拡大し,1961年にわたしたちの家と同じ区画に建てた王国会館が手狭になりました。それで昨春,60人の王国伝道者から成るわたしたちの会衆は,市当局から広々とした一区画の土地を借り受け,新しい王国会館を建て始めました。驚くべきことに,この大きくて美しい会館は,九月の初めまでに,六か月足らずで完成しました。
王国会館の献堂式はわたしにとって特に心温まるものとなりました。というのは,いっぱいになった王国会館を見回して,自分たち夫婦と三人の子供たち,そしてその配偶者の合計八人の家族がそこにいるのを見ることができたからです。わたしたちの家族のうち,六人は開拓者として,そして二人はベテルで,それぞれ奉仕しているのです。
今,思い起こしてみると,わたしと妻は,父がしてきたように,そして現在子供たちがしているように,神への奉仕において本当に幸福で目的のある生活をしてきたと言えます。さらにわたしたちは,将来神への奉仕において受ける数多くの祝福を楽しみにしています。エホバに仕えるようにとの招きを受け入れるなら,エホバは必ずご自分の約束を果たされます。古代の預言者が記録している次の言葉のとおりです。「これをもってわたしを試み,わたしが天の窓を開いて,あふるる恵みを,あなたがたに注ぐか否かを見なさい」。(マラキ 3:10,口)― 寄稿。
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『いばらの生けがきのような道』ものみの塔 1976 | 8月1日
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『いばらの生けがきのような道』
◆ 箴言 15章19節(新)は,怠惰な者の道は「いばらの生けがき」のようである,と述べています。これは怠惰な者が,何をするにも困難な問題やいばらの道を連想し,それを自分の怠慢の口実にすることを意味しているようです。
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